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第 三 章  祈 り と 願 い の 果 て


5

 長いようで短い時間が流れた後、静けさが満ちつつあった部屋の中で、不意にクロノスが口を開いた。
「俺は……時間を越えて、ここに召喚されたんだ」
「時間を……?」
 にわかには信じられない話だったが、不思議と、それを素直に信じられるような気がした。
「ああ。――混沌の意思の影響で、時の歯車も狂いやすくなっているのかもしれない。俺は、今からずっと昔……どれくらい昔かは数えなかったが、今の時代じゃあ、《北の大地》と呼ばれる場所で生まれたんだ。もちろん、そこで育った」
「……《北の大地》」
 フィレアも名前だけは知っていた。そこは、今の時代を生きる者にとっては未知の世界だった。
 フィリア・ラーラの《身体》の部分と言われるディラリア大陸――そのさらに北方に位置する《翼》の大陸が、《北の大地》だ。
 しかし、今ではディラリア大陸より北の海は深い霧で覆われているため、その先にあるはずの《北の大地》の存在を確かめることができない。
 霧の向こうにあるはずの大陸を目指して、海に出た者も少なくはなかった。しかし、誰一人として戻らなかった。
 次第に、霧の海には魔物がいるという噂が人々の口を伝って広がり、いつしか、世界をわける霧は混沌への入り口とも呼ばれるようになった。
 霧の向こうは混沌の意思につながっているのか、それとも、《北の大地》が悠然とその翼を広げているのか、あるいは、《翼》それ自体がすでに混沌によって飲み込まれてしまっているのか――
 様々な憶測が世界を飛び回っているが、その真相のすべては、越えられない霧の向こうにある。
 ディラリア大陸と《北の大地》が隔てられるに至った時期でさえ、明確にはわかっていない。
 今から千年以上前――《封印戦争》と呼ばれた、混沌の意思と人々の戦いが終結した頃だろうとは言われているが、それも定かではない。
「……《封印戦争》って、知ってる?」
「ああ、過去にそういう戦いがあったらしいってのは知ってる。たぶん、ちょうどその頃だ。それよりも先に大陸をわける霧は出ていたかもしれねえが――俺たちが住んでいたのは、《翼》の中でもさらに北のほうの奥地にあった。……戦争が始まった頃、だろうな。……《北の大地》に、混沌の意思があふれた。それによって、人も獣もそのほとんどが魔物に変えられて……」
 遠い記憶を探るように、クロノスはゆっくりとした口調で呟く。
 フィレアは、決して見ることのできない光景を想像するように、そっと目を伏せた。
「……俺たちの血が、特効薬になるんだか、更なる力になるんだか……とにかく、俺たちの住んでいた村はそんな風にして、魔物になりかけた人間共の群れに襲われたんだ。ひとたまりもなかった」
「……それで、……呼ばれたの?」
「そう。……俺をかばった親父とお袋が目の前で食われて、その牙が俺に向けられて。……足に噛みつかれた瞬間だ。……俺を取り巻く空間が、歪んだのは」
 両親の死の瞬間を語るクロノスの声は、ひどく淡々としていた。
 あえて、余計な感情を挟み込まないように取り繕っているようにも見えて、フィレアはわずかに眉を寄せた。
 その表情の変化に気づいたか、クロノスがかすかな笑みを浮かべて、フィレアの額に軽く唇を寄せる。
「……!」
 そしてまた固まってしまったフィレアをよそに、クロノスの言葉は続いた。
「誰かの声が聞こえたんだ。親父でもお袋でも仲間たちでもない、俺を呼ぶ誰かの声だった。――わかるな? お前の親父さんの声だ。俺はあっという間に気を失って、次に気づいたときにはここに……あの場所にいた」
「……じゃあ、本当に、呼ばれた直後だったんだ」
 父クロイツの残した日記の記述に、あるとおりだった。
 年に一度。今日と同じ、日食の日。
 世界に満ちる魔力がもっとも少なくなるこの日だったからこそ、彼は、時を越えて呼ばれてしまったのかもしれない。
「何が起こったかなんて、もちろん、わかるはずもなかった。逃げようにも足は動かねえし、血が流れて寒気はするし、魔物の気配はしないが辺りは真っ暗だし天の国でもなさそうだしで、どうすればいいんだと途方に暮れてた時に、……お前が、俺を見つけてくれたんだ。……どうしようかと思った」
「……そんなに、あたしが怖かった?」
 何気なく問いかけた言葉に、クロノスが小さく笑う。
「そうだな、少しだけ怖かった。お前に敵意がないのはすぐにわかったが、何よりもお前の魔力がすごかったから。今度こそとどめを刺されるだろうかって思ったな。……だから言っただろう? 『来るな』って」
「……『来ないで!』って。それはもう可愛らしくね」
「可愛かったのは取りあえず忘れておけよ、フィレア」
 がっくりとうなだれるクロノスの様子に、フィレアはくすくすと笑った。
 複雑な感情を誤魔化すように、クロノスの言葉が続く。
「で、お前に足を治してもらってから、俺が向かったのは北の方角だった。帰巣本能みたいなもんが、運よく働いてくれたらしくてな。やがて霧に突っ込んだが、まっすぐ飛んでいれば問題はなかった。……霧はすぐに抜けられた。……命の気配もない、すっかり荒れ果てた大地が、そこにあったよ」
 青年の口から語られるのは、紛れもない、今現在の《北の大地》の姿だった。
「それからさらに時間をかけて、俺は俺が住んでいた場所、と思しきところに帰りつくことができた。そこもすっかり荒れ果てていたが、……集落のそばにあった湖が、目印の代わりになってくれてな」
「……どう、だった?」
 聞いていいものなのかどうか、わずかにためらうような間が一瞬あった。クロノスはやはりその気配を敏感に察したらしく、気にするなと言わんばかりにフィレアの頭を軽くなでた。
「もちろん、誰もいなかった。何も、残ってはいなかった。……ただ、何もなかったように草だけが生えていた。それだけだ。……埋められるようなものもなかったが、集落の中心だった辺りに小さな墓を作って……それで、ようやくそこで一人ぼっちになったんだと理解して、時間を越えてここに来てしまったんだと、実感したわけさ」
 ――時を越えて召喚された世界。
 それも、千年以上という、途方もなく長い時間である。
 己が知る者は誰もおらず、己を知る者も誰もいない――そんな世界に飛ばされてしまったら、自分は果たしてどうなってしまうだろうと、フィレアは考えた。
「あたしは、きっと、あんたみたいに強くなれないわ……」
「……どうして、そう思うんだ?」
 クロノスを抱き締める腕に、知らず、力がこもった。



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