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君に出逢うための指標 ―El mundo hermoso con usted.―



 アルトは、世界の行く末を見届けるのが役目であるという彼女の瞳を見たことがなかった。
 彼女――シエラの瞳は常に閉ざされた瞼の裏にあって、その色を彼の目の前に広げることはなかった。

 ――彼が彼女の守護者となることを決意した、あの瞬間までは。

 真珠と砂金を混ぜて溶かしたような色合いの髪は細く何本も編み込まれていて、その長さは幼いアルトの現在の身の丈を優に超えている。それらを飾る小さな宝石や硝子玉を繋げた糸や紐も実に色とりどりだ。
 着ている服も、この辺りでは最上級のパルミアの糸を用いて織り上げられた布で作られた衣で、複雑な模様で彩られ、絞られた手足の裾にはやはり宝石のような飾りがついている。細い鎖を幾重にも重ねた首飾りや、小さな耳飾りも同様だ。
 全身余すことなく飾り立てられた彼女は、さながら御伽噺に出てくるような、おひめさま――そのものである。
 彼女が外を歩く時、それらが日の光を受けてちらちらと一斉に輝く様は、言葉で表すことができないくらいに、綺麗だ。
 重くないのかと、聞いたことがあった。もしアルトが彼女の着ているのとまったく同じそれを身に付けたとしたら、ものの十秒で窮屈のあまり脱ぎだしてしまうだろうに、彼女は顔色一つ変えることなく、大丈夫とただ笑って返しただけだった。

 シエラは、アルトが生まれる前から彼の近くにいた。アルトだけではない。アルデモンドの山裾に悠然と広がる深い森の奥――外界から閉ざされたような穏やかな時間が流れるこの村で、今この時間を生きているすべての者が生まれる前から――言い換えるならば、アルトの父や母や、さらにはその両親が生きていた頃よりもずっとずっと前から、彼女は、この村にいた。

 幼いアルトが何となく理解したのは、シエラが“神の遣い”であるということだけだった。比喩ではない。実際にそうなのだ。
 世界を見守るために、この世界を創った神が遣わした七人の“賢者”――シエラはその中の一人で、フィルタリアに存在する種族の中の『竜人族』の姿を持つ彼女は、神々の次にフィリア・ラーラに近い存在である――らしいとも、言われている。
 賢者という存在は、その役目を担う代わりに《時》を持たない。だからこそ、老いることもなければ死という鎖に囚われてしまうこともなく、ただ、世界に在り続けるのだ。何のために――その答えは一つしかない。世界の行方を、見守るためだ。
 アルトが生まれる前から在り続けた彼女は、アルトがいずれ大人になって死んでしまっても、この世界に在り続けるのだという。世界に存在している種族の中で最も長寿だとされている竜人族よりも、遥かに長い時を生きて、そして、生き続けるのだという。
 幼いアルトにはそのすべてを理解することはできなかったが、ともかくも、それが彼女の役目なのだそうだ。

 でも、アルトには一つだけ、どうしても納得できないことがある。

 彼女の額の中央に埋め込まれた、丸くて青い《宝石》は、この世界を創った神と呼ばれるひとが、彼女に与えた《魔法》の石らしい。これを通じて、シエラは、アルト達が瞳で見るようなすべてを“視て”いるのだという。
 ゆえに、目を開けて実際にものを見る必要がどこにもなく、彼女の両の瞳は、常に閉ざされているのである。
 絵本で見た砂漠の砂の色の髪に、白い肌。一日の空の色を全部詰め込んだような色合いのドレスと、透き通った鮮やかな色の宝石達――アルトの言葉でどんなに彼女を表現しようとしても、その瞳の色だけはわからない。だからこそ、アルトは彼女の瞳の色を知りたくてたまらなかった。

「わたくしは目を開けなくとも、すべてを視ることができますから……これと言って、不都合はありません。アルト、あなたの顔の輪郭までも、ちゃんとその気配をはっきりととらえることができるのですよ」
 伸ばされた手は何の迷いもなく、アルトの頬に添えられた。普段の彼女を見ていても、確かに不都合はないように感じる。
 しかし、彼女の言葉を素直に受け止めるならば、シエラが感じているのはあくまでも“感覚”でしかないということなのかもしれない。実際にその両の目で見ているわけではないのだから、気配だけを感じているのかもしれない。
 けれども、不都合はないと言うくらいなのだ。彼女が“視て”いるものの姿は、彼女の脳裏でそれはそれは鮮やかに、正確に、描き出されているのだろう。
 他の大人達のように、彼女という存在はそういうものなのだと割り切れればよかったのかもしれなかったが、アルトにしてみればそうではなかった。割り切れるほどに大人ではなかったし、彼女の瞳を実際に見たいという思いは、そう容易く捨てられるものではなかった。
 だって、もしかしたら、他の誰も知らない色を、一番最初に見ることができるかもしれないのだ。世界が始まった瞬間から世界にいたその人の瞳の色を一番最初に知ることができるかもしれない機会なんて、自分が生きている間にそうそう訪れるものではないだろう。

