「私のことはいいから、貴方は風を追いなさい」 シルフィカはビルラスの瞳を正面から見つめ、躊躇うこと無くそう言った。そのまま彼に背を向け、彼を庇うように獣達の前に立ちはだかる。 その瞳に宿る意志の強さ、あるいは、女としての強さに、ビルラスはもう言葉を返せなかった。 留まることを望んでも、彼女は喜ばないだろう。寧ろ間に合わなかった時のことを考えると、彼女に合わせる顔がなくなってしまう。怒られるだけでは、済まされない。『世界』が、掛かっているのだから。 行くしかないのだ。自分自身に出来る精一杯のこと。今のこの状況においては、彼女が言った、“風を追う”こと。 それでも振り切ることの出来ない僅かな迷いを感じとったのか、シルフィカが小さく溜息をつくのが聞こえた。 「私は可愛いお嬢さんか素敵な殿方の腕に抱かれて死ぬって決めてるの。貴方も知っているでしょう? だからこんなところでは死なないわ。行きなさい、早く」 彼女が視線を向けている先に、ビルラスも目を向けた。複数の足音が段々とこちらへ近づいてきているのが、嫌でも耳につく。足音の主は言うまでもなく、遥か前方に見える獣達のもの。足音だけではない。獣特有の唸り声も混ざっている。酷く、嫌な音だ。 「……すまない、シルフィ」 いくら彼女が大丈夫だと言い張った所で、多勢に無勢である。それは、誰よりも彼女自身が一番良くわかっていたことだろう。 普段の彼ならば、彼女を一人、危険とわかっていながら残していくことなどしない。彼には、例え命と引き換えにすることになろうとも、それは出来ない。 それなのに、彼女は、彼がこの場に留まることを許してはくれなかった。――それこそ、例え彼女自身の命と引き換えにすることになろうとも、彼女は彼を引き止めようとはしなかった。 だから、口から零れたその言葉にも、シルフィカはちらりと肩越しに一瞥をくれただけだった。 「私に対する謝罪の言葉があるのなら、貴方が“彼女”を捉えられた時に……いくらでも聞いてあげる」 それは、謝る必要はないのだという意思表示。自分で、選んだのだと。他人の介入する余地は、ないのだと。 大剣を構え直す、その金属音が耳に届く。共に何度も死線を潜り抜けてきた、その音。大丈夫だと、思い込ませてくれる音。 前からは、獣達の怒り狂った狂気の叫び。本能のままに獲物を追い求める、瞳。 「――行きなさい!」 その声に追い立てられたかのように、ビルラスは身を翻し、駆け出した。僅かな戸惑いも躊躇いも、許されなかった。 互いに互いの背中が見えなくなるまで、それ程時間は掛からない。互いに互いの背中を見送るということもしない。 ビルラスは決して振り返らなかった。振り返ることが出来なかった。振り返ったらきっと、彼女は怒るだろう。 彼女は強い。大丈夫だ。そう思い込むことでしか、慰めにならない。あとは、神にでも魔王にでも、願うだけだ。 ――角を曲がる、階段を駆け上がる。一刻でも早く、風の元へ。
20040203
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