今年も、風の卵が孵る季節が巡ってきた。
 世界という揺り篭に抱かれ、あたたかな太陽の光と、冷たくもいとおしい雨粒と、そして彼らより一足も二足も先に世界を巡ってきた風の息吹――それらをいっぱいに浴びた幼い卵達が孵る季節が、今年も巡ってきた。


02.オパールの風 ―Wind of Opal Green.―


《やあ、今年も卵達は順調に育っているようだね》
 世界を巡ってきた風のひとりが、青い草の合間に眠る卵を見下ろしながら呟いた。
《このぶんだと、今すぐに孵ってもおかしくはなさそうだ》
 別の風がそう言って穏やかに笑う声に、他の風達も同意する。
《せっかくここまで来たんだ、そろそろ、孵してやろうじゃないか――もちろん、僕らの手でね》

 風の卵は、透明な緑色の、薄い硝子のようなもので出来ている。
 光に透かすときらきらと星が散り、水に濡れると湿気を含んで水色に変わる。
 風達が手のひらで転がすように卵を撫でると、案の定、孵る直前だったらしい卵が、乾いた音を立てて一斉に割れ始めた。
 そして、中から小さな新しい風が次々に顔を出す。
 割れた卵の欠片をさらに転がすと、それらは砂のように細かく砕けて、同じく風の一部となる。

《おはよう、無事に生まれたね。ようこそ、幼い僕ら》
 右も左もわからぬままに舞い上がる幼い風達の手を、大人の風達がそっと取り上げる。
 生まれたての風はさながら小鳥のひなと同じようなもので、ひゅうと鳴く声もか細く頼りなく、身体もとても小さい。
 自分の力だけではまだまともに飛ぶことすら困難だが、風は、生まれ落ちたその瞬間から飛ばなければならないのだ。
 一つの所に留まることも許されず、また、生まれた瞬間から足を止めることもない。
 飛べなければ、風の子は、風になることができない。

《さあ、おいで》
 大人の風達が、幼い風達に呼びかける。
《だいじょうぶ。何もおそれることはない。世界が、きみたちを待っているのだから》
 その手を取って、翼を広げ、空へと――まだ見ぬ世界へと連れてゆこうとする。

 遥か高く舞い上がる風に乗せれば、あとは、背中を押すだけ。
 幼い風は生まれ落ちた歓びを声に変えて、空を飛ぶ。
 陽の光を浴びて、豊穣の雨を纏い、まだ見ぬ世界へと羽ばたいてゆく。

 空を染めて海を彩る蒼い風は、波を立て、梢を揺らし、雲を動かす。
 鳥と共に空を舞い、大地をゆく獣を見下ろし、花が飛ばした種を拾って遠い異国の地へと運ぶ。
 傷つき倒れたものがいれば、生きろと奮い立たせるように頬を撫で、悲しみにくれて泣くものがいれば、だいじょうぶだと励ますようにその涙を乾かそうとするだろうし、立ち止まって歩けなくなってしまったものがいれば、再び足を踏み出せるように、その背中をそっと押すだろう。
 彼らは世界の声を聴き、姿を見て、そしてさまざまな色に染まってゆく。

 風はそのようにして、世界を巡り続ける。
 何度も何度でも世界を渡り、巡って、その度に違う世界の声に耳を傾ける。
 共に歌い、笑い合い、さまざまな想いを抱きながら、風は留まることなく世界を巡り続ける。

 あなたにも、きっと聞こえるだろう。
 風達の歌う、世界に生きるたくさんの命の、たくさんの想いが重なり合った歌声が。
 耳を澄まさなくとも、風はいつでも歌いながら駆けてゆくのだから。

 何もおそれることはないと、彼らは言う。
 風は、いつでも誰かの側にあって、誰かの歌を聴いている。


 例えば、今日わたしの側を通り過ぎた風が、明日あなたの側を通り過ぎてゆくこともあるだろう。
 なぜなら、風は絶えず世界を巡っているものだから。


 ――さあ、おいで。

 扉を開けば、ほら。
 そこに、新しい風の吹く世界がある。



Fin.



20090726
『オパールの風』

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