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 一面に広がる美しい青空。その青の色彩の中を流れる真っ白な雲。心地良く吹き抜けていく、爽やかな風。吐き出した灰色の煙も、風に乗ってどこか別の世界へと流れていく。
 瞬間の邂逅は、永遠の別れに繋がる。ここは、現実と向き合う事を忘れさせてくれる、束の間の楽園。

 煙草を口にくわえたまま、ゆっくりと息を吸う。細く白い煙が空に立ち昇る。その煙の筋をぼんやりと眺めながら、フェランは大きく息を吐き出した。
 煙が風に流されて、そして消えていく。消える瞬間が一番綺麗だと、そんな事を思う。
「人生ってのも、煙と同じようなものかね……」
 苦笑しながら呟いて――フェランはもう一度、ゆっくりと息を吸った。
 例えば、空の本当の青さを知ってしまったら、もう地上には戻れないのだろうか。
 ただ、人は翼を持たないから、空の本当の青さを知る事は出来ないのだけれど。
 それでも、考えずにはいられない。あの空の向こうには、一体何があるのだろう――
「……哲学なんかしている場合じゃないでしょう? あなたには詩人なんて似合わないんだから」
 ――有無を言わさず現実を突きつけてくるのは、いつも、この声だ。

「人がせっかく……現実逃避をしているというのに」
 年甲斐もなく子供染みた口調で呟きながら、フェランは手すりから身を起こした。栗色の髪をぼりぼりと掻きながら、いつものように風下の方へ避けようと、声の主である娘の方を振り返って、
「……物干しに来たんじゃあないのか? エミリア」
 声の主である亜麻色の髪の娘が手に何も持っていない事に、心底不思議そうに垂れ気味の琥珀の瞳を瞬かせ、眉根を寄せた。気持ちいい位に晴れた空の下、いつもなら、洗濯物がどっさり詰まった籠の一つや二つは彼女の標準装備であるはずなのだが――
「お嬢、ここに置いとくぞー」
 フェランの問いかけに答えが返されるよりも早く、第三者の声がその間に割り込んでくる。
「ありがと、レティ、クンラ。そこに置いて――帰っていいとは一言も言ってないわよ」
 階下へと続く階段の入り口、エミリアは今しがた通ってきた扉の方へ振り返る。そこに立つ二人の青年に、あっさりとした口調でそう言い放った。
 長い黒髪を結い上げて、異国風の装束を身に纏った青年と、オレンジがかったブロンドの髪の青年は、言われた通りに荷物を置いて逃げようとした矢先――追い討ちのように放たれた言葉に顔を見合わせ、ほぼ同時に肩を竦めた。
「……エミリア、つかぬことを聞くが……それは、一体」
 木材と工具箱。おおよそ、そんな言葉が適当だろうか。ともかくも目の前に置かれたそれらを前に、フェランは危うく、口にくわえた煙草を落としそうになる。
「見ればわかるでしょ? ……それともフェラン、まさか、夕べの貴方が何したか、忘れたわけじゃないわよね?」
 言われて、フェランはああ、と間の抜けた声を上げた。言われるまでもない、夕べは――酔って暴れたならず者と喧嘩をした際に、派手にテーブルを割ったのである。勿論、わざとではなく不可抗力。情状酌量の余地くらい十分にあるだろう。
 件のならず者は、今朝方牢屋に放り込んできたばかり。放り込んだのは他でもない、警察官である自分自身だが――
 フェランは嫌な予感を覚えた。
 ここは彼女の父親が経営する酒場兼宿屋――ウィルグレイリー・インだ。主と同じ権限を持つ彼女に対して、こちらはただの宿泊客。通じるとは到底思えなかったが、とりあえずフェランは説得を試みる。
「エミリア……今日は折角の休日なんだ。見逃してもらうってわけにはいかんだろうか」
「今夜、お店が開くまでに作ってくれたら、考えてあげないでもないわ。……大丈夫、レティもクンラも手伝ってくれるから」
 ――そう、適うはずはないのだという事を、心底実感する。
「……お嬢はミーナスとデートなんだもんな、俺もお供したいくらいだ」
 レティ――レクラテシマの呟く声に、クンラが笑顔を引きつらせる。
「あのねえ、か弱い乙女に肉体労働を強いるようじゃ、紳士とは言えないわよ。それに、乙女同士の大事な相談があるから、お供もご遠慮願いたいわね」
「相談?」
「乙女の秘密よ。それじゃ、頑張ってねー」
 妙に嬉しそうな足取りで階下へと向かった娘を見送りつつ、その場に残された三人は、顔を見合わせて深々と溜息を吐いた。