「世界はこんなにも綺麗なのに、シエラ様、その目で見ないなんて勿体無いよ。シエラ様が言うように気配で視えるとしても、実際に見るのとじゃ、きっと、違う」
 と言っても、アルトは彼が住んでいるこの村と周囲に広がる森でしか『世界』を知らない。おそらくシエラの方が、アルトなどよりはずっと『世界』というものを理解し、多くの場所を知っているのだろう。だがそれはアルトにとっては些細な問題だ。
「違いませんよ、アルト。この石は、貴方達の瞳と全く同じように働いているのですから」
 こんな風に軽くあしらわれてしまうのが常だ。一番最初に彼女の瞳の色を知ると、そう意気込んだところで――彼女との間に腰を下ろしている時間の隙間は、途方もなく大きい。大きくて、除けることも飛び越えることもできない。
 もっとずっと昔に生まれていても、もっとずっと先――未来よりも遠い時代に生まれていても、それはきっと変わらない。
 彼女はいつでもアルトの手の届かない所にいて、そうして、彼を見守っているのだ。彼だけでなく、この広い――広すぎる世界を、世界の片隅から。
「じ、実際のおれが、シエラ様が頭の中で視ているおれよりも……格好よかったりしたら、どうするんだよ」
 彼女はただ穏やかに、笑った。否定するでもなく、肯定するでもなく、ただ、笑った。心がぎゅっと鷲掴みにされてしまいそうな、綺麗な笑みだった。
「では、わたくしの中に映るアルトの姿を、描いてみましょうか?」
「……お、おう」
 ――彼女がそんなことを言い出したのは――少なくともアルトの記憶にある限りでは、初めてだった。ついに根負けしたのかとも思ったが、アルトはその理由をあえて問いかけたりはせず、ちょっとだけ意地を張りながらも大きく頷いた。

 白い画用紙の上に、アルトが広げた色鉛筆の束。それを一本ずつ取り上げて、妙に慣れた手つきで彼女はアルトの顔を描き込んでいく。
 さらさらの黒髪、ちょっと大人を目指したような――それでも十分に幼さの残る表情と輪郭――完全に人間族のそれではないということを示す、少し尖った耳――翡翠の瞳が光を反射している様まで、シエラは実に緻密に描き出した。
 しかも、普段アルトが使っている色鉛筆とまったく同じ物を使っているはずなのに、色の具合が全然違う。彼女のそれはとても細やかで洗練されていて、定期的にこの村へとやってくる褐色の肌の行商人に渡したら、十分に売り物として価値があると言われてしまいそうな物だったのに対して――アルトのと言えば(彼を描くシエラの側で、彼もまた、シエラの似顔絵を描いていたのだ)――力任せに線を引っ張って繋ぎ合わせただけの、文字通り、子供の落書きにしかならない。
 シエラの紙の上で笑う彼は、実際の彼と驚くほどに瓜二つだ。これでは、さすがのアルトも返す言葉に出逢えない。
 こんなはずではなかったと子供心に考えても、彼女に勝てそうな名案を捻り出すことは難しい。

「……この瞳を見せられる人は、そう多くはないのですよ、アルト」
 シエラは、そう、ぽつりと言った。さわさわと梢を揺らす風に、吸い込まれてしまいそうなほどの小さな声だった。
「……シエラさま?」
 それでも、アルトはその呟きを聞き逃すことはなく――画用紙に描いた彼女の似顔絵と睨めっこしていた眼差しを、真っ直ぐに彼女自身へと向けた。シエラが、何かに怯えているように肩をぴくりと動かしたのがわかった。やはり“視”えているのだなと、そんなことを思う。
「これは、この瞳は――見た者の心を掴んでしまって、離さないから。わたくしは《フィリア・ラーラ》と同じ、竜に属する“賢者”の一人……それゆえ、竜族と同じ体質を持っているのです。竜の瞳には元来そういった力があり――竜族同士ならばともかく、アルト、人間と竜の間に生まれた貴方には、強すぎるかもしれない。……わたくし以外の誰をも、愛することができなくなってしまうかも……しれないのですよ?」
「シエラさま、そんなこと心配してたのか?」
 彼女の言葉を理解するには彼はあまりにも幼くて、そして、素直だった。
「そんなこと、言うなら……おれはとっくにシエラさまにつかまってる。見せてよ。おれは、シエラさまの目を見たい」
 こんなに幼い自分でも、許されるのだろうか。彼女の瞳に魅入られてしまうことを、それを拒まないことを――彼女は、許してくれるのだろうか。

「……アルト」
 そうして、彼は――ずっと見たいと願い続けていた彼女の瞳に、ようやく出逢うことができた。

「シエラ、さま」
 彼女が見た世界の片鱗はどこまでも鮮やかで力強く――
 彼が見た彼女の“世界”は、どこまでも蒼く、碧く、澄み渡っていた――

20050903


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