「ねえ、クンラ、それってちょっとずるいんじゃないの?」 ウィルグレイリー・イン、通称『冒険者の宿』――その一階にある酒場のテーブルの一つで、向かい合う男と女の姿。 すました顔で紅茶を煽る金の髪に翠玉の瞳の青年と、あからさまに不機嫌そうな顔で頬杖をつく、深い緑の髪に空色の瞳を持つ娘。 まだ天球のやわらかな光が地上を照らしている頃であるから、日が暮れてから賑わいを見せるその場所に、彼ら以外に人影はない。 「俺はいかさまをしているわけでもないし、ずるをしているつもりもないんだけどな……はい、あと三手」 からかうような声と、コトン、と、小気味良い音が響く。 二人の間に置かれているのは、何ということもないただのボードゲームだ。カディットと呼ばれるそれは通常、二人で対戦するもので、《王》、《女王》、《魔術師》、《司祭》、《槍騎士》、《騎士》、《兵士》の七種の駒を交互に動かして、相手の《王》を取りに行くという、この世界では古くから親しまれているゲームである。 盤上に置かれた両者の駒は、既にその戦いが終盤戦へと突入していることを示している。黒い駒は青年の物で、娘の駒は白だ。白い駒の領域内には既にいくつかの黒い駒が侵入しており、一目でわかるほどに、青年の方が有利な状況である。 「でも、それなら……一回くらいは私が勝ってもおかしくないじゃない――はい」 ミーナスはそう答えながら、駒の一つ――白い《槍兵》を取り上げた。そして、クンラの黒い《兵士》の二つ手前に置く。槍は射程が長いので、二つ離れていても敵を倒すことができると、そういった寸法だ。 「まあ、ほら、俺はどちらかというと考える方専門ですから。それに、昔から姉貴とよくやってたし……ねえ?」 「私だって……兄さんに付き合わされてそれなりにやってたのよ、これでも」 彼らの知っている中でこのカディットに最も強いのは、クンラの姉であるリスリィーアだ。その腕前は彼らが住む竜王国リュインの前国王も認めるほどで、彼の巡礼の折には、よく接待がてらその相手をつとめていた。竜の王冠を息子へと手渡した現在でも彼は時折神殿へと訪れて、リスリィーアと共にカディットを楽しんでいる。 もちろん、他でもない国王の名を持つその人に恥をかかせるわけにはいかなかった。しかし、あっけなく終わってしまってはあまりにも興醒めしてしまう。そのためには、リスリィーア自身にも必然的にそれなりの腕前が求められるわけで、クンラは都合の良い練習相手だったと、そういう寸法だ。 ちなみに、そのリスリィーアの夫であり、ミーナスの兄であるペミナーラは、彼女の『一勝したら何でも言うことを聞く』という言葉を信じて、何度も彼女に挑戦した末にようやく収めた勝利の後、彼女にプロポーズをするに至ったのである。 その練習相手をつとめていたのがミーナスだ。だから、単純な腕前だけなら二人ともそれなりのものなのである。 ――はずなのだが。 「俺はある意味、ミーナスやペミナーラさんの方を尊敬するけどね。ペミナーラさんが姉貴にプロポーズを申し込むために、ミーナスもカディットを一から覚えたんだろ? しかもペミナーラさん、戦績だけなら十三戦一勝十二敗だ……はい、あと二手」 元々頭を使うことが得意ではないペミナーラが、カディットの初心者向けルールブックを片手に日夜苦戦していたのも、今となってはいい思い出である。 「それはほら、リアさんのためなら水晶竜にだって挑みかねないくらいだもの、あの人は……っ、え、嘘、そこに動かせたっけ?」 ペミナーラという男は、実際、ミーナスの言う通りの男なのである。何があったのか、リスリィーアに心底惚れ込んでいるのだ。彼女のためなら水晶竜に挑むどころか、海底に沈んだ一粒の宝石だって探しに行きかねない。 「――《兵士》は敵方の三列目以内に入ったら、左右一マスも移動範囲内になるの。忘れてたでしょう?」 「……っ、わ、忘れてたわけじゃないけれど……私だって頭を使うのはそんなに得意じゃないのよ、ああもう」 駒を動かしながらもそれ以上は言い返せない様子のミーナスに、クンラのからかうような笑みは深まるばかりだ。 「ねえ、俺が勝ったらデート一回って、そんなに嫌かな?」 「……いつの間にそんな約束……あっ!」 不意に放たれた一言に思い切り動揺を見せたミーナスの表情が、一瞬にして強張る。 頭の片隅で広げられるカディットのルールブック――《騎士》の駒は、敵方の三列目以内に入ったら―― 「はい、チェックメイト――ちょうど青水晶が切れたところだったんだ」 ――前後左右三マスだけではなく、斜め方向にも移動できるようになるのだ。 戦いを終わらせた最後の一手。斜め前方から回り込んできた黒い《騎士》の駒が、白い《王》の駒をとらえていた。
20041017
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