風が吹いた。 囁き声のような音を立てて枝が揺れ、その桜の樹は、抱いていた花達を振り落として行く。 「綺麗……とっても綺麗ね。星が降ってきたみたい」 目の前で描かれていく幻想的な風景を文字通り夢見る黒瞳で見上げながら、紅緒は感嘆の息を漏らした。優しく吹き抜ける風に、長い黒髪と薄紅のリボンが靡く。 雲一つない夜空にはらりはらりと舞う花は、まるで、自らの意思を持っているようにも見えた。 笑っているのか、泣いているのか、それは紅緒にはわからない。けれども、揺れる枝が奏でるざわめきは、きっと桜の声そのものだと、そう思う。 或いは――自身の言葉の通り、花弁が星の化身だとしたら……奏でられているのは、星の声なのかもしれない。 「そうだね、今宵の桜は……今までに見た花の中で、二番目に美しい」 紅緒の声に応えたのは、傍らに立つ青年。紅緒は大きな疑問符を顔にくっ付けながら、頭一つ分高い位置にある青年の茶色の瞳を見上げた。視線が合わさり、その目と口元が細められる。 吹く風に靡く、瞳と同じ色の青年の髪。髪だけでなく、白いマントもまた然りだ。闇色の中に浮かび上がるそれは、まるで大きな翼のようだった。仮に、彼が実際に翼を持ち、空を飛べたところで、紅緒にとってそれは特別不思議なことではない。何と言っても目の前にいる青年は、東都を騒がせる神出鬼没の怪盗・天狼星だ。大和人の証ではないという、べっこう飴の色をした髪と瞳が、もしも昔話に出てくるような天の使いのものなのだとしたら――空を飛べたっておかしくはないだろうし、それはそれで、凄いことなのだから。 そんな錯覚をせずにいられないのが、彼の、傍目に見ても整っている顔立ちだった。もっとも、瞳だけは白い仮面の向こうにあるから、素顔を見ることは出来ないのだが。 「――紅緒さん?」 自らの名を呼ばれて、はっと我に返った。不思議そうに瞬きを繰り返す茶色の瞳が、こちらを見ている。 「な、何でもないのよっ。そ、それなら一番目は? 天狼星が今までに見た、一番綺麗な花」 暫し見惚れてしまったのを誤魔化すように、紅緒は火照った頬を軽く両手で叩いた。 (男の子のくせにこんなに綺麗なんて、いつ見てもずるいわよねっ) 心の中で恨めしそうに呟きながら、自ら発した問いの答えを紅緒も考える。桜が美しいのは言うまでもないが、大人びた梅もちょっと豪華な椿も捨てがたい。学校の花壇に咲く可愛い鈴蘭やチューリップや、夏の向日葵の笑顔だってとても綺麗だ。 彼の心を一番にとらえて離さない、そんな花があるのだろうか。遠い異国の、名前も知らない花だろうか? 「紅緒さんは、何だと思う?」 「――あれ! 月下美人っ!」 何かが頭の中で結びついたらしい。紅緒は半ば反射的にそう叫び、びし、と、勢い良く空を指差した。 その先に輝く、大きな満月。それを見上げた天狼星は、月とそれを指差す少女とを交互に見やりつつ――唐突に小さく吹き出した。 「確かに月下美人という花もあるけれど……紅緒さん、もしかして月下美人っていう月があると思っていた?」 「な……そっ、そ、そ……そんなことないもん。お月様、そう、お月様が綺麗だっただけよ、それだけなのよ!」 口元に手を添え、必死に笑いを堪えている様子の天狼星に、紅緒はますます慌てて、言い訳のような言葉を並べるばかりだ。その様を即ち肯定ととらえるのは、天狼星にとってそう難しいことではないのだろう。 「……まあ、月の光の下に立つ美人という点では、間違っていないけれど」 更に大きな疑問符が、紅緒の顔に浮かび上がる。天狼星はそれには答えず、代わりににっこりと笑いかけてから、目の前に聳え立つ桜の樹を見上げた。 この『東都』の象徴――齢五千を重ねるかとも言われる、老齢の桜の樹。その高さは今にも天に届きそうで、太さは、子供が十人位で手を繋いでやっと囲むことが出来るくらいだ。 それだけの大きさの木に、淡い桜色の花が咲き乱れていた。 桜星は季節が巡る度に、まるでその都度その姿を初めて目にするような――そんな光景を容易く見せ付けてくれる。幼少の頃から慣れ親しみ、幾度となく目にしているにもかかわらずだ。 青白い満月の光に照らされ、闇の中に浮かび上がる桜色。心震わせるほどの美しさ。涙零れるかと思うほどの力強さ。 うつろう時の流れに沿ってこの東都を見守ってきた老樹は、その内にどんな思いを抱いてきたのだろうか。 「ねえ、紅緒さんは知ってる? 昔、昔……この桜星を巡って、この国は二つにわかれたんだよ。多くの人達がこの樹の為に剣を振るい……そして、死んでいった」 桜星と咲き乱れる花達を見上げたまま、天狼星は呟く。紅緒はその横顔を見つめたまま、小さく頷いた。 「この樹の根元に眠っていたっていう、秘宝を巡って……大きな戦争が起こったのよね」 「……実際のところは、戦争を始めた人達しか知らない話だけどね。僕は……この樹の美しさを、この桜星そのものを、誰かが独り占めしたかったんじゃないかなって、思うんだ」 その言葉に、紅緒は微かに首を傾げた。深く考えるよりも早く、口が動く。 「どうして? こんなに綺麗に咲くんだもの、みんなで見た方が楽しいしお得じゃない?」 「うん、僕もそう思う。けれど、その人にしてみればそうじゃなかった。この桜は……例えるなら、宝石と同じだったのかもしれない。