「ユノアール、十八歳の誕生日おめでとう。三日早いけれど……これを、貴女に」 ミランダは笑顔でそう言いながら、薄桃色の封筒を差し出した。切手こそ貼られていないものの、その表には丁寧な字で、ユノアール・スノウルビー様と宛て名が綴られていた。 「ありがとう、ミランダ……嬉しいわ、とても」 中には、何かの入場券らしき紙切れが一枚。その日付は三日後――彼女の誕生日になっている。誕生日よりも何よりも、三日後というのは彼女にとって特別な日であった。それを、唐突に思い出す。 「これは……もしかして……!」 ユノアールは弾かれたように顔を上げた。ミランダの得意気な笑みがそこにあった。 「今度の神前演武の入場券よ。ユノアール、前から『見に行きたい』って言ってたでしょう? だからフィリップに頼んで取ってもらったの。真ん中の最前列、一番いい席ですって」 何よりも先に、申し訳ない気持ちで一杯になる。この席の番号は、どう見ても貴族階級の者達が座るような場所だった。生半可な気持ちと金額で取れるような席ではない。いくらミランダの夫であるフィリップがこのリュイン王国の騎士であるとはいえ、身内の好という言葉が果たしてどこまで通じたのか。 その表情の変化に、ミランダは構わない、と言うように首を左右に振った。 「プレゼントだから、文句を言わずに受け取ること。だって……ユノアールの憧れの君、『デュランダル・クオン殿』が出場なさるんですからね?」 神前演武はその名の通り、神の前で武芸を披露する催しだ。簡単に言うと神前試合そのものである。三年に一度、新年の創造神誕生の祈年祭に合わせて大々的に執り行われる国家行事なのだ。 試合そのものはトーナメント形式で行われ、本戦への出場者は全部で八名。優勝者には、国王より望みの褒美が与えられる。 リュイン王国の王国騎士団に籍を置く者は、原則として全員がこれに参加しなければならず、本戦に合わせて年末から予選会が行われていたのは、ユノアールも知っていた。 フィリップは予選会であえなく敗退。そして、彼が負けた予選の試合で彼を打ち倒し、そのまま二十一歳という最年少の若さで出場することとなった騎士がいた。 それが、ユノアールの憧れの君である、『デュランダル・クオン』――その人であった。 憧れと言っても遠くから眺めるだけのようなもので、実際に逢って言葉を交わしたことはなかった。ただ、ミランダとフィリップは彼と幼馴染であるというので、この二人を通して様々な話を聞くことは少なくなかった。 例えば、特定の女性はいないとか、こういった女性が好みであるとか、こういった食べ物が好きでこの店で良く目撃されているとか、休みの日には必ず図書館に足を運んでいるとか…… ユノアールは年頃の娘であるから、憧れだけが誇張され、先行しているのかもしれなかった。それでも、直接言葉を交わしたこともないその彼に対する思いは、日を追うごとに募るばかりであった。 ミランダが彼女の為に神前演武の入場券を用意したのは、そんな矢先の出来事だった。 *
ユノアールは、割れんばかりの歓声を浴び、観客席に向かって深く頭を下げるその騎士の姿に、すっかり見惚れてしまっていた。 神前演武が行われているのは、王城の側に立てられている広大な円形の闘技場であった。リュイン王国の多くの国民の中でも、今日の日の入場券を手にした一握りの者だけが、この神聖な戦いの場を最後まで見届けることが出来る。ユノアールはその一人だった。 手を伸ばせば届く――そんな近い距離ではないけれど、それでも、間近と言っても差し支えのないほどの近い距離だった。金色の髪に、今まさに頭上に広がっている空と、同じ色の瞳。その色合いがはっきりとわかるくらいには、彼の存在は近い場所にあった。 決勝の舞台に立つ為には、二度の試合を勝ち抜かなければならない。そして今まさに、彼は決勝へと勝ち進む為の切符を手に入れたのだった。 初戦は試合開始の鐘と共に素早く相手の懐へと潜り込んだ彼が、叩き切るような一撃を胴に叩き込んで、それで終わった。二回戦は、その一回戦とは正反対の、両者が互いに凌ぎを削り合うような白熱した戦いであった。後で聞いたのだが、その時の相手は副団長だったらしい。相手の方が場数を踏んでいるだけあって動き一つをとってもデュランダルのそれよりは遥かに洗練されていたが、それでもなお、デュランダルの剣技は負けてはいなかったのだ。 そして三戦目。沸き上がる歓声に迎えられ、二人の騎士が決闘の場へと足を踏み入れた。 若き騎士、デュランダル・クオンと、竜王国リュイン・金竜騎士団現団長――クラウディオ・フリューゲルである。 