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夜明けの花の色



 扉の向こうで、新しい命が生まれようとしていた。

 人を産む時の痛みは、想像を絶するものだと聞いている。それこそ、転んで膝を擦り剥いた時のそれなどとは、比べ物にならないくらいだと。
 幼いクラージュには、その痛みがどのようなものであるのかわからない。男である以上は、きっとこれから先もそうだろう。
 ただわかっているのは、下手をすれば命を落としかねない痛みかもしれないということと、自分自身も、母親にその痛みを与えてこの世界に生まれてきたのだということ。
 ――そうして、また、彼が与えたのと同じ痛みを母親に与えて、生まれようとしてくる子がいる。

 今度こそ女の子がいいなと、そう言ったのは父だった。どうしてあんなに苦しんでまで子供を生もうとするのか、その理由は未だにわからないけれど、女の子がいいと言ったその理由は、幼いクラージュには痛いほどに良くわかった。
 例えば、自分が生まれた家は、代々、このフィルタリアの大地母神でもある黄金竜、フィリア・ラーラを祀る神殿であるということ。
 例えば、その神殿の祭司長はやはりこの家の人間が務めており、それは原則として女性であるということ。
 例えば、現在の祭司長を勤める母リスリィーアと、このリュイン王国に仕える騎士である父ペミナーラ。二人の間に生まれた三人の子供が、いずれも男子であるということ――
 自分は要らない子供なのかもしれないと、何となくそう思っていた。年の割に聡明であったからか、自身を取り巻く環境と現状を考えれば、そんな結論に至るのもそう難しいことではなかった。
 もしかしたら、自分だけではなく……双子の弟達も、父や母にとっては、邪魔な存在でしかないのかもしれない、と。

 生まれると言って母が扉の向こうに消えてから、どれほどの時間が流れただろう。天球の光は消え、辺りはすっかり闇に覆われている。下の双子の弟達は当の昔に夢の世界へと行ってしまっているし、普段ならば自分も、眠りについているはずの時間だった。
 それなのに、眠れなかった。眠る訳にはいかないと、心のどこかで溢れる強い思いが、眠気はおろか欠伸の一つさえ飲み込んでしまっているようだった。

