Back | Top | Next

第 二 章  追 憶 の 森


3

 ハイゼルセイド王国は、《竜の身体》にたとえられるディラリア大陸の中でもほぼ中央部に位置している。
 大陸を横断する人々にとっては主要な交易点の一つとなっているが、広大な国土の約三分の一は深い森で覆われている。
 王国の中ではもっとも西の国境沿いに位置する街、城塞都市グラスクロックから、さらに北東に歩いて約三十分。未開拓の部分がほとんどで、それゆえに迷いの森とも呼ばれ、常より訪れる者もそう多くはない――ウィルダの森と呼ばれるその『深い森』こそ、フィレアとクロノスが目指す場所に他ならなかった。
 旅装束とは言え、男女の二人連れである。もし偶然にも通りかかる者がいたならば、心中でもするつもりかと首を傾げられてしまうほどには、そこは、人の立ち入らないところだった。
 ウィルダの森の入り口ともいえない入り口は、昼間でも深い闇を抱いて二人を飲み込もうとしているように見えた。


「……長かったわね」
 一歩足を踏み入れると、景色は呆気なく森のそれへと切り替わる。
 森特有の湿った匂いと静けさが、纏わりつくように等しく二人を迎え入れ、包み込んだ。
「懐かしいだろ?」
 疲労の色が声に滲み出ているフィレアとは対照的に、クロノスは飄々とした声で笑っている。
「どうかしら。実感がない。……でもね、小さい頃のあたしにとっては、ここは『世界』そのものだった」
 最寄りの街からでさえ近くはなく、食料や生活雑貨の補充もおそらくは容易ではない──このような辺境の地に、どうしてわざわざ住む必要があったのだろう。
 今ならば、そんな疑問を抱くことも容易いし、それらしい理由を与えることだってできる。
 父が国から追われる犯罪者であったことを考えれば、それだけでも、身を潜める十分な理由になりうるだろう。
 だが、幼い頃はそれに疑問を抱くこともなく、フィレアはこの森の奥にある世界を当たり前のものだと思っていた。
 それほどまでに、外の世界を知らなかった。
「出たことはなかったのか?」
「あたしが家を出るまでの間に、森の外に出たのは一度だけ。あの時はいくつだったかしら。六つとか七つとか、確かそのくらいの時だわ」
 遠い記憶を辿るように、束の間、目を伏せる。
「……グラスクロックで収穫祭があって、それに連れていってもらったの。でも、父は表向きには反逆者でしょう? だから、父もあたしも、ばれないように精霊族のふりをしたのよ。作り物の耳と尻尾をつけて、頭からフードを被ってね」
「そうか……楽しかったか?」
「楽しいとか、そういう言葉であらわせるようなものじゃなかった。それこそ、世界が変わった瞬間って言うのかしら? そんな感じだった」
 今でも、脳裏に鮮やかに浮かぶ光景がいくつかある。
 それまで外をまったく知らなかったフィレアが、生まれて初めて外の世界に触れた日だった。
 街の大きさに、人の多さに、人々の声に──見るものすべてに圧倒されて、父の手を握り締めたまま離すことができなかったのを覚えている。
 世界は広い。家を出て、さらに広大な世界に触れてから、フィレアは何度も何度もそれを実感した。
「あんたはお祭りとかそういうの、行ったことはないの?」
「ないなあ。それこそ、お前を探しに出るまでは、俺だってずっとあそこにいたしな」
 草木を踏みしめる音と、二人の話し声だけが響く空間。
 風は静寂の言の葉を運び、鳥や獣の鳴く声すら、二人の耳には届かない。
「じゃあ、あたしがいろんなところに連れてってあげるわよ。無事に契約を済ませられたらね」
 そう告げた瞬間の、クロノスの呆気に取られたような表情を、フィレアは長く見つめることもなくすぐに背を向けた。
 出会ってから間もないはずなのに、そんな言葉がさらりと出てしまうくらいには、フィレアは無意識に彼にある種の信頼を寄せていたらしい。
 そのことに今更ながらに気づいたが、あえて顔には出さずに、進むべき道を探すことに専念した。
「そうか。……それは、頼もしいな」
 背中越しに響いた言葉がどんな表情で紡がれたのか、それは彼に背を向けていたフィレアにはわからなかったが、ひどく穏やかで嬉しげな声音のように感じられた。
「……そう言えば、家を出た後はどうしてたんだ?」
 単なる興味本位であったかもしれないが、そんな風にクロノスの問いが続いた。
