薬師であるクラレンスの一日は、庭に咲く花の葉を摘むところから始まる。 色とりどりの花達はどれも彼女が丹精込めて育てたもので、すべてが薬の材料になるのだ。 摘み取られた葉は、あるものは火で煎られ、またあるものは香料と共に煮詰められる。 その際に出る匂いは形容しがたいほどに強烈で、運悪く上空を飛んでいた鳥が臭さのあまり気を失い、落ちてしまったこともあるほどだ。 そのため、煙突から煙が出ている時は彼女の家に近づかないというのが、近所の人々にとっての暗黙の了解であった。 ――ただ一人を除いては。 04.とある薬師の日常の風景
―One day of The Pharmacy.― 「クラレンスさん、お届けものです」 コンコンとドアを叩く音と次いで投げかけられた馴染みのある声に、クラレンスは火を止め、エプロンとマスク代わりのスカーフを外した。 「はあい――少々お待ちくださいね。あと、少し離れていてくださいな」 玄関脇の姿見の前で軽く身なりを整え、来客が離れたのを窓越しに確認してから、そっと扉を開ける。 扉が開くと同時に押されるように飛び出す“匂い”に、来客である青年もわずかに身を強張らせたようだった。 「おはようございます、クラレンスさん。……相変わらずすごい匂いですね」 「おはようございます、ライナスさん。ふふ、こればっかりは慣れました? なんて聞けませんよね」 「……確かに。これ、いつもの、組合からのお届けものです。ご確認ください」 ライナスと呼ばれた郵便配達員の青年は小さく肩を竦めてから、両手で抱えていた大きめの小包を、宛て名のラベルが見えるようにクラレンスへと差し出した。 「まあ、重かったでしょう?」 小包を受け取ろうと両手を出したクラレンスに、ライナスは笑って首を横に振る。 「いえ、これくらいならいつものことです。お持ちしますよ。どこに置けばいいですか?」 「ありがとう、ライナスさん。では、そこにお願いします」 クラレンスが示した場所に、ライナスが小包をゆっくりと下ろした。ずしりという音が聞こえてきそうなほど、見た目通り重そうなそれを難なく運んでのける辺り、ライナスにとっては彼の言う通り、慣れたものなのだろう。 「じゃあ、こちらにサインをお願いします」 「はい、少々お待ちくださいね」 ライナスが差し出した配達証を手に、クラレンスがその場を離れる。 ペンを探しに向かったのだろうその姿を何とはなしに目で追いながら、ライナスはぐるりと室内に視線を巡らせた。 女性が一人で住むには広いが、それを忘れてしまうくらいには、物にあふれた家だった。 中でも一番広くスペースが取られたこの場所(おそらくは居間だと思われる)には作業用のテーブルがいくつも置かれ、その上に様々な調合用の器具が散らばっている。 窓辺には色とりどりの香草が所狭しと吊るされ、床にはライナスが毎日のように運んでくる小包が積まれ、足の踏み場もない場所さえある。 一言で言えばひどく散らかっているが、ライナスの目には不思議と、あるべき場所にあるべき物が収まっている、調和の取れた空間のように見えた。 そんな“世界”に、彼女は住んでいる。 「お待たせしました。……ライナスさん?」 いつの間にか戻ってきたクラレンスが、不思議そうにライナスに声をかける。 「……す、すみません。ぼんやりしてました」 ライナスははっとして、照れ交じりの笑みと共にサインの入った配達証を受け取った。 それから、照れくさいのを誤魔化すように再び室内をぐるりと見回す。 「今日は何を作っていらっしゃったんですか?」 「何だと思いますか?」 いたずらっぽく微笑むクラレンスの問いかけに、ライナスは真剣な顔をして考え込んだ。 ここからでは見えないキッチンのほうから漂ってくるのは、もはや何が混ぜられてそうなったのかわからない強烈な匂いなのだ。根底に彼女が朝一で摘んだ草の匂いがあるはずなのだが、その気配すら感じることが難しい。 「な、何でしょう……腹下しに効くお薬とか……?」 「ふふ。ちょっと近いです。これはね、恋の病に効くお薬なんですよ」 「こ、恋の病?」 