はるかなる高みから、眼下に見渡せる限りの世界が広がっている。 鳥すらも見下ろせる位置に、彼はいる。 しかし、彼には鳥が持つような翼はない。彼が立つのは『街』の岸で、空や雲のほとりと言ってもいいような場所である。一歩足を踏み出せば、地上へと向かう風の中に容易く呑み込まれてしまうだろう。 鳥のように空を駆ける力は、彼にはない。呑み込まれてしまえば、後はその命を空へ捧げるだけだ。 この街は、いわば雲と同じ。空に近く、大地からは遠い――空と大地の狭間にあるここは、そういう街だ。 「――アルス……?」 彼の名をそう呼ぶのは、この街には一人しかいない。 「ソフィア」 彼と同じ、漆黒の髪と瞳を持ち、そして、『翼』を持たない 世界が生まれたその瞬間から、世界を見守る役目を背負った人。 この《 「それ以上足を進めては駄目。落ちてしまいます」 彼女の言葉は、淡々と事実だけを述べる。アルスは溜め息交じりに首を左右に振った。 「わかっている。あなたの目の前でここから身を投げるなんて、愚かな真似はしない」 彼はその足と瞳を彼女へと向け――そして、ソフィアが怪訝そうに眉を寄せる瞬間を見た。 「では、私がここにいなかったら? ――あなたは身を投げるのですか?」 アルスは目を見張った。予想もしなかった言葉が、彼の心を貫いた。 「……あなたが泣くなら、俺は自ら命を絶ったりしないと……そう言ったはずだ。何度も――ソフィア」 ゆっくりと、彼女の元へ歩み寄る。初めて会った時とは違い、今は頭一つ分低い位置にある彼女の顔に手を添え、憂いを帯びたその眼差しをそっと覗き込む。 添えた両の手は細い肩へ。力を込めたら容易く折れてしまいそうな、華奢な体だと思った。 「ソフィア……あなたは本当に変わらない」 彼女に出会った時、彼はまだ年端も行かない子供だった。大勢の翼ある大人達と共に、自身の身の丈よりも長い剣を、彼女のために振るうと誓った。 「アルス、あなたは大きくなった。初めてあなたに会った時、あなたはまだ、剣の握り方も知らない小さな子供だった」 彼女は『時』を持たない。この世界が生まれた瞬間から、彼女はただそこに在って――今も変わらない姿で、彼の目の前にいる。 「あれからもう十年が経った。今なら、俺はあなたを護るために戦うことができるし、そのつもりでいる。 ――ソフィア。この命が尽きるまで、俺のすべてはあなたのものだ」 いつか自分は、彼女を残して彼女の目の前から消えてしまうのだ。その『いつか』は、遠い未来の出来事のような感覚でしかないけれど、彼女にしてみれば、それはおそらく瞬きをするよりもわずかな時間なのだろう。 彼女は世界の行く先を、生まれる命を、死にゆく命を、その瞳で見守ってきた。今までもそうだった。これから先もきっとそうだ。 いつか年老いて彼女の側から離れる日が来たら、彼女は――果たして自分のために泣いてくれるのだろうか。 優しすぎるこの聖女のことだ、きっと泣いてくれるのだろう。泣かせたくて死ぬわけではなかったとしても、きっと――泣いてくれるのだろう。 「アルス。私はこれから、あなたにとても重いものを背負わせることになるかもしれません」 まるで自身の心の内を見透かされたような気がして、アルスはソフィアを見やった。 「ソフィア?」 「あなたに――私の『守護者』になって頂きたいのです。アルス」 「……俺に?」 彼女の唇が紡ぎ出した言葉――それは彼に『永遠』を約束するものだった。
20050128
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