「あたし? そうね、ずっと一人で生きてきたわ。……なんて、半分嘘。そこまでたくましくはなかったわ」
「違うのか」
 そうだと思いかけていたらしいクロノスの間の抜けた声に、フィレアは笑う。
「運がよかったのよ。……外に出たあたしは、クロイツ・C・ターンゲリの娘フィレア・ターンゲリなんかじゃなく、ただのフィレアだった。あの人に娘がいたなんて話は、誰も知らなかった」
 もしもクロイツの娘だと知られれば、その場で捕えられ、しかるべきところに連れていかれていただろう。
 だが、ところどころに擦り傷を負い、ぼろきれと呼んで差し支えのない服を纏っただけの少女が、人々の関心を浴びるようなことはなかった。
 すれ違う人はみな、彼女に目を向けることもなく通り過ぎていった。
 森の外に出たフィレアは、どこにでもいるようなただの子供だった。
「……家を出て、グラスクロックの街に着いたところまではよかったんだけど。当然のことながら行くあてもなくて。……どうしようかなって道端に座ってたら、最初に声をかけてきた人がね、あたしのことを戦争で親を亡くした孤児だと思ってくれたのよ。だから、あたし、そうだって言ったわ」
 大陸を焼き尽くした戦争が終わって何年も経っていたが、そのような子供は周りを見ればいくらでもいた。
 だから通りすがりの見知らぬ大人が、一人きりで座り込んでいる少女を見てそう思ったとしても、何ら不思議ではなかった。
「その人に連れていかれたのが、教会の隣にあった孤児院だったの。そこには、同じような境遇の子供たちがたくさんいて……詳しい事情なんて、説明する必要もなかったわ。あたしはすぐに、そこの一員として迎え入れられたってわけ。あたしが名乗っていたサーヴァスの姓は、そこの神父様のものよ」
 神父もシスターたちも、彼女の素性を聞くことは決してなかった。
 ただただ、あたたかな腕で彼女や他の子供たちを抱き締め、読み書きや算盤だけではなく、色々なことを教えてくれた。
 時には彼らの仕事を手伝うこともあったし、初めてそこで、同年代の友人らしい友人たちに出会うこともできた。
 その中の数人とは、今でも時折連絡を取り合うほどの仲である。
 今でもグラスクロックの片隅に残るそこは、間違いなく、フィレアにとってのもう一つの『家』だった。
「そして……クロイツ・C・ターンゲリの身柄が拘束されて、刑に処されたという報せが国中を駆け巡ったのは、それからすぐ後だった……」
 そう呟いて、フィレアはふと口を噤んだ。
 その時のことは、今でもよく覚えている。忘れようがない、と言ったほうが正しい。
 ――その時、フィレアはつとめて動揺を表に出さないようにし、これで平和が訪れたと喜ぶ大人たちと同じように、喜ぶ真似をした。
 嬉しくなかったのは、フィレアだけだったかもしれない。だからこそ、大人たちの真似をしなければ、ここにいられなくなるかもしれないとさえ思ったのだ。
 偶然の積み重ねによる結果とは言え、手に入れた居場所を失うのは怖かった。
 皆に嫌われてしまうのが怖かった。
 だから、フィレアはたった一人の父をこの時、裏切った。
 そうすることしか、できなかった。悲しいと泣くことも、できなかった。
 そのせいか、父が死んだという実感はまるでなく、フィレアはその瞬間のすべてを、遠い世界の出来事のように感じていた。
「……フィレア?」
 クロノスが不思議そうに首を傾げるのを見て、フィレアは小さく笑った。
「何でもないわ。……そこで五年くらい過ごしたかしら。その間に、魔術学校にも通わせてもらえてね。その伝手で、魔術師ギルドに登録もさせてもらったの。……そして、今に至る、かな」
「……そうか」
 遠く過ぎ去ってしまった彼女の過去に思いを馳せるように、クロノスは心なしか遠くに視線を投げているようだった。
 その足音が後ろからついてきていることを耳で確認しながら、フィレアは、無数にわかれている、あるいは道の形すらしていない道を一つ一つ選んで進んでゆく。
 不思議と、辿るべき道がわかるような気がした。
 だが、それが自分の記憶力の賜物だとは思わなかった。まともに歩いたこともない道だからだ。
 言いようのない『何か』に呼ばれ、導かれているのだろう。遠くて近いところから、何かがフィレアを呼んでいるのだ。
『それ』が何であるかを考える必要は、おそらく、なかった。



Back | Top | Next