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キリエルフィーラの魔法使い ―Il mago del fiore.―



 わたしは今、恋をしている。生まれて初めての恋をしている。

 彼は不思議な人だ。黄金の実りをそのまま閉じ込めたような瞳と、遥かなる空、あるいは大いなる海に似た髪を持っている。肌は白い。眼差しはどこまでも深い。この世の全てを見て、黄金の色の中に仕舞い込んでいるのではないかとさえ、思えるような――
 対するわたしは、癖のある黒髪に黒い瞳、そして褐色の肌と、イスナーン王国ではごく一般的な容貌をしている。だからこそ、白い肌に鮮やかな色の髪と瞳を持つ彼がこの国へ訪れた時、その噂は瞬く間に国中へと広がった。ある者は神の御使いだと涙を流し、またある者は破滅の死者だと彼の存在を恐れた。
 そして、よりにもよって彼が住居に選んだのは、この国一の高さを持つ《カウス・クザハ》の白亜の塔だった。イスナーンの民にとって、彼の存在はより神秘的なものとなった。
《カウス・クザハ》は、第一次封印戦争の頃――今からはもう千年近くも前の大富豪が残した莫大な遺産で造られたと言われている塔で、内部は蟻の巣のように入り組んでいる。正確な地図もなければ、建造に携わった者達も当の昔に没してしまっているから、内部がどのようになっているのかを理解している者は誰一人としていないと言っても過言ではない。
『千年迷宮』の別名があるように、一度足を踏み入れると千年は迷う――即ち、二度と戻れない者も少なくないという、曰くつきの陸の孤島だ。
 だが、彼は鳥のように空を舞う術を知っている。少なくともわたし達の常識において、空を舞うのは鳥だけだった。金色の竜が大地になったと言われているこの世界のこと、翼を持つ民がいたという伝承も残っていないわけではないけれど、それはこの塔が建てられたのと同じ頃の話に過ぎず、わたし達にとっては遥か遠い昔の御伽噺そのものだった。
 だから人は彼を神の御使いと呼び、破滅の使者と称したのだ。
 彼は市場と塔の最上階とを容易に往復できる。終わりの見えない迷宮に迷い込む必要もなく、また、この迷宮のおかげで、かえって外敵が訪れることもない。彼にとってこの白亜の塔は、住まいとするには申し分のない場所だった。
 神の御使いか、破滅の使者か――明確な答えが出されるよりも先に、わたしは彼に攫われた。
 わたしの前に突然現れた彼は、何も言わずにただ微笑んだだけで――わたしを連れていったのだ。

 彼はここではない、どこか別の世界から来たのだと言った。それも、もう何十年も前に来たのだそうだ。この世界を滅ぼしに来たわけでもなければ支配しに来たわけでもなく、単なる観光目的だったらしい。
 この世界の他にも、わたし達のような別の存在が住んでいる別の世界――彼の言葉を借りるならば、夜空に輝く星の一つ一つに、この世界と同じように大勢の人が住んでいて、彼の住んでいる世界には、他の世界へ行くことのできる空飛ぶ竜がいるのだそうだ。
 その竜に乗って、彼はこの世界へとやってきた。だが、その竜が飛べなくなり、故郷に帰れなくなってしまって――そうして、当面の間はこの世界で暮らすことにしたのだという。
 それから、何十年だ。
 彼の実際の年齢は知らないし、いつまでこの世界にいるつもりなのかも聞いていない。ただ、この世界で暮らすとだけ。
 彼が実際に乗っていた竜とやらを見たことはないが、飛べなくなった原因が解消されれば飛べるようになるのか、それとも、もう二度と飛ぶことができないのか、わたしにはわからない。

 それは、わたしをこの塔に連れてきた彼がいちばん最初に話してくれたことだった。まるで御伽噺のようで、わたしはただその話の内容を噛み砕いて飲み込むことで精一杯だった。到底信じられるはずもなかったが、彼と共に過ごす時間が積み重なってゆけばゆくほど、かえって本当のことなのではないだろうかという思いが深まっていくばかりだった。
 彼との奇妙な共同生活が始まったのは、一年前。彼にとっては瞬き一回分の時間くらいかもしれないが、わたしにとっては長い一年だった。見知らぬ“男”と、一つ屋根の下に二人きりである。当然“女”としての意識は介在せざるを得なかった。
 幸か不幸か、彼はわたしに――そういった意味で手を出すこともなければ、何らかの労働力としてこき使うということもなかった。塔という、限られた、けれど広い空間の中で、それさえ除いてしまえばわたしは自由だった。
 一人で塔を出ることはできなかったので、必然的に彼の同伴つきではあったが、頼めば町に下りることもできたし、塔の中に自分の部屋を持つことも快く承諾してくれた。
 わたしを連れてきた理由は、一人では寂しいくらいに広いと言っていた、そのままの意味なのだろうと思った。

