がちゃがちゃと忙しなく響いていた音が、唐突に止まった。
「バンリ、これはなんだ?」
 問う声に振り返ってみると、視界の先で狐色の尻尾が揺れる。視線をそのまま横にずらすと、その持ち主である銀髪の少女――アリアの手が、まさに幾重にも折りたたまれた紙切れを広げているところだった。
 いつもはあちらこちらへ動いて落ち着きのない空色の瞳が、真っ直ぐに手の中の紙切れに向けられている。
 どうやら、先ほどからひっくり返していた亡き祖父の『おもちゃ箱』の中から、面白そうなものを見つけたらしい。
 広げた弾みに破けてしまってもおかしくはなかったのだが、『物は大切に扱いなさい』と先日少しきつく叱ったのが効いたのだろう、アリアは床の上にそれを置き、両手で丁寧にしわを伸ばしている。
「これはまた、ずいぶんと懐かしいものを見つけたじゃないか」
 その様子が微笑ましくて思わず目を細めてしまいながら、バンリは横からひょいとその紙切れを覗き込んだ。
 それは日に焼けて褪せてしまった古い地図だった。ところどころ擦り切れて、折り跡が破れかけてしまっている部分もある。
 アリアの目は、すでにその紙切れに描かれた線を追いかけていた。
「おまえが描いたのか? なんだこの落書きは」
 そこに描かれていたのは、彼女が落書きだと思うのも無理はないような、いびつな形の線だった。右側はやや円に近い形をしており、左側は端の方で線そのものが途切れている。そしてあちらこちらに飛ぶようにつけられた目印のような点と、そばに書き込まれた文字の連なり。言うまでもなく、文字が示しているのは町の名前だ。これらもまた、日に焼けてだいぶ掠れてしまっていた。
「僕が描いたんじゃないよ、アリア。それは地図というんだ」
「ちず? ……地図とはなんだ?」
「世界の形をこんな風に、紙に描いたもののことさ」
 バンリにとっては必需品と言えるほどに馴染みのあるそれも、初めて見るアリアにとっては珍しいことこの上なかったらしい。空色の瞳が見た目どおりの子供のようにきらきらと輝いているように見えて、バンリはそっとこみ上げてくる笑いを飲み込んだ。
「……落書きとは違うのか」
「そう見えるのも無理はないな。この辺りが今、僕らがいるところ」
 バンリは、地図上に散りばめられた点の一つを指差した。右側の円のさらに右下の端に近いところに点が打たれ、『シャンティ』と書かれている。
「……で、シャリオン島は今はだいたいこんなものかな……僕もそこまで地理に詳しいわけじゃないんだけど」
 アリアの見ている目の前で、バンリは地図上の円の中に二周りほど小さな円を指先で描いた。
 それを見たアリアが、むっと眉を寄せて難しそうな顔をする。
「この地図はうそをついているのか? ここはおまえの言うように、島じゃないか」
「いや、うそをついているわけじゃないんだ、アリア。昔……うんと昔は、シャリオン島とユグ・オール大陸は陸続きだったんだよ。この“落書き”のとおり、地面がつながっていたんだ」
「つながっていた……歩いて渡ることができたのか?」
 バンリはそうと頷いて、自分なりに理解することができたらしいアリアの頭をぽんとなでてやった。
「今でもつながってはいるんだけど、間に海があるだろう? 海の水が増えて、つながっていた部分を覆ってしまった。だから、ここはユグ・オールの一部ではなくなった。シャリオンという新しい名前が与えられて、一つの島になったんだ」
「そうか……海が間に入ったから、この島は大陸から切り離されてしまったのか」
 納得した様子で、アリアは確かめるように呟いた。それから少し考えて、小さく、続きを口にする。
「……なんだか、ああ、さみしい……うむ、寂しいだな」
「寂しい? ……なぜだい」
 バンリはゆっくりと問いかけた。
「会えなくなってしまうじゃないか」
 心が何かに掴まれてしまったような悲しげな顔をして、アリアは声を絞り出すように言った。
「……会えない?」
 バンリはふと口をつぐんで、彼女の言葉について考える。
『誰に』会えなくなるのかは、わからない。もしかしたら、『何に』なのかもしれない。
 離れ離れになった誰かを、あるいは何かを思ったのか。アリアの心の奥深いところまでは察せられなくとも、彼女がこちらに伝えようとしているものは、本当に何となくではあるがわかるような気がした。
 大陸と島を隔てる海は、決して小さなものではない。手を伸ばしても届かない距離であるのは考えるまでもなく、そもそも姿どころか対岸さえ見えない。
 一言で言うならば、会いたくとも会えない――確かに、それは『さびしい』のかもしれない。
 バンリはそう思いながらアリアの頭をもう一度なでた。そのまま彼女の小さな身体を引き寄せて、胡坐をかいた膝の上に乗せる。ふくらんだ尻尾ごと包み込むように抱き締めると、わずかに身じろぎはしたものの、アリアはおとなしく身を委ねてきたようだった。
「アリア。そのために、船があるんだよ。……道そのものは歩いて渡れなくなってしまったけれど、人はその上を船に乗って渡ることができる。だから、会いにだって行けるさ。なんなら……泳いだっていい」
「わたしは船に乗るのが好きだぞ!」
 どうやら泳ぐのは得意ではないらしい。もしかすると、水が苦手なのかもしれない。あまりにも正直なその様子に思わず小さく吹き出してしまいながら、バンリは今度はこらえたりせずに、肩を揺らして呼気で笑った。
「泳ぎ方くらいは教えてやれるさ。僕だって泳げるんだぞ、アリア」
「せ、精霊は泳がなくとも生きていける!」
 尻尾がぶるりと震えたのを感じて、バンリはとうとう声を出して笑い始めた。その様子に、アリアはますますむきになったようだった。
「言っておくが、怖いわけではないんだぞ! そ、その、泳ぐと身体が縮むという呪いがわたしにはかけられていてだな!」
「……精霊は呪われたりしないんじゃなかったのかい」
「の、呪われる呪いもまったくないわけではないんだ! きっとそうだ! いいか、わたしを海に放り込むと、バンリ、おまえが怖い夢を見るぞ!」
 威勢はいいが少々上擦っている声に、無論バンリはまったく動じない。他でもない彼女が見せてくれる夢ならば、それこそ、彼にとっては楽しみ以外のなにものでもなかった。
 海に放り込まれる自分でも想像してしまったのだろう、アリアは必死にバンリの腕から逃れようともがいているが、バンリはますます彼女を抱き締める腕に力を込めて、その小さな身体をがっちりと固定するばかりである。