「例えです。気持ちが落ち着かない時、落ち込んでしまった時、眠れない時などに飲むお薬です。一言で言えば、睡眠薬ですけれどね。でも、さほど強いものではなくて、自然な形で眠りにつきやすくする作用があるんですよ」 クラレンスの言葉を聞いているうちに、だんだんと視線が泳いでいってしまっているのを、ライナスは自覚せずにはいられなかった。 「……近いうちに、クラレンスさんのお薬が、必要になるかもしれませんね、僕」 クラレンスは目を丸くする。 「まあ。恋煩いでも、していらっしゃるの? ……それとも夜、眠れないんですか?」 ライナスはわずかに眉を下げて、少しだけ苦く笑った。それから、小さくつばを飲み込み、静かに息を吸い込む。 「はい、……えっと、たぶん、そうだと思います。眠れないわけじゃ、ないんですけれど……気持ちが落ち着かなくなったり、そわそわしたり、どきどきしたりします。こ、こうしている今も、変なことを言ったりしないか、心配で心配で」 緊張しているらしいライナスの様子に、クラレンスはどこか納得したように頷いた。 「あら……それは本当の恋煩いかもしれませんね。……お相手はどなた?」 『馴染みの青年の恋の話』に興味を持ったらしいクラレンスの、瞳をきらきらと輝かせての率直すぎる問いかけに、彼女の目の前でライナスは思いっきり固まってしまった。 「そ、れは……ええと、その、こ、こちら、個人的に……僕からのお、お届け物です」 しどろもどろに言いながら、ライナスはひどく慌てた様子で、肩に下げていたメールバッグから一通の封筒を取り出した。 表にはしっかりとクラレンスの家の住所と彼女の名が綴られ、料金分の切手の上に丁寧に今日の日付で消印まで押されている。 「わざわざ、わたし宛てに? ありがとうございます」 「あっ! ……あの、後で読んでいただけると嬉しいです。こ、この場で読まれるのは、ちょっと恥ずかしくて」 さっそくこの場で封を開けようとしたクラレンスを制し、少々上ずった声でライナスは告げた。 「あら、そうなんですか? ……ねえ、ライナスさん。もしお時間があるようでしたら、お茶、飲んで行かれませんか? ほら、重い荷物を持ってきていただいたし、……喉が渇いていらっしゃるようだから」 荷物を持ってきたこと自体もそうだが、その後のライナスの様子を見てのことだろう。 何気ないクラレンスの提案に、ライナスは、それが彼にとってはまったくの予想外の言葉だったのか、大きく肩を跳ねさせた。 「……っ、じゃあ、すぐに残りの配達を終えて、また、来ます! す、すみません、また、後で!」 言うなり勢いよく踵を返して飛び出していったライナスを、クラレンスは目を丸くしながら見送った。 クラレンスが家の外に出る頃には、彼が乗った車そのものがすでに見えなくなっていた。 「……一生懸命なのね」 仕事に向かったライナスを、感心するような声と微笑みで見送ってから、クラレンスは改めて、彼に託された手紙の封を切る。 中には丁寧に畳まれた便箋が入っており、それを開くと、封筒に書いてあるのと同じ、お世辞にも上手とは言えない文字が、やはり丁寧に綴られていた。 「……まあ」 彼女へと宛てられた彼の言葉に、クラレンスは再び目を丸くして、それから、嬉しそうにはにかんだ。 そして、先程までの彼があんなにも緊張し、あまつ彼女の薬が必要かもしれないと口にした、その理由に唐突に思い至る。 「そうだったのね、ライナスさん」 それから、散らかった室内を見回し、小さく肩を竦める。 ――ライナスが再びここに訪れるとすれば、それは彼の仕事が終わる夕方以降になるだろう。 それまでに、この匂いと部屋を片付けて、お手紙のお返事とお茶とお食事を用意しないと。 そんな決意と共に、忙しなく動き始める足と手。 「まずは……」 何よりも先に、異臭をまき散らす薬鍋を、なんとかしないと。 彼女の日常がほんの少しだけ変わり始めた、そんなとある日の出来事。 Fin.
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