 彼の部屋は宝石箱をひっくり返したような有様で、足の踏み場もなければ彼がどこで寝ているのかさえもわからない。テーブルや椅子もあるにはあるらしいのだが、本や異国の織物だという布切れで埋もれているので、わたしはいつも、床に積み上げられた大判の本の上にクッションを置き、そこに腰を下ろしている。
 部屋の壁には何かの暗号のような文字――彼の故郷で使われていた文字なのだそうだ――がびっしりと書き込まれた地図が貼られているし、どんな仕掛けで動いているのかわからないオルゴールの音色がその空間に流れている。書庫のような本棚を探れば、一日どころか何日分もの時間を潰せるような本が容易く手に入る。下の階にある本も含めると、その総数はこの国の図書館の蔵書量を優に超えているだろう。彼がこの世界に来る前に持っていた物が半分、この世界に来てから手に入れた物が半分だ。
 彼は地図に記されている地名をすべて空で言うことができるし、オルゴールの曲を寸分違わずピアノで奏でることができる。彼は自らの本を隈なく読み、理解し、そして新たな原理を生み出すことができる。けれどそれはわたしが知らないだけで、この世界に元から存在していただけだと彼は笑う。
 ――何も知らないような顔をして、何もかもを理解している。彼はこの世界を知り尽くしている。空よりも広く、海よりも深い知識が、彼を満たしている。

 わたしは、彼に恋をしている。

「清廉たる鴾色の河は?」
「カルナベッタの星の畔……紅水晶のさざれ?」
 彼は窓越しに空を見上げながら、歌うように呟いた。彼の髪と同じ色の晴れ渡った空に、絵に描いたような白い雲がいくつも浮かんでいる。
「そう――次、華麗な囁きと高らかな秋の空の調べ」
 自分自身の指先が本のページを捲る――この瞬間が夢ではないという証となるその音すら、彼の声の前ではとても遠く聞こえる。
「……ハラシュティルギの子守唄の……第三小節」
「正解よ。じゃあ最後……荒野に眠る極光の雫」
 わたしは広げていた本を閉じた。彼の前では、答え合わせをする必要などないのだ。
 少しの間を置き、彼はその白い指先にわたしの黒い髪を絡め、わたしの耳元に唇を寄せて言った。
 ふっと時間が止まり、吐息が、かかる。
「――ワーヤヌィフの街角に咲く――キリエルフィーラの花の種」
 彼の声はわたしの心臓を止めてしまうのではないかと、思った。
 一日に幾度も繰り返される、こんな取り留めのないやり取りがどうしようもなく愛しい。この時間が永遠に続けばいいと、そんなことすら思ってしまう。
 彼の声は低く、落ち着いた穏やかなものだ。おそらくわたし以外の人にとっては、何の変哲もない――それこそ、どこにでもいるような青年のそれに聴こえるのだろう。
 けれども、その声は春の女神の息吹の如きやわらかさでわたしの耳朶をくすぐり、天の星々を司る精霊王の歌のように鼓膜を揺らす。ざわざわと風のように全身を駆け抜け、血管に溶け込んで体の隅々までゆるやかに浸透していく。指先、爪先――あるいは一本一本の髪の毛の先にまで染み渡る。
 彼の声とわたしの心臓の鼓動が、一つになるような心地がする。彼の声だけで、わたしの体は満たされていく。

「カーラ。カーラはキリエルフィーラの花そのものだ」
 捕らえて、絡み付いて、決して解けない呪いのような魔法の声。いや、声そのものが既に“魔法”なのだろう。彼の魔法は目には見えない。彼の“魔法”は、“声”と“言葉”だ。
 天から降り来る美酒のような吐息。わたしが思いつくだけの言葉を並べても、そのすべてを言い表すことなんてできやしない。
 わたしの名前でさえ、彼の声で紡がれれば呪文だ。その響きの美しさといったら、綺羅星の輝きにだってきっと負けない。自分が呼ばれているはずなのに、知らない言葉を彼の口から聴いているような気さえ、する。
「……アル・カウン」
 彼はそのことを知っているだろうか。わたしが彼の声に――ひいては彼の存在そのものに恋焦がれていることを、知っているだろうか。
「――愛しているの。どうしようもないくらいに、愛しているの。 ――アル・カウン、あなたを愛しているの」
「僕もだよ、カーラ。……嬉しい。とても」
 魔法の声を紡ぐ唇。触れるだけで、愛の言葉さえ霞んでしまう。涙がこぼれそうになり、泡のように溶けて消えてしまうのではないかという錯覚すら抱く。
 包み込むようなあなたの腕に抱かれ、あなたの心臓の鼓動を聴く。あなたがすぐ側に存在していることを実感する。

 きっとあなたは知らない。もしかしたら気づいているのかもしれないけれど、きっと、あなたは知らない。
 この上もなく鮮やかで穏やかにわたしの世界を満たしていくあなたの声に、わたしの心も体も当の昔にとらえられているなんて。
 あなたの側にいられることを、あなたと出逢えたことを、あなたがわたしをここに連れてきてくれたことを、わたしがどんなに幸せに思っているか――きっと、あなたは知らない。

 ――彼は別の世界から来たのではなくて、彼は、この世界になくてはならない人で。
 彼の本当の名前とその役割を知り、わたしが彼を、そして彼と共に在ることを受け入れるのは、もう少しだけ先の話だ。

20050102


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