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砂漠の薔薇の姫君 ―Brilliant Desert Rose―



 ジュアンは言いようのない緊張の塊を抱えながら、常よりもゆっくりとした足取りで白い回廊を歩いていた。静かな廊下に響き渡る足音が、やけに耳について離れない。必然的に纏わりつく足音すら、この確立された世界の均衡を乱してしまいそうだった。
 それでも幾つかの扉の前を通り過ぎ、一つの扉の前で立ち止まる。眉間に皺を刻みながら、眼前に聳えるそれを見上げた。木で造られた扉はどれも同じで、長年使い込まれたことで黒っぽく変色した取っ手がついている。違うのは上部に掲げられたプレートで、『フィリア』、『ルーティル』、『レーナ・ティーラ』……など、それぞれの部屋に神々の名前が与えられていた。ちなみにこの部屋の名は『アイリス』――愛を司る女神の名である。
 触り慣れたそれに手を掛けて、ジュアンは深呼吸を繰り返す。気持ちを落ち着けるためにと、いつものように髪をかき回そうとして、触るなと厳重に言われたことを思い出した。代わりに眉間を――皺を解すように押さえて僅かに俯く。
 ――そうして、無意識の内に吐き出そうとしていた溜め息を呑み込んだ。
 溜め息をつくと運が逃げるだけではなく、今日は女神も逃げるだろうなどと有り難くもないお告げを受けたのでは、おちおち溜め息もついていられない。今頃はたった一枚の壁を隔てた向こう、祝福と喧騒の中にいるはずの父を恨めしく思いながら、ジュアンは緩く息を吐き出した。溜め息ではないと、心の中で女神に言い訳するのも忘れない。
 それもこれも今日が今日だからだ――と、ジュアンは胸中で苦笑する。騎士である彼はそれ用の軽鎧に剣とマントというのが常の姿であるが、今日は礼服――白いタキシードに身を包んでいた。手には同色の手袋が嵌められており、剣の代わりにやはり白い薔薇とマーガレット、小花などが束ねられた大きなブーケを握り締めている。靴も磨き上げられた革靴だ。加えて、普段は特に手入れのなされていない茶色の髪も、今日ばかりは誰の手によるものか、丁寧に整えられている。
 ジュアンはゆっくりと首を左右に巡らせた。たった今歩いてきたばかりのごく僅かな道のりが、とても長い物に感じられた。時間の流れが緩やかになってしまったような気さえした。
 真っ直ぐに伸びる廊下であるが、そこが見慣れた空間であることに変わりはない。天窓から差し込む柔らかな春の日差しは女神の歌声のようであるし、左右の壁にずらりと並ぶ柱の前に満遍なく飾られた白い花々が、その光を優しく受け止めている。空間に満ちる静寂は、まるで世界の理の如き存在感でもってその場を支配していた。
 壮大な――とは、専らここに足を運ぶ人々の言葉であるが、住み慣れてしまえばただ『広い』という言葉で置き換えられてしまうだけだ。もちろん内部の装飾や建物自体は、『歴史的、芸術的価値がある』と専門家に評されるほどには美しいのだけれど。
《竜と風の生まれた処》とも称されるリュイン王国には、二つの神殿が建てられている。その片割れ――フィルタリアの大地母神であるフィリア・ラーラを祀るこの神殿は、ここで生まれたと言っても差し支えのない彼、ジュアンにとっては、物心ついた時から大人達の目を盗んで駆け回ってきた、言うなれば庭のような場所だった。
 だから、彼の目の前に聳える扉やその向こうにある部屋だって、彼にとっては飽きるほどに知り尽くしている場所の一つに過ぎないのだ。それどころか、どの扉の先にどんな部屋があるかとか、その内装はどうなっているかとか、どの柱に傷がついているのか――それくらいなら空で言えてしまうほどである。神殿の入り口から目をつぶったまま自室に辿り着くのだって、やったことこそないものの不可能ではないだろう。
 それほどの場所であるにもかかわらず、別世界、あるいは噂に聞く並行世界、ともかくもどこか知らない世界に迷い込んでしまったような錯覚に陥っていた。どこまで歩いても、この回廊の終点には辿り着けないのではないかとさえ思った。そもそも自分はここにいてはいけないのではないかと、そんな余計なことまで考え始めてしまう始末であった。
 扉の前で棒立ちになったまま暫し悩んだ末に――どんなに悩もうがそのために来た以上はそうするしかなかったのだが――ジュアンは、空いた片手で軽く扉を叩いた。当たり前のように中から返された声に従い、そっと、窺うように扉を開ける。