「……父上は、父上が欲しているのは……娘だけですか?」
 ソファに腰掛け、先程から無言のままで扉の方を眺め遣っていた父親に対し、クラージュは唐突にそう問いかけた。
「……ん?」
 父――ペミナーラはと言えば、予想外の質問だったのか、明らかな驚きの色をこちらに向けている。容易には解けない、無理難題であったのだろうか。別にラプラスの紅茶葉から珈琲を作れと言っている訳ではないのに。
「父上は……父上や、母上は……息子は、要りませんか?」
 自身の考えを口にしてすぐに、その中身の拙さを思い知ることもある。今だってそうだ。けれども、今回ばかりは何故か、食い下がらない訳には行かないような、そんな気がした。
 自分は要らない子供だと、自分を生んだその人に言われた時、子供はどんな気持ちになるのだろう。きっと世界中から嫌われてしまったような、そんな絶望を覚えるに違いない。
 言われてもいないことを言われたような気になって、要らない所まで考えてしまうのは悪い癖だと、クラージュ自身、何とはなしに自覚している。そこまで先走って考えてしまうのは、実際に言われた時の為に予め覚悟を決めておくといったような、いわば心理的な防衛反応の一環だったというのを彼自身が知るのは、もう少し先の話だ。
「どうした? ……何かあったか? クラージュ」
 父の声は普段のそれと変わらず、落ち着きと力強さを伴っているように聞こえた。伸ばされた腕にひょいと抱え上げられて、抵抗する間もなく膝の上に載せられる。癖のある黒髪を撫でる父の手は、とても大きい。
「もしも娘……妹が生まれたなら、その子に跡を継がせるつもりなのでしょう? そうしたら、ジュアンやイクスや、俺は……何の為に、この家に生まれてきたというのですか?」
 大地の色の瞳――いつだったか、母がそう呼んでいた父の瞳を覗き込む。風の民でありながら、その瞳がとらえているのは大地だという、その色を。瞳だけではない、項の辺りで一つに括られた、長い髪の色も、金色だ。親子でありながら、クラージュのそれとは違う。
 尤も、クラージュの黒い癖のある髪も同色の瞳も、誰のものかと聞かれれば答えは明白だ。面差しも含めて、母方の祖父に瓜二つなのだ。成長するにつれて父と向き合っているようだと母が良く口にするし、当の祖父も自分にそっくりだと頷くくらいであるから、間違いはない。ちなみに母親の髪と瞳は深い茶色だ。
「何の為に……と、言われても……それは難しい問題だよな? ――クラージュ、しかもお前、まだ六歳だろ。考えて、わかるか?」
「……わからないから、こうして聞いてるんです」
 悔し紛れに呟いた言葉に、ペミナーラはゆっくりと頷いた。考え込むような素振りを見せながら、穏やかな声音で言葉を紡ぐ。どんな言葉も決して、子供の戯言だと笑い飛ばしたりしない人であるのを、クラージュは知っていた。
「何にせよ、お前は、俺の……俺とリスリィーアの、一番最初の息子だろ? お前が生まれた時、リアは何て言ったと思う? ……ちなみに俺は、生まれたばかりのお前に怖くて触れなかったし、何も言えなかった。人ってのは、最初はあんなに小さいんだもんな、俺なんかが触ったりしたら、それこそ壊れるんじゃないかって思ってな。ああ、これはあいつらが生まれた時にも言ったっけか」
「三回くらい聞きました。叔母上が生まれた時もそうだと聞きました。それで……何て、言ったんですか? 母上は」
 他でもない息子に自身の体験談を一蹴されて、ペミナーラは大人げもなく少し傷ついたようだったが、クラージュはいつものことだと敢えてフォローらしいフォローも入れなかった。ただ、問いかける眼差しだけは、真剣そのものであったが。
 父も父でやはり息子が少し冷たいのはいつものことであるからか、すぐに気を取り直したようで、膝の上のクラージュを改めて抱え直した。深呼吸を一つ、そして、静かに息を吸い込んで――
「――ありがとう。生まれてきてくれてありがとう、だとさ」
 屈託のない笑顔で言われてしまい、クラージュは返す言葉に詰まる。そんな顔をされてしまっては、疑いの余地さえ生じる隙もない。
「お前の寝顔が可愛かったもんだから、寝る暇も惜しんでお前を見てたとかもあったな、そういや。倒れそうなくらい疲れてても、寝顔を見たらその疲れもさ、吹き飛んだってさ……あー、絶対俺が言ったとか言うなよ? 愛はあっても痛いのは勘弁」
「……息子にまで惚気るのはそろそろいい加減にして下さい、父上」
 閉ざされていた扉が軋んだ音を立てて開いたのは、その時だった。クラージュは我に返り、扉の方をじっと見やった。

 ――泣き声が、聞こえる。

「あら……親子水入らずの会話に、立ち入るべきではなかった?」
 纏め上げていた深緑の髪を下ろしながら出てきた叔母の姿に、こちらへと向けられる穏やかな空色の眼差しに、それまでの緊張が一気に解けていくのを感じる。
「いかに俺がコイツを愛してるかを、とくと吹き込んでいた所さ、ミーナス。で……どうだった?」
「クラージュもまだ六歳だけど、兄さんが思ってるほど子供じゃないんだから。屈折した愛を吹き込むのだけはやめておいたほうがいいわよ? ……ええ、生まれたわ。母子共に健康。可愛い女の子だから、二人とも泣いて喜んじゃうかも。すぐ呼べると思うから、待ってて」
「俺はいつだって、純粋な愛を持って接してるつもりなんだけどなあ? ……そっか……クラージュ、妹だぞ?」
「純粋なんて言葉、貴方には似合わないと思いますよ、父上」
 口をついて出た台詞に、はっとしたのも束の間、がっくりと肩を落とす父と、さもおかしそうに口の端を釣り上げ、堪えきれずに吹き出した叔母との間で、クラージュは少しばかり恥ずかしそうに身を縮ませる。もはや生まれた子供が弟なのか妹なのかは、彼にとっては大きな問題ではなかったようだった。手のかかる下の弟妹が一人増えた、それだけのことに過ぎないかもしれなかった。
「ほら見なさい。子供は親を見て成長するんだから。良くないと思った所は真似しないようにするものなのよ? ね、クラージュ……あ、大丈夫みたい。入って?」
 わざとらしく咳払いをした父を見上げる。表面上は落ち着いているように見えても、やはり、緊張しているのかもしれない。そんなことを思いながら、クラージュは父の背中を追いかけて、扉を潜った。