「まあ、泳ぐ泳がないはともかく。海の向こうに会いたい人がいるなら、どこでも、僕がきみを連れていってやるさ。……そういう契約……約束だろう?」
「それは……確かにそうだが」
 笑う表情に幾許かのやわらかさを交えて、バンリはふと、息をゆるめアリアを見た。
「…………」
 彼女がなにやら考えているらしい気配を感じ取り、その答えをじっと待つ。急かしたりなどしない。そうする必要は、まったくないからだ。
 やがて、アリアが口を開き、ぽつぽつと言葉を落とし始める。
「……わたしは、人にばれて、使われるだけの存在だ。だから、わたし自身が、会いたい誰かがいるというわけじゃないんだ」
 バンリはそんな彼女の言葉に、それを遮らぬ程度の相槌を挟みながらじっと耳を傾けていた。
「ただ、“会えなくなってしまうのはさびしい”と思っただけで……でも、会えるのなら、別に問題はない。……問題はないぞ」
 つまりは、陸と島とが隔てられるという例えこそあったものの――根本的な部分まで掘り下げていくと、いかなる理由があるとは言え、『会えなくなってしまうことそのもの』がさびしいということなのだろうか。
 それならば、答えは思っていたよりも難しくはなさそうだった。
「……会えるだろう、こうして。アリアは僕のそばにいるし、僕はアリアのそばにいる。僕がアリアのマスターなら、アリアは、僕のそばからは決して離れない。……そうだろう?」
「うむ。おまえにしてはものわかりがいいじゃないか」
 ものわかりがいいのはどっちだとバンリは思う。やっぱり微笑ましくて、またなでてやる。指先は、先程までよりも少しだけ強くふわふわの耳の付け根に触れ、そのままさらさらの髪の間をすべって落ちた。
「わ……わたしで遊ぶなと、何度も言っているはずだぞ」
「遊んでいるわけじゃないさ。いつ、こんな風に触れられなくなるかわからないんだから」
 それは彼らにとってはそう遠くないうちに確実に訪れる未来であって、バンリはその事実をやんわりと述べただけだった。それなのに、アリアが彼を見上げる眼差しは、また、心が何かにつかまれてしまったかのようなそれだった。
 バンリは吐き出す息と共にかすかに笑って、アリアの頭にぽんと手を置いた。
「まあ、僕がそうやすやすときみを手放すつもりもないのは、本当だよ」
 その言葉に、アリアは一瞬だけ驚いたような表情を覗かせたが、すぐにそれを満足げな深い笑みに変えて大きく頷いた。
「それでこそ、わたしが認めた男だぞ、バンリ」
「ありがとう、アリア」
 少女の頭をゆっくりとなでながら、穏やかな声で、バンリは告げた。
「これはね、“道”なんだ」
「……道……」
 繰り返すアリアに、頷いてみせる。
「そう。地図というのはね、アリア。実際にこの世界を形作る道に沿って歩いた人が、それを細かく記録して、記録したものをさらに集めて一つにまとめて――そんな風にして、作り上げたものなんだ」
「…………」
「わかるかい? 地図を作るために世界を歩いていた、たくさんの人の道が、このたった一枚の地図につながっているんだよ」
 まるで昔話を読む時のように、バンリはゆっくりと語る。
 アリアの落とした吐息には、幾許かの感嘆めいたものが混ざりこんでいるようだった。
 それはバンリが想像するだけでも、途方もないことだった。
 ましてや、この世界の広さをまだ知らないアリアにしてみれば、なおさらだろう。
 どれほどの人々が、どれほどの歳月が、このたった一枚の地図に注ぎ込まれたというのか。
 しかも、目の前にあるのはそんな集大成のごく一部である。
「バンリ、でも、この地図はうんと昔のものなのだろう? “じじさま”は、なんで、こんな古いものを大事にしまっていたんだ?」
 彼女がそう思うのも、もっともな話ではあった。
 この地図は作られた年代そのものがとても古い。島と大陸とをつないでいたはずの道は海によってふさがれ、また、島の形も大陸の形も、町の名前も、今とはだいぶ変わってしまっている。地図に載っていない新しい町もあれば、地図に載っているのに実際にはなくなってしまった町もある。
 地図としての役目をこの紙切れに求めるのは、もはや難しい話だろう。
 バンリは少し考えて、
「本当にそうかはわからないけれど……」
 そう前置きをしてから、続けた。
「憧れていたんじゃないかな」
「……あこがれ……?」
 バンリはゆっくりと頷いた。
「この地図が作られた当時のことは、僕達はもちろん、爺さんだって知らない。……こういった、当時を生きていた人が残してくれたものから、想像するしかない。どんな時代だったのか、どんな世界だったのか。例えば、この地図を作ったのはどんな人だったのだろうか……とかね」
「想像しても、昔に戻れるわけじゃないじゃないか。それなのに、あこがれるのか?」
「アリアには少しむずかしいかもしれないな。人間っていうのはさ、そういう、想像とか空想とか、そういったものが大好きな生き物なんだよ」
「むずかしいな。……わたしにはむずかしいことはわからないが……じじさまがすごい人だったというのは、わかるぞ。何と言っても、このわたしを喚ぶほどの力を秘めていた男だったからな。あと……腹が減ったというのもわかる!」
「……腹?」
 バンリが首を傾げた瞬間、アリアの腹の虫がきゅる、と情けない声で鳴いた。
 見れば壁の時計はちょうど三時を指している。
「……っ、はは、アリアの腹時計は正確だな」
「わ、笑うな! 腹が減るのは自然の摂理なんだから、仕方がないじゃないか!」
「自然の摂理なんて言葉、どこで覚えてきたんだい、アリア。……まあ、ちょうどきりもいいし、おやつの時間にしようか。何か作ろう。食べたいものはある?」
 笑いながら、バンリはずっと腕の中に閉じ込めていた少女を解放した。ひょいと飛び降りたはずみに、ふさふさの狐の尻尾が、バンリの頬をなでてゆく。それがくすぐったくて、バンリはまた、笑ってしまった。
「ホットケーキ! ホットケーキが食べたいぞ! バターとはちみつをたっぷりつけて食べるんだ!」
 言うが早いか、アリアは我先にと居間へかけてゆく。
「あ、こら。後片付けを……って、遅いか」
 バンリが声を上げる頃には、もう尻尾の先すら見えなかった。
 仕方なくというわけでもないのだけれど、行ってしまったアリアの代わりに、床の上に広げられたままの地図を折り目にそって丁寧にたたむ。

