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風の伝説の終わりの話



 世界が終わるのに必要な時間は、瞬く間――それだけだった。
 一瞬だけ止まった時間が、緩やかに動き出す。白と緑と、そして紅の色彩の向こう――戦慄を覚えずにはいられない、笑みが見えた。
 それは倒すべき敵。それは、世界を無に帰そうとする存在。絶対の意思。《混沌》。
 ――結局は、誰も――それこそ、この世界を創り出した神でさえ、《混沌》の意思に抗うことなど出来やしないのだ。
 世界は終末を迎え、また始まる。今更そんなことを痛感したところで、時間は巻き戻らない。
 間もなく、世界は終わる。そして一足早く、彼の“世界”が終末を迎えようとしていた。

 白が、紅く染め上げられて行く様を、彼は呆然と見つめていた。
 悪夢を見ているような気分だった。これはただの夢だと、そう思い込んでしまいたかった。
 けれど、夢ではないから決して覚めることはない、というのも、彼はわかりきっていた。
 一瞬の内に、彼は全てを理解した。己が彼女を護るべき存在でありながら、彼女を護れなかったことも。
「――ティア!」
 視界から薄紅と黒の色彩を纏った男の姿が消えた瞬間、彼は勢い良く飛び出していた。紅の中に、辛うじて残る白。血溜りの中に倒れ伏した人影。彼が護るべき存在。彼にとっての全て。
 けれど、その人はもう助からない。それは誰の目にも明らかだっただろう。
「……風牙……?」
 触れたら、すぐにでも壊れてしまいそうだった。それでも風牙は、彼女を抱き起こさずにはいられなかった。
 空を宿した瞳が、ゆるりと開かれる。どんなに顔を近づけて覗き込んでも、そこに彼の姿は映っていなかった。既に光はなかった。意識があることさえ、奇跡に近かった。
「ああ、俺だ。ティア――死ぬな。ティアが死んだら、俺は」
「……ごめん、お前の……顔も、もう……見えない――」
「しゃべるな、もう何も言うな」
「ううん、駄目……もう駄目って、わかるからさ、さすがに……聞いて? 風牙」
 弱々しいその笑みにも、彼は笑うことが出来なかった。いつもなら冗談を言うなと、軽く小突いていたに違いないその言葉は、例えようのない針となって彼の心に突き刺さった。
「ティア――俺は……」
 一秒でも惜しむかのように、彼女の言葉は続いた。息が荒くなり、風を切るような音がする。
「……もし、あたしが……お前と、話……が、出来るような……お前を……連れて行けるような……そんな種族、に、生まれ変われたら……また一緒に……」
 彼女を抱き締める腕に、無意識の内に力がこもった。失いたくなかった。何とかして繋ぎ止めておきたかった。けれど、死を告げる神の息吹を、彼は感じ取ったような気がした。その訪れを悔やむよりも先に、震える声が言葉を絞り出した。
「――待ってるに決まってんだろ。お前と一緒にいられるなら、神にだって祈ってやるさ、だから――」
 死ぬなと言いたかったのに、それが口から飛び出すことはなかった。代わりに、彼は声を殺して泣いた。彼女の前では二度と泣かないと決めていたのに、その戒めは容易く崩れ去った。
 彼の瞳から零れ落ちた涙に、そのあたたかさに、彼女は気づいただろうか。
「……ありがと……」
 風が運んだ、小さな、小さな声。空色の瞳が、闇の中に閉ざされる。
「――ティア……?」
 縋るような声。呼べばいつでも答えてくれたのに、彼女はもう答えない。そして、彼の姿はその場から一瞬の内に消失した。

*
*
*

「――っ!」
 息を切らしながら青年がその広間に飛び込んだ時には、全てが終わっていた。
「ティア――ティア・フォーン!」
 ビルラスは叫んだ。あらん限りの声で以ってその名を呼んだ。しかし、答える声はなかった。自由なる風の姿は、そこにはなかった。あったのは一振りの剣だけ。静寂が支配する空間に、青年の声だけが響き渡った。
「……これは……」
 赤く染め上げられたその場に歩み寄り、ビルラスは呆然と立ち尽くした。しゃがみ込み、指を滑らせる。鼻を寄せると、確かな血の匂いがした。
 ビルラスは血溜まりの中に落ちていた剣を拾い、立ち上がった。ゆっくりと、周囲に視線を巡らせる。白き衣の風の姿もなければ、彼女と共に在ったはずの精霊の姿も見つからない。己以外の存在の気配すら感じられない。
「……死んだか――ティア・フォーン」
 あの《混沌カオス》が人間の血を流すとは思えない。彼女の血に間違いはないだろう。ビルラスは胸中でそう結論付けた。
 おそらく、彼女の死と共に、精霊は生まれた場所へと還されたのだ。それが精霊との契約だということくらいは、魔術の心得のないビルラスでも知っている。
「風牙――」
 精霊の名を呼ぼうとも、答えがないのは同じだった。精霊がこの場にいないということは、即ち、彼女が死んだということ以外の何物でもない。けれども、肝心の亡骸が見つからない以上、決定打にはなり得なかった。
「――ならば……カオスは……?」
 そして、彼女が倒すべく探していたはずの敵――《混沌》の名を、呟く。答えがないとわかりきっていても、尚。
 血に濡れた一振りの剣を握り締めたまま、ビルラスは暫しその場に佇んだ。周囲に気配が現われないか、じっと息を潜めていた。

 ――やがて、階下から足音が響く。だんだんと近づいてくるそれに、ビルラスは天を仰いだ。
「……間に合わなかったようね」
 溜め息混じりに告げられた声に、彼は振り向いた。
「――シルフィ」
 階下で別れた女が、そこにいた。腕にも、足にも、無数の傷を負っていた。満身創痍という言葉が相応しいだろう。全身傷だらけの癖に、顔にだけ目立つ傷がないのにはビルラスも思わず感心してしまったが、笑っている場合ではない。
「おかげさまで、可愛らしい天使に助けられたわ……私ではなく風を助けてと、言うべきだったかしらね」
 ビルラスは力なく首を横に振る。彼女が彼をここへと行かせる為に請け負った獣の数は、彼女を死に至らしめるには十分すぎるほどだった。彼女が助かっただけでも、それは奇跡だ。天の使いと彼女は冗談めかして言ったけれど、あながち、嘘ではないのかもしれない。
「精霊の坊やもいないのね……ここが終点?」
「ああ、どうやら――そうらしい」
 リュイン王宮の大広間よりも広いその空間に、扉は一つしかなかった。即ち、彼が潜り、彼女が潜り、そして今ここにいない自由なる風とその精霊が潜った扉だ。入り口であり、出口でもあるはずのその扉以外に、扉と呼べるようなものはなかった。所々崩れ落ちた白い柱が、左右に並んでいるだけだった。
「……戦いは終わった。自由なる風は止み、《混沌》の姿も消えた」
 握り締めたままの、自由なる風が携えていた一振りの剣。ビルラスはそれに軽く口付け、祈るように目を伏せた。

*
*
*

 第一次封印戦争と呼ばれる、一つの戦いがあった。
《混沌》の意思を知り、世界の終末を食い止める為に戦い続けた戦士達がいた。
 その戦場を駆け抜けた、一陣の風があった。

 その風の名は、風の涙ティア・フォーンという。
 戦争の終結と共に姿を消した彼女は、別の世界へと駆け抜けていったのだとも、死んでしまったのだとも言われているが、その行方についてはいまだに多くの謎が残る。

20040629



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