 部屋の中には、母の他にも数人の人影。慌しく出産後の後片付けなどしているが、室内に満ちた空気は、新たな命の誕生を祝してか、穏やかな、あたたかいものだった。
「母上……」
 疲れ切った様子で、それでも生まれたばかりの幼子を抱き上げる母親の笑みは、文字通り、慈愛に満ちているものだった。こちらへと向けられる笑みもまた変わらないことに、何故だか複雑な気持ちになったが、クラージュはぐっと手を握り締めることで、それを表に出すまいと堪える。
「クラージュ? ……こちらにいらっしゃい?」
 促されるままに母親の側へと近づいた。母の腕の中の幼子の寝顔は、クラージュが思わず拍子抜けしてしまうくらいにあどけないものだった。こちらの気などお構いなしに、すやすやと眠っている。
「……抱いてみる? クラージュ」
 虚を衝かれて肩が震えた。予想だにしていなかった提案に、戸惑いの色は隠せないまま、母を見つめた。
「落とさなければ大丈夫。重いから気をつけて」
 差し出された小さな命、恐る恐る受け取った両手に圧し掛かるのは、見た目以上の重み。側に立っていた父の手が添えられた。それでも、腕の中の小さな命は、重かった。
 ――容易く壊れてしまいそうだと、思った。たった六年と少ししか生きていないクラージュにさえ、その気になれば壊すことができるだろう。
 この世界に生まれてきたばかりの命の、何とか弱きことか。かつては自分もこうだったというのに、妙な感慨の波が押し寄せる。
「……重いでしょう? 貴方も生まれた時、こうだったのよ。ああ、でも……クラージュはなかなか泣き止んでくれなかったんだっけ?」
 背後から掛けられた叔母の悪戯めいた声に、そして、肩に置かれた父親の力強い手に――何よりもこちらを見つめてくる母親の優しさに満ち溢れた瞳に、言いようのない安堵の気持ちになったのは嘘ではなかった。
「……ふぇ……っ」
 居心地が悪そうに身を捩らせる、腕の中の小さな命。泣き出す、咄嗟に母を見つめた時にはもう遅かった。微かな、それでいて遠慮のない泣き声が室内に響いて、その後に零れる、大人達の笑い声。
「ああ……やっぱり、生まれたばっかりでもお母さんじゃないってわかるのよね、赤ちゃんって」
 母親の腕に幼子を託すと、一瞬の不安が嘘のようにすぐに泣き止んでしまった。
「クラージュ、呼んであげて? フィエルテっていうのよ、この子」
「……フィエルテ……?」
 良く見ると、爪もきちんと揃っている――何かを求めて頼り無く彷徨うその手に、そっと指を近づける。縋るように握り締められた指に、込められた力。それは、小さな命が懸命に生きようとする力。
 ――守らなければと、そう、思った。この子を守ろう、そう、強く思った。
「さっきから何か気にしてたようだが、気にするな? 賑やかな方が親馬鹿も親馬鹿になる甲斐がある。それに跡継ぎに拘らずとも、できることはたくさんあるぞ? ……例えば、兄馬鹿とかな」
 幼い娘の頭を、すっぽりと包み込めるくらいの大きさの手でそっと撫でながら、ペミナーラは言った。
「よし、お前は将来、絶対兄馬鹿になる。兄馬鹿な俺の息子だから、間違いはない」
 父の声のからかうような響きに、心の内を見透かされたような気がして……この時はむっとしてしまったのだけれど。

*
*
*

「――どうか、なさいましたか? ……兄様?」
 目の前に差し出される紅茶のカップと、おずおずとかけられる少女の声。母譲りの茶色の髪と瞳を持つ娘を、何とはなしに見上げた。
「ああ……いや、昔のことを――思い出していた」
「……昔、ですか?」
「そう、君が生まれた時の話だ、フィエルテ」
 段々と顔立ちが母に似てきたと思う――側に立つ茶色の髪の娘、彼の妹である少女に、クラージュは穏やかな声音でそう告げた。
「知っているか? 君が生まれた時、俺も側にいた。生まれたばかりの君を、この手で抱き上げたんだ」
「……重かった、ですか?」
「そうだな、命の重さというものを、感じた。ああ、赤子にしては重いと、叔母上も言っていたが――……決して今が重いと言いたいのではないぞ?」
 可愛い妹と、そんなやり取りを交わしながら、ふと脳裏に過る思いがあった。

(父上、確かに俺は、貴方の息子ですよ)

20040401


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