 亡き祖父がまだ元気だった頃――バンリがまだ幼かった頃、彼がこの地図を常に懐に忍ばせていたのを、バンリは知っている。
 知っていたから、幼かったバンリは何度も何度もそれを見せてくれとせがんで祖父の周りを離れなかった。
 仕方がないと言いながら、祖父もまたこの地図を見るのが好きだったことも、バンリは知っている。
 今の地図と照らし合わせて、バンリは、多くの地名を覚えた。
 今と名前が変わってしまっている町ももちろんあるが、元々使われていた名前も、たくさん覚えた。

 祖父は偉大な旅人だったと、バンリは思っている。
 英雄のような活躍をしたわけではない。歴史に名を刻むような偉業を成し遂げたわけでもない。だが、祖父はその手と足を使って、世界中に様々なものを遺してきた。
 実際に手元にある遺品だけではなく、亡くなって一年が過ぎる今でも世界中から届く手紙や贈り物の数々が、そのことを証明してくれている。
 遺してくれたものと言えば、今はバンリの傍らにあるアリアの存在もまた、そうだ。
 晩年の祖父が最後の旅から帰ってきた時に、新しい家族だと言って預けてくれた小さな銀色の狐。
 それがアリアだった。
 バンリは、その時のことを今でも鮮明に覚えている。
 それは、バンリが生まれて初めて精霊と出会った瞬間だった。