 新婦の控え室となっているその部屋は、甘い花の香りがした。椅子に座っているのは、純白のドレスに身を包んだ彼の花嫁である。白い肌の女達に囲まれて一際目立つ褐色の肌に、緩やかなウェーブを帯びた金の髪、そして真っ直ぐに正面を見据える青い瞳。彼女の周りを囲む女達は狭い部屋の中を忙しなく動き回り、今日の主役の一人である彼女を飾り立てていた。
 扉を開けたまま惚けたように立ち尽くし、目の前に広がる光景や花嫁の横顔を眺めていたジュアンの元に、こちらも礼装らしい純白の修道服に身を包んだ一人の少女がゆっくりとした足取りで近づいてくる。
「兄様、どうぞご遠慮なさらずに、もっと近くにいらして下さいな? ……もう、終わりましたから」
「……お、おう、フィー。いやその……フィーちゃん、いつになく可愛いぞ、うん」
 藪から棒に振られた言葉に、ジュアンの妹であるフィエルテは目を丸くした。肩の辺りで切り揃えられた茶色の髪と瞳、ジュアンにも良く似た、母親譲りの面差しを持つ少女だ。彼女はすぐに小さく吹き出して、いいえと首を横に振る。
「もう……私などより先に、その言葉を向けるべき方がいらっしゃるでしょう? ……ですよね、セーラさん?」
 そうして、フィエルテは振り返りながら促すように道を開けた。その先に、真っ直ぐにこちらを見つめてくる、深い空色の眼差しがある。
「――セーラ」
 ジュアンは途端に高鳴り出す胸を押さえつけるように、微かに唇を開いてその名を呼んだ。
 ますます、胸が高鳴ったような気がした。
「緊張しておりますか? 兄様」
「え……あ、いや、その」
 心の内を見透かされたような気になって、ジュアンは言葉を詰まらせる。フィエルテは微笑みながら小さく頷き、セーラの周りを囲んでいた女達に声を掛けた。女達もまた楽しそうな、あるいは嬉しそうな笑みを浮かべると、新郎新婦それぞれに会釈をして足早に部屋を後にしていった。おめでとう、お幸せに――何気なく掛けられる言葉の一つ一つに確かな温もりを感じる。
「……フィーちゃん?」
 そうして最後に部屋を後にしようとした妹を、さりげなく呼び止めた。
「積もるお話もおありでしょうし、外でお待ちしておりますよ。式が始まる時間までは、まだ少しありますから。準備が出来たら……お呼び下さいね? ……では」
 扉が閉じる音の余韻が消えれば、室内にも廊下に満ちていたのと同じ静寂が訪れる。扉の向こうに妹を始め数人の女達が控えているという気配さえ、その静寂は攫って行ってしまったようだった。
 とは言え、何を話せばいいのだろうとジュアンは内心で途方に暮れる。取りあえず手にしていたブーケを手近な机の上に置いたのはいいが、会話が始まらない。はたして、ありふれた賛辞の言葉をここで並べ立てる必要があるのかどうか。それとも、腰が砕けて立てなくなってしまうほどの愛の言葉を囁くべきなのか。そんなことを考えている内に、セーラが口を開いた。
「言葉も出ないくらい似合わない?」
 思わず必要以上の勢いをつけて首を横に振る。
「……ば、いや、違うよ。その逆。とても、よく似合ってる。このまま攫って行きたいくらいに綺麗だよ、セーラ」
「そう……ねえ、ジュアン。あんたは何であたしを選んだの? 本当にあたしでいいの?」
 寝耳に水とはまさにこのことだろうと、ジュアンは思う。それも一滴や二滴と数えられる雨粒のような雫ではない。桶一杯分の氷水くらいの感覚だ。
「今更何言ってんのさ、セーラ。まだ俺の言葉信じてくれてない?」
 その唇を塞ぎたい衝動に駆られるが、今ここで誓いのキスをするわけにはいかない。ぐっと衝動を堪えながら、ジュアンは正面からセーラの眼差しを受け止めた。膝の上に置かれた細く小さな手が、頼りなく震えている。
「信じてないわけじゃない。信じてなかったらここにはいないもの。でも、あたしと一緒にいて、あんたが変な目で見られるのは嫌だから」
「……セーラ?」
 本当は跪いてその手を取りたかったけれど、式が始まる前にズボンを汚すわけにもいかなかったので、ジュアンは僅かに身を屈めるだけに留めた。背を丸め、両手を包み込むように手のひらを重ねる。覗き込むように見やると、微かに揺らいだ瞳が見上げてきた。
「あんたは知らなかっただろうけど、あたし、異端児だったのよ。悪魔の子とか呼ばれてたんだから」
 素っ気なく言い放たれたその言葉を聞きながら、ジュアンは初めて彼女と出逢った日のことを思い出していた。

