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第 一 章  過 去 か ら の 使 者


4

「──お前が、フィレア・ターンゲリか」
 飛ばしていた思考が現実へと返る。
 不意にかけられた声、それが呼んだ己の名に、フィレアはその場に縫い止められてしまったかのように固まった。
 辺りを満たしていたはずの街の喧騒が一瞬にして水の底に落ちたような、そんな、錯覚。
 閉じたマントの衣ずれの音さえ耳の奥まで届きそうな、静寂。
 フィレアは声の主を探ろうと、周囲に感覚を張り巡らせる。
 その気配は、思っていた以上に近いところにあった。
「……どこから湧いて出たの」
 暗闇に向けて放った声は、自分でも驚くほどに落ち着いていた。
「気づけないほど考えごとに夢中だったのはお前のほう。……間違いねえな、フィレア」
 自然と、耳から入り胸にまで響き渡りそうな、そんな『男』の声だった。
 フィレアの背後で上がったのは、先のやり取りを見ていたと言わんばかりの笑い声。その声の主を探り当てた途端、フィレアはあからさまに怪訝そうな顔をした。
「誰?」
 振り向いたその先に立っていたのは、淡い青銀色の髪と瞳を持つ青年だった。白を基調とした浅い丈のローブに同色のズボンを履き、やはり似た色合いのマントを羽織っている。年の頃はフィレアよりもいくつか上だろうか。身の丈は女であるフィレアの頭一つ分を軽く超えていた。
 腰に一振りの剣がぶら下がっているのが見えたが、この青年が巧妙な魔術の使い手でないとも限らない。フィレアは敵意と警戒心を剥き出しにしたまま、低い声で言葉を続けた。
 マントの下に隠れている両の手は、いつでも魔術を紡げるように構えられている。
「……あんた、何の根拠があって人の名前を気安く呼ぶの?」
「親父さんに聞いてたんだ、自分とそっくりな色の髪と瞳だって言ってた。それにどうやら炎の術に長けているらしいじゃないか。……似てるよ。目の辺りとかに面影があるし、よく見りゃそっくりだ。……間違いあるか?」
 確かに間違いはない。他の誰に言われるよりも説得力があるように聞こえてしまって、フィレアは返す言葉を地面に落としていた。
 この青年は、間違いなく自分のことを知っている。
 己の出生が公にされていないことは、フィレアにとっては好都合だった。あえてフィレア・ターンゲリと名乗る必要がどこにもなかったからだ。
 事実、フィレアはずっとフィレア・サーヴァスと名乗っていたし、ギルドの登録名もこの名前である。
 偽名であることを――たとえ偽名だとわかっていたとしても――彼女の素性を疑う者など誰もいなかった。
 魔術師ギルドに名を入れるのに必要なのは、ギルドの構成員たるに相応しい魔術の素質──ただそれだけだ。たとえ王侯貴族や犯罪者が紛れていようとも、それはギルドの与り知るところではない。
 フィレアは、少なくとも『家』を出てからはずっと、フィレア・サーヴァスとして生きてきた。彼女が己の名をフィレア・ターンゲリと名乗ったことなど一度もない。
 それなのにこの青年は、初めからそうとわかっていたかのように、『フィレア・ターンゲリ』と、彼女の名前を呼んだ。それだけではなく──
「……父を知っている?」
 青年は頷いた。
「知っているさ。だからお前を探していた。さすがに、こんな遠いところにいるとは思わなかったが」
「それでもあんたはわざわざあたしを探しに来た。……それもはるばるディラリアのほうから?」
「そういうことになる。わざわざなんて思うつもりは毛頭ねえけど──そうだな……迎えに来た、と言ったほうが正しいかもしれないな」
 青年はわざと意味を含ませるように、ゆっくりと言った。フィレアは軽く眉を寄せ、憮然と言葉を続ける。
「……それはご苦労様。つまり、あたしに話があるということでしょう? でもそれは、ここで聞ける話じゃない」
 街中で、喧騒があり、夜を紛らわせる灯りがあったことが、辛うじてフィレアの理性を繋ぎ止めていた。一歩でも何らかのタイミングがずれていたら、魔術の一発や二発、青年に向けて放っていてもおかしくなかったかもしれない。
 そんなフィレアの張り詰めた感情を察したのだろう、青年は場違いなほどにゆるやかな笑みを浮かべて、頷いた。
「わかってる。だが申し訳ないことに俺は、ここに着いたばかりでどこに何があるかもよくわかっていないんだ」
「……こっち」
 遠回しにフィレアの部屋に連れていけと言う青年に、フィレアは渋々頷いて踵を返し、宿への道を急いだ。



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