 アリアと出会ってから、三年が過ぎた。
 祖父が亡くなってから、一年が過ぎた。
 そしてバンリは、これから、かつて祖父が辿った道を追って、彼の遺した足跡を辿るための旅に出ようとしている。

 どうしてそんなことを急に思い立ったのか、自分でもよくわかっていない。
 だが、そのきっかけとなる出来事はいくつかあった。
 祖父が亡くなって一年が過ぎたこともそうだし、アリアと出会ったこともそうだ。
 彼がどのような道を歩いて世界を巡ったかを知りたかったし、何より――なぜ彼がアリアを召喚し、それを自分に託したのか。そのことだって、知らなければならない。

 バンリはたたんだ地図を箱に戻すと、小さく息をついて立ち上がる。
「追いつきたいと言ったら、あんたはきっと笑うんだろうな、爺さん」
 もう追いつけないところに行ってしまった人を思って、バンリは少しだけ、困ったように笑った。
 今更問うたところで、答えてくれるべき人はこの世界のどこにもいない。
 それでも、バンリは問いかけずにはいられなかった。

『あなたが遺した道を辿れば、いつかあなたに追いつけるだろうか』

 その答えは、遠く果てしない道の先にある。



Fin.



20090701(初稿)/20091001(加筆修正版)

BackTopIndex

Copyright (C) Haruka Sagiri All rights reserved.