 今から二年ほど前、ジュアンが仕事で国内のとある村を訪れた時のことだ。
 ドラグール大陸の西の果て、青水晶の鉱脈を有したその村はウィンディアの森の北西端に位置し、月に何度か行商の者が足を運ぶ以外には滅多に人の訪れない、いわば閉鎖的な空間と言っても過言ではなかった。
 青水晶によって生活の基盤が成り立っているその村で、青水晶の産出量が近年急激に減ったのを受けて、原因を調査するために王国に仕える魔術師が派遣されたのである。
 派遣された魔術師というのがジュアンにとっては叔父に当たる人物であったことから、ジュアンは半ば無償で付き合わされたに等しく、初めのうちはその仕事にあまり乗り気ではなかった。だが、その時に村長の紹介を受けて世話になったのが、セーラが住む家だったのだ。
 村の外れ、鉱脈のある洞窟に一番近い家ということで場所としては申し分なかった。しかし、当時まだ十七になったばかりのセーラはこの家で一人で暮らしていた。
 女一人の家に男を二人招き入れることに難色を示したのは、寧ろ招かれた男二人の方だった。妻と娘がいる叔父はともかく、ジュアンは未婚でまだ若い。それなりに場を弁えられるだけの理性は持ち合わせていたが、それでも危険がないとは言い切れなかった。
 けれども、当のセーラはと言うと大して気にするような素振りも見せず、それどころか数日分の献立で頭が一杯のようだったので、男二人はかえって拍子抜けしてしまったと――そういう話だ。
 改めて良く見てみれば、やはりまず目を引いたのは彼女の容姿だった。金色の髪や青い瞳は良くある物だとしても、明らかにドラグール大陸の民のそれではない褐色の肌は、実際ジュアンも見るのは初めてだった。
 そんな彼女に、ジュアンは文字通り一目惚れをしていた。

『――俺と一緒に行こう、セーラ。もっと広い世界を見せてやるから。約束するよ』
『そんなこと言われても、それを素直に信じられると思ってるの? あんたがハンサムな人攫いだったらどうするのよ』
『確かに、セーラを攫おうとしてることには違いないかもしれないけれど、別に俺はそれを生業にしてるわけじゃないから。こんな狭い庭で枯らしてしまうには、正直惜しいと思ってる。だって、セーラはまるで《砂漠の薔薇デザート・ローズ》の姫君だ』
『……そんな恥ずかしい台詞、よくもさらりと言えるわよね』
『それだけセーラにときめいてるんだよ、俺が。俺のわがままに過ぎないかもしれないけど、ここで終わりにするのは嫌なんだ。俺達が住んでる神殿なら部屋なんかいくらでも空いてる。ここよりたくさんの物があるから、きっとセーラも退屈しない――……』