「というわけで、俺は儀式を終えにゃならん。若者、出番だぞ」
 工具やら板やらを床に広げながら、フェランはそれぞれの青年の肩をぽん、と叩いた。
「そもそもテーブルを壊したのはフェランの旦那でしょう? 年長者で責任者が労働に従事しないってのは、若者に対しての示しがつかねえと思うんですがー?」
 途端に上がるレクラテシマの抗議の声に、フェランは首を傾げる。
「お前さんだってどさくさに紛れてやり合ってたじゃないか、レティ。それに……肉体労働ってのは、若者の仕事だろう」
 自分に与えられた仕事であるにもかかわらず、いけしゃあしゃあと言ってのけた。その背中に掛かる、控え目な声。
「フェランだって十分に若いでしょう? 俺やレティと大差な……」
 何かを言いかけたブロンドの髪の青年の目の前に、フェランはびしっと人差し指を突きつける。
「クンラ、俺とお前さんは八つ離れているんだぞ。お前さんがこの世で産声を上げた頃、俺はもう学校に行っていた。それでも大差ないと言えるか?」

「……ああ、麗しの花二輪、俺もお供したかった……」
 そんなやり取りを他所に、無駄にポーズを決めて、握り締めた金槌を空へと掲げるレクラテシマに、男二人の視線が突き刺さる。
「乙女談義に割り込むのはやめとけ。……三度の飯抜きじゃ済まんぞ」
 クンラの方をちらりと見やりながら、フェランは意地悪な笑みをレクラテシマへと向けた。

*

 さて、一方その頃、乙女達はというと。

「……で、聞きたい事って、何かしら? 不肖ながらもこのミーナス・クオン、答えさせて頂きますが? ……エミリア?」
「ねえ――ミーナスにとって『恋をする』ってどんな感じかな?」
 街の中央を南北に横切るメイン・ストリート。その一角に並ぶ喫茶店の店内に、二人の娘の姿はあった。
 肩口で揃えられた亜麻色の髪に、琥珀の瞳を持つ娘――エミリアと、もう一人――長い緑の髪に、空色の瞳を持つの娘、エミリアのデートの相手、ミーナスである。二人とも、それぞれ、大量に買い込んだらしい大きな紙袋を側に置いていた。中身は、まあ、生活に必要な雑貨類から少々洒落た服まで様々であるのだが。
 買い物のついでに相談したい事があると、そう切り出したのはエミリアだった。年も近く、同姓である自分に相談したいのだと言われて、ミーナスは当然、快く了承した。そうして今日、乙女談義を兼ねたデートになったのである。
 昼を大分過ぎた時間という事もあり、店内はさほど混んでいるという訳でもなかった。昼時に比べれば、店員の動きも落ち着きを取り戻している。適度に空いた席の中、窓際に近い場所に、二人は向かい合って座っていた。
「そうねえ……難しい所ではあるけれど――あ、どうも」
 そこにウエイトレスの少女がやってくる。トレイに載せられているのは、二人分のシンプルなチョコレートケーキと、ミルクが添えられた紅茶だ。ユークリッドティーと呼ばれるもので、ほのかに甘い香りとさっぱりとした飲み心地が特徴の、この世界では一般的な紅茶である。
「……例えばこれが、私の中にある、恋の気持ちだとするわね?」
 ミーナスはそう言って、スプーン一杯の砂糖をエミリアの目の前に掲げ、カップの中に落とした。
「で……この紅茶が私自身。そうね……私の心の中って所かしら」
 そのまま、ゆっくりと、かき混ぜる。
 砂糖はすぐに溶けていった。その様子を、ミーナスもエミリアもじっと見つめている。
「この気持ちを溶かせば、紅茶……つまり、私の心は甘くなるわ。美味しくなるって事よね。だから、恋をする、人を愛するって事は――少なくとも、私にとってはこういう事なの」
 わかるかな? と首を傾げるミーナスに、エミリアはこくこくと何度か頷いてみせる。
「……そうなんだ……」
 ぼんやりと紅茶の中に溶けていった砂糖を見つめるエミリアに、ミーナスは口元を綻ばせて囁いた
「エミリア、可愛い」
「なっ……! えっ……」
「だって、エミリア――『恋する女の子』の顔してるもの」
「……そ、そ、そんな事ないよ……っ」