ダイヤモンドの指輪は、大勢で眺めて楽しむものじゃないでしょう? それと、同じように」 独り占めしたくなるような光景、独り占めしたくなるような花。言われて、改めて紅緒は桜星を見やった。大きな戦争があったのは、今からはもう、遠い遠い昔の話だ。桜の樹というのが一年や二年でどれくらい大きくなるのかは知らないけれど、その戦争があった頃には、この樹はここまで大きくはなかったはずだ。それでも、桜星が人の心をとらえて離さなかったというのなら―― 「じゃあ、近い内にまた、この桜星を巡って戦争が起こるかもしれないってこと?」 きっと戦争があった当時よりも大きくなったであろう桜星は、当時よりも美しいに違いない。それならば、この美しさを独り占めしたいと考える者が再度現れた所で、何らおかしくはない――そんな単純な構図に、周りも省みず直感で行き着いてしまうのが、彼女という人間であった。 ……ちなみに戦争があった時代とは違い、この桜星がある東都中央広場は、現在は正式に東都が保有している土地だ。そして紅緒が生まれるよりも以前に取り決められた条約により、この領域は半永久的に不可侵のものとなっている。余談ではあるが、紅緒はそのことを、先日歴史の授業で習ったばかりだ。 「どうだろう、ないとは言えないかな。でも……今の時代の人々はそこまで愚かではないと信じたいな、僕は」 天狼星は空に向かって両手を伸ばした。その手の内に舞い降りる花弁を、そっと抱き締めるように握り締める。紅緒も同じように空に向かって両手を掲げたが、上手く手の中に収まらなかったらしい。それが気に入らなかったのか、少々頬を膨らませつつ地面にしゃがみ込んで、絨毯のように敷き詰められている花弁を掴んだ。 「紅緒さん、着物が汚れてしまうよ?」 地面にべったりとくっ付いた着物の袖や袴の裾。それを気にする様子もなく、両手一杯に花弁をかき集めて紅緒は立ち上がった。桜の花弁の小さな山を、空へと力一杯放り投げる。一瞬だけ重力に逆らった花弁は、降り注ぐそれに紛れて再び地面へと還る。束の間の余興に、紅緒は心底満足そうな様子で頷くと、天狼星の方に向き直った。天狼星は些か拍子抜けしたようにその光景と少女とを見つめていたが、やがて顔を綻ばせ、相手に応えるように頷いた。 「それなら……もう一つ。紅緒さん、桜が散り際に舞うのは……どうしてだと思う?」 「それは……」 すぐに答えを紡げずに、紅緒は腕を組むと、桜星を半ば睨むように見据えた。 散るのは終わりの証だ。花が終わるから散るに決まっている――紅緒にとっては、それだけの話である。それをわざわざ聞くからには、天狼星にとってはそれ以上の意味があるということなのだろう。 そんな紅緒の胸中を知ってか知らずか、天狼星は答えを待たずに続けた。 「僕は――僕はね、ずっと……死んで行った人達の為に、涙を流しているんじゃないかって、思っていたんだ」 「……涙?」 「そう、桜が舞う瞬間は……とても静かで、儚い。その様がね、まるで、終わりを迎えた命を……どこかへと見送っているように、思えたんだ」 そして、一際強い風が地上を抉るように吹き抜けていったのは、その時。 紅緒は思わず目を塞いだ。視界を完全に覆い隠してしまうほどの桜の花弁が、風に煽られて夜空に舞う。その瞬間、頬に触れたのは誰の手であったか―― 「でもね、逆にこうも考えられる。命の終わりは即ち、新しい命の始まり……なんてね? だって季節が巡ったら、また桜は咲くんだもの」 「――天狼星っ!」 逆に青年へと伸ばした手はあっさりと空を切り、幾枚もの花弁を掴み取っただけだった。握り締めた感触のくすぐったさに、すぐに手を離す。 薄っすらと開けた視界に、既に青年の姿はなかった。ただ先程までよりも強くなった桜の雨が、緩やかに地上へと降り続いているだけ。美しいその光景に息を呑むが、浸っている場合ではない。 「今日も箱入りで嬉しかったけれど……さすがに箱ごと連れて行くわけにはいかないから、中身だけ貰って行くよ?」 「……あっ――!」 慌てて袂に手を入れ、中を探るが、いつの間にか確かな重さがなくなっていたそこに、手応えらしい手応えは感じられない。 紅緒は桜星を見上げる。無数にわかれた枝の一つに、白い影が佇んでいた。言うまでもなく、天狼星だ。 「返しなさい! 『白薔薇の横顔』っ!」 さあ、と思い切り広げた手のひらを天狼星の方へ伸ばすが、無論、樹の上と地上とでは、届くはずもない。天狼星は困ったように笑って肩を竦めてから、手の中にある小さな像を掲げた。親指の爪ほどの大きさの、薔薇の形のブルーサファイヤを抱いた、銀色の女神像――紅緒が称する所の、『白薔薇の横顔』だ。 「――『白薔薇の横顔』、確かに頂きました。願わくばまた、美しい月夜の下で出逢えることを――……またね? 紅緒さん!」 盗まれた『白薔薇の横顔』の代わりに紅緒へと返されたのは、茶化したような投げキッスとウィンクがひとつ。紅緒の悲鳴にも似た叫び声を背に、白いマントが夜空に翻る。 月光と宵闇に紛れて消えて行く、星の名の怪盗を見送るは――東都に咲いた桜星。その桜星が降らせる花の雨。そして、 「覚えてなさいよっ、今度こそ、今度こそ捕まえてみせるんだからああああっ!」 ――近所迷惑極まりない、毎度おなじみの捨て台詞だった。 |