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第二章 嵐の後に


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 扉を開けた途端に何とも香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。その匂いの元たる鍋の側にいる人物が、扉のほうを振り向いて笑う。オズウェルの隣に立つ少女によく似た面差しと笑みだ。
「お帰りなさい、二人とも……あら、先生は一緒じゃないの?」
 シアの母、ティナ・マール・ティオラータは、そう呟いて首を傾げた。シアと同じく、腰の辺りまで伸びた空色の髪と瞳を持つ女性である。シアもまた、辺りを見渡しながら首を傾げる。扉を開ければ彼女の両親を差し置いてまで真っ先に出迎えてくれるはずの人物が、どこを見ても見当たらない。
「先生、まだ帰ってないの? しょうがないわね、せっかく今夜はメルルのシチューだって言ったのに……」
「あらあら、二人は先生がどこにいるか知ってるのね?」
「丘で別れたっきりよ? 先生のことだから、きっとお昼寝しちゃったんだわ……もう」
 シアは不満そうに口を尖らせるが、ティナは困ったように微笑んだだけだった。
「それなら、先に食べてしまいましょうか。先生も子供じゃないんだし、そのうち帰ってくるでしょう。ジェイドも今日は見回りでいないし? 久々に静かな食卓になるわね」
「もう、ママったら。どうせいつもみたいに、パパには愛情たっぷりのお弁当を持たせてあるんでしょう? それに、オズもわたしもいるんだから、十分に賑やかだと思うけど?」
 狭い部屋の中を忙しなく動き回り、シアとオズウェル、そして彼女自身のものだろう、三人分の夕食の準備を整えながら、その合間に口を挟む。
「うふふ。そうと言われたらそうだけれどね。ほら、二人とも、ぼんやりとしていないで手伝いなさいな」
 そうこうしているうちに、食卓の上にはできたての料理が次々に並べられていった。焼き立てのシィズの実のパンや、湯気の立つメルルのシチューにポルタの蒸し焼き、色とりどりのサラダとホットミルクなどである。メルルは山羊に似た姿をしていて、家畜としてごく一般的に飼われている動物だ。そのミルクも毛も生活の必需品であるが、この島では数があまり多くないため、肉は食べない。
 これでも十分に豪華だが、もっと豪華な時はメルルのチーズやオムレツまでついてくる。デザート代わりのローズベリーも、もうすぐ熟す頃合いだ。そうすればもっと華やかになる。
 どれも間近で見れば見るほど美味しそうで、匂いも食欲を煽るには申し分のないものだった。この場にヘルメスがいたならば、誰よりも顔を輝かせていたに違いない。
「オズ、ポルタの実をお願い」
 ティクルの木の薄片で編まれた大きめの笊に、蒸し上がったばかりの赤くて丸いポルタの実が三つ載せられてやって来た。運んできたのはシアで、それをオズウェルの目の前に差し出すと、笑いながら隣の椅子に腰を下ろす。オズウェルもまた席につき、傍らに置いてあった小振りのナイフを取り上げた。慣れた手つきで、へたに近い部分にナイフを差し込み、実を回しながら蓋を開けるようにへたとその周りの皮の部分を切り取っていく。シアが見ている前で三つのポルタの実の蓋はあっと言う間に開き、中から白い湯気とポルタの実の、ほのかに甘さを伴う匂いが飛び出した。
 ポルタは大人の手にちょうど収まるくらいの大きさの実だ。島の北側に広がる森に自生しており、シィズの実のパンと共に主食として食べられている。皮は硬いので、そのまま皮ごと中の実を蒸して食べるのが一般的な食べ方だ。中の実は白く、芋のような食感で腹持ちもよい。そのままでも十分に食べられる甘さだが、塩をかけて食べたり、焼いた魚の身と混ぜ合わせたり、おやつ代わりに甘くて黄色いコルンの実をまぶして食べたりもする。オズウェルはその中でも、特にコルンの実をまぶして食べるのが好きだった。
「オズくん、顔色が優れないわね? なあに、またティルトと喧嘩でもした? ……それとも、喧嘩の相手は先生?」
 木のスプーンを使って中の実をほぐしていたところに、不意を衝かれてオズウェルの手が止まった。ティナがにっこりと笑いながら、オズウェルの正面に腰を下ろす。
「……敵わないなあ、ティナさんには」
 顔色だけで言い当てられたことは、どちらも答えとしては正しいものであったから、オズウェルは力なく笑って頷くしかなかった。どう誤魔化そうとも相手は彼女だ、嘘をついても、すぐにばれてしまうのが目に見えている。
 テーブルを囲む席は五つ。シアの定位置はオズウェルの隣だ。シアの向かいの席にティナ、その隣――オズウェルの向かいにヘルメスが座り、残った一番奥の席に一家の主たるジェイドが着くというわけである。ジェイドは島の東西南北に立つ見張り塔の一つに出かけていることが多いため、狭い島ながら、夕食の席に全員が顔を揃えることは意外と少ない。
「聞いてよ、ママ。ティルトったらひどいのよ? オズだけじゃなくて、世界樹にまで火をつけようとしたんだから!」
 思い返すだけでも腹立たしいのか、シアは軽く頬を膨らませて母親に申し立てる。世界樹という単語にはティナも少しばかり驚いたようだったが、大して気にする風でもなく、口を開いた。
「だいじょうぶよ、ティルトだって、やっていいことと悪いことくらいは弁えているでしょう? いつまで経っても老ベルメールの許しが出ないから、ちょっといらいらしているだけよ」
「でも、オズが怪我したら大変じゃない」
「シアは心配性なのよ。ほら、冷めないうちに食べましょう? ……そうねえ、事情をまったく知らないティナママとしては……事の顛末をかいつまんででもいいからうかがいたいところだけど。もちろん……先生との喧嘩も含めてね?」
 いただきますと手を合わせてから、さっそくティナはメルルのシチューに手をつけた。それに倣い、オズウェルとシアもいただきますと手を合わせて食べ始める。
 オズウェルはスプーンを取り上げ、やはり、まずはシチューに手をつけた。メルルのミルクをベースにしたシチューの具は団子状に固めたポルタの実や一口サイズのニンジン、茸などで、味はしっかりと染み込んでおり、具もほどよいやわらかさに落ち着いている。いわゆる『母の味』を挙げろと言われたら、オズウェルの口からは真っ先にこれが出てくるだろう。ティナお手製のメルルのシチューを好物にしているのは、何もヘルメスだけではない。


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