 貴族令嬢の忘れ形見――主人曰く、亡き母に瓜二つの娘であるエミリアが、警察官の青年にどうやら思いを寄せているらしいという事は、ウィルグレイリー・インに滞在している者達にとっては周知の事実と言っても過言ではなかった。
 もっとも気の強いエミリアの事、決して自らその事を明かしたわけではない。皆がそれとなく気づいたのは、件の青年に対する彼女の接し方だった。さり気ないくらいの、気遣い。他の男達に見せるものとは、僅かにではあるが違いがあった。
 件の青年の名は、フェラン・マクレイン。二十七才、独身。王都であるセティルの、警察官を勤めている。彼にしてみれば十歳近くも年の離れた娘は、妹と言っても差し支えのないくらいの、子供だった。だから、彼が彼女の事を子供扱いする事も少なくはない。
 エミリアは子供扱いされる事を嫌がりながらも、決して彼の事を嫌ってはいないのだ。エミリアが何気なく追いかける視線の先には、大抵、彼の姿があった。
 また、フェラン自身も、その事に全く気づいていないという訳ではなかった。

「ミーナス……やっぱり、さっきのお店に、行っていいかな?」
 彼女にしては珍しい、けれどもやっぱり可愛いと、ミーナスは何となくそう思って、笑った。

*

「――フェラン」
 朝に見た時とほとんど変わらない姿勢で煙草をふかしているフェランに――エミリアは声をかける。朝と同じように、フェランは手すりから身を起こした。
「おう、お帰り。俺様の日曜大工の賜物、なかなかの出来栄えだっただろう?」
 得意げに笑ってみせるフェランに、エミリアは答えない。早足で歩み寄ると、その胸に小さな箱を押し付けた。
「ん、どうした、これ?」
 不思議そうな声音で箱をまじまじと見やるフェランに、エミリアはわざと空の方を見ながら、ぽつりと呟く。
「今日のお疲れ様でしたで賞。それから、誕生日一ヶ月前おめでとう……言うまでもなく、返品は不可だから」
 フェランは煙草を灰皿に押し付けてから、箱を開いた。手のひらに載るくらいの大きさ、淡い色彩の紙とリボンで可愛くラッピングが施してある、小さな箱。中には――
「こりゃあ……タイピンか?」
 小さな、本当に小さな紫水晶の飾りのついた――銀色のネクタイピン。
「……だって、あのネクタイは指定なんでしょ? だからタイピンくらいだったら自己主張してもいいかなって……思って……誕生日、プレゼント」
 その言葉を聞きながら、フェランは目を細めて、口の端を吊り上げた。エミリアは彼から視線を逸らしたまま、その表情の変化には気づいていない。
「知ってるか? ……愛のコトバってのは、口からこぼれると効き目を失くすらしいんだと」
 吹きぬける風に一瞬気を取られて――エミリアは、フェランの顔が近づいてきた事に気づかなかった。
「――っ!?」
 思わず、ぎゅっと目を閉じる。無意識の内に振り上げた腕も空を切り――難なく、フェランのそれに捕まえられて――
 唇に、やわらかい感触。自分が何をされているのかに気づくまで、エミリアが要した時間は――
「……およそ、心臓が三回鳴るくらいってところだろう? ……どうだ?」
 悪戯っぽい微笑み。エミリアは両手で口を抑えて――気まずそうに視線を泳がせた。
 真っ赤に染まった頬。それは滅多に見られないであろう、『恋する女の子』の顔。
「……タバコくさ……」


20040202



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