 一週間にも及んだ調査の末に、彼女が身寄りもなく、天涯孤独の身の上であるというのを知ったジュアンは、いきなり彼女を連れて行くと言い出したのだ。父親譲りの(主に女性に対する)行動力ゆえの決断だった。無茶な願いであることは重々承知の上であったが、意外にも村長を始め村の者達は誰一人として反対しなかったために、仕事で出かけたはずのジュアンは少女を連れて家へ帰ることになったのである。
 まず頭を抱えたのは母親だった。父や双子の弟に至っては盛大に笑い飛ばしてくれた。上の兄と妹は揃って驚きを隠せなかった様子だったが、妹のフィエルテは同じ年頃ということもあり、セーラとはすぐに打ち解けていた。
 初めてリュインの門を潜った頃には簡単な読み書きしか出来なかったセーラであったが、この二年で創世神話を空で言えるまで成長した。元々知識欲や知的好奇心は旺盛だったため、頻繁に図書館に足を運んでは様々な書物を読み漁っていたらしい。
 その理解力もまた、並大抵の物ではなかった。聞けば学校にも通っていなかったと言うが、それを全く感じさせないような能力がセーラの中には眠っていた。
 リュイン王国では、初等教育だけならば無償で受けることが出来る。それが国の決まりのようなものであるし、国内で生まれた子供の殆どが、最低限、初等教育だけでも修了するのが通例だ。人里離れた村とはいえ、馬車で片道二時間ほどの距離である。通うのが困難ならば寮に入ることだって可能だったのだ。
 それなのに、セーラは今まで村から出たことがないと言っていた。それはつまり村人達が意図的に出そうとしていなかった、あるいは、セーラの存在そのものを外部に知らせたくなかったということだろう。
 思い返してみれば、村人達のセーラを見る眼差しもどちらかと言うと悪意に満ちていたような気がする。セーラの気を引くことにばかり夢中になっていたために、村人達のことは言ってしまえば目に入っていなかったというのが本当のところであるのだが。
 けれど、彼女が異端児と呼ばれていたことも頷ける。辺境の小さな村という閉鎖的な空間の中で、自分達とは明らかに違う血を持つ子が生まれたら――持て余してしまうのも仕方のないことなのかもしれなかった。

「父さんはあたしが生まれた時に出て行った。どっちも白い肌だったのに黒い肌のあたしが生まれたから、自分の子供だって信じてくれなかったみたい。母さんはあたしを愛してくれたけど、元から体が弱かったから……あたしが十歳の時に死んでしまったの。村のみんなは……あたしに関わらないように、触らないようにしてた。悪魔って呼んだ子もいたわ。触ったら同じように肌が黒くなるって思ってたんじゃない?」
 それならば、何故村人達は彼女を殺さなかったのだろう。ジュアンは素直にそう思ったが、口にはしなかった。死んでしまっていたらこうして逢うことは出来なかったわけだし、おそらく、彼女を殺すことでいるはずもない悪魔に復讐されるのが恐ろしかったのだろう。
「だから……あたしのこと、悪魔じゃなくて姫なんて呼んだの、あんたが初めてだったの」
 やはり、彼女の言葉はどこか素っ気ない。それが照れ隠しだということに気づいたのは、彼女がここに来て間もなくの頃だったが――ジュアンは純白のヴェールを両手でそっと上げた。顕わになった額に唇を寄せて、笑う。
「……そりゃあ、俺しかいないだろ? お前を恥ずかしげもなく《砂漠の薔薇デザート・ローズ》の姫君なんて呼べるのは」
「あはは……確かにあんたしかいないわね。聞いてるこっちだって恥ずかしいもの」
 そうして、セーラはゆっくりと立ち上がった。机の上に置いてあったブーケを取り上げ、その花の中から白い薔薇を一輪抜き取ると、ジュアンのタキシードの胸ポケットに差し込む。
「せっかくの晴れ舞台なんだから、格好いい所見せてよね」
「当たり前でしょ? この俺が、姫君に恥をかかせるようなことは致しませんって……では、参りましょうか、お姫様」
 恭しく頭を垂れ、悪戯っぽく片目を瞑ってみせながら、ジュアンはセーラに向かって手を差し伸べた。セーラもまた、差し伸べられたその手を握り締め、ドレスの裾に気を遣いながらも出口へと歩を進める。
「……あたし、今なら言えるわ。きっとね、あんたに逢うために生まれてきたのよ、ジュアン。あたしの世界はあんたなの。あんたが、世界を教えてくれたの」
 ジュアンはその言葉に振り返ると、最初からわかっているとでも言うように、確かな笑みを浮かべた。
「何だ、先にそう言ってくれれば、もっと早くに迎えに行ってやれたんだけどなあ。その言葉、そのまま返すよ。セーラ、お前は俺の世界だ。護るよ。セーラも、セーラと一緒に創っていく新しい世界も」
「……やだ、恥ずかしい」
「恥ずかしいのはお互い様。準備はいい?」
 開いた扉の向こうから差し込む光に、セーラは目を細めて頷いた。

20040918


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