どちらが勝っても、誰も敗者を責めたりはしないだろう。片やこの神前演武には初出場の若き騎士、片や騎士団の頂点に立つ、壮年の騎士。 二人が剣を抜いた。観客席は一瞬のうちに静まり返る。誰もが固唾を呑んで、その場を見守っている。 沈黙の後に、試合開始を告げる鐘の音が、三度、鳴り響いた。 「――デュランダル……様」 ユノアールのその呟きは、歓声に埋もれる。 鐘の音の余韻が消えても尚、二人は剣を握り互いを見つめたまま微動だにしなかった。 デュランダルも、そしてクラウディオも――時が止まってしまったかのように、一歩たりとも動かない。 勝者と敗者が決まるのは、一瞬だ。その瞬間の駆け引きが、全てを制する。 ――そして、ユノアールはその一瞬を、確かに見た。 吹き抜けたのは西からの風。風の生まれる処ウィンディアから絶えず吹き続ける、穏やかな、緩やかな風。 風は二人のマントを揺らし、髪を撫でた。風の祝福が彼方へと去った頃、二人は同時に地を蹴った。 横薙ぎに払われたデュランダルの剣と、上から振り下ろされたクラウディオの剣――二人の剣のその軌跡が、空を二つに斬り裂く。ぶつかり合った剣が生み出す、甲高い音。 「……ああ……」 綺麗な円を描いて弾き飛ばされたのは、紛れもなくクラウディオが持つ剣だった。 その一振りの剣が地面へと突き刺さった瞬間、最上段の席でそれを見ていた国王が、さっと右手を挙げる。 試合終了を次げる鐘の音――そして、若き勝利者を称える為の、先程までのそれとは比べ物にならないような歓声が生まれた。 ユノアールは口元を両手で覆う。息を呑み、喉に力を込めた。涙が出そうだった。 喜びだけではない、この例えようのない気持ちを抑えるので精一杯だった。揺らぐ視界に映るその人に、胸の鼓動は高鳴るばかりだった。 そうして、ふと――デュランダルの瞳がこちらを向いた。多くの観衆の中で、彼は間違いなく彼女を探し出していた。 「え……」 ユノアールは、更に目が離せなくなる。見間違いではない。その、空のように蒼い瞳が――真っ直ぐに、こちらへと向けられている。群衆を見ているのではない。その瞳は、間違いなく彼女を見ていた。 「うそ……」 やわらかい微笑みが自分へ向けられたものだと知った時、ユノアールは、顔が真っ赤になっていくのを感じた。両手が無意識の内に頬に伸びる。熱くなっているのがわかる。 歓声の中で――まるで、二人の時間だけが切り離されたかのように、お互いに目を離すことなく、じっと、見つめ合う。 ユノアールが我に返ったのは、彼が彼女に向けて深々と敬礼をしてみせた時だった。 *
「――貴女のことは、ずっと前から、知っていましたよ」 「……え……っ?」 そのことを告げられたのは、件の神前演武からしばらくして後のことだった。ミランダとフィリップの取り計らいが功を奏したか、その日、二人は中央広場の片隅にある小さなカフェテラスにいた。 「ミランダと、フィリップとは――幼なじみでして。貴女のことも、よく話してくれました」 「あまり……良い話ではなかったでしょう?」 デュランダルは首を横に振る。ユノアールはそれに気づかなかったのか、そのまま言葉を続けた。 「……お転婆で……料理も上手ではないし、お仕事中に居眠りもするし――お掃除だっていつもさぼっているし。お祈りの最中に晩御飯のおかずとか考えていたり――」 「……それでも、あの笑顔を見れば許せてしまう――と、二人は言っていました。確かに……私もその通りだと思いましたよ。あの日、あの場で貴女の姿を初めて拝見して、素敵な笑顔だなと、そう思いました」 ユノアールはふるふると首を左右に振る。 「いいえ、気休めはいらないの。全部本当のことなの……って……」 デュランダルの言葉がようやく頭の中を回ったのだろう。ユノアールのその顔が、一瞬の内に赤くなった。紅茶を運んできたウェイトレスの少女が去るのを確認してから、デュランダルは改めて口を開く。 「……貴女は、笑うかもしれませんね。言葉でしか、話でしか聞いたことのない、貴女に――恋をしていたと言ったら」 その言葉は、ユノアールにとっては予想外のものだった。だからこそ、思考がすぐには追いついてこない。赤くなった頬の赤みが、更に深まる。視線をどこに向ければいいのか、わからなかった。 「……嘘……」 辛うじてそれだけを呟くユノアールに向けられる、デュランダルの――どこか困ったような、恥ずかしそうな笑み。その表情が、『嘘じゃない』と伝えてくれる。 「夢みたい……」
20040622
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