彼女のことを思い出す時、まず最初に耳の奥から響くのが、『歌』だ。 子守唄のようで子守唄とは違う、優しくもどこか寂しいメロディーに、やわらかく美しい声が重なって紡がれる歌。 大人達は彼女の歌を呪いだと言って憚らなかったが、あれは決して呪いなどではなかった。 ただ、誰かへのあふれる想いが込められていただけ――セドリックにとっては、それ以上でもそれ以下でもなかった。 オルネラ=ヴィー。西の森の魔女。 その歌声で人の心を惑わし、食らうと言われた魔物の女。 流れる水を糸にして編み込んだような透き通る長い髪と、星の欠片をまぶしたかのような、深く青く澄んだ瞳を持つ、人ならざる美貌を備えた魔女。 ――彼女を殺すことが、セドリックに与えられた使命だった。 05.魔女と少年 ―Witch and Hero.―
森の木々を突き抜けて聳える白亜の塔の頂に、彼女は一人で住んでいた。 彼女はいつも歌を歌っていた。その歌声は風に乗り、セドリック達の住む村を超えて近隣の町までも届いていた。 彼女の歌には、人を強く惹きつける力があった。 その歌に魅せられた多くの者が彼女を求めて塔へと立ち入り、そして誰一人として戻ってこなかった。 やがて魔女と呼ばれるようになった彼女には多額の懸賞金が賭けられ、今度はその金を手に入れるために塔を上り出す者が後を絶たなくなった。その多くは腕に覚えのある冒険者や賞金稼ぎ達だったが、そんな彼らでさえも、そのほとんどが生きて戻ってくることはなかった。 辛うじて戻った者達は口をそろえて、『何を以ってしても彼女の身体に傷一つ負わせることができない』と言った。 村人達はオルネラ=ヴィーを討つ手段を講じるべく日夜話し合いを続けていたが、一向に策を練り上げられないまま、ただ月日だけが流れていた。 そんなある日、おそらくは彼女の歌を聴こうとして一人で森に入った幼いセドリックが彼女に攫われたのだった。 その時のことを、セドリックはほとんど覚えていない。 ただ、穏やかな歌声を聴きながら、優しく頭を撫でられている――そんな夢を見ていたように思う。 実際、それは夢ではなかったのだろうとも、思っている。 そして、時間が飛ぶようにつながり、響いたのは扉を乱暴に開ける音だった。 飛び込んできた父や村の大人達が、ひどく険しい顔をして口々に何かを叫んでいるのが聞こえた。 なぜ彼らがあんなにもおそろしい顔をしていたのか、その時のセドリックにはよく理解できなかった。 「お前が、私の息子を攫ったのか」 「そうだ。……攫ったとは、少々心外ではあるがな」 父の問いかけに、オルネラ=ヴィーは悠然と笑みをたたえたまま、頷いた。 「……森でひとりで遊び疲れたのか、眠ってしまっていたぞ。だから、連れてきたのだ。わたしが村に連れてゆけば、それはそれで、お前達はどのみち、わたしが攫ったと言っただろう。――違うか?」 オルネラ=ヴィーの言葉に、男達は互いに顔を見合わせながらも、誰も反論しなかった。それどころか、彼女の言葉をそうだと信じて疑いすらしていない、そんな気配をセドリックは敏感に感じ取った。 傍らにいる彼女を魔女と呼ぶ大人達こそ魔物なのではないかと、セドリックは思わずにいられなかった。 「息子を、どうするつもりだ」 「どうするつもりに見える?」 オルネラ=ヴィーの手が、セドリックの髪を優しく撫でる。セドリックは父の顔が怖くて、ぎゅっとオルネラ=ヴィーにしがみついた。父の顔がますます険しくなったのが見えた。 「殺して、食らうのだろう。私達の見ている目の前で!」 「それがお前達の望みならば、そうしよう。――だが、この少年はとても面白いな、レイモンド」 「……面白い……とは……?」 「この子はわたしを怖がらず、それどころか今もこうして、私の側から離れようとしないのだ」 「お前が、そうさせているのではないのか」 「子供とは、正直なものだ。……鏡を見るか、レイモンド。鬼のような顔をしているぞ」 歌うようなオルネラ=ヴィーの言葉に、レイモンドは目を見開き、言葉を失った。 くつくつと喉を鳴らし、オルネラ=ヴィーはセドリックの背中を静かに押した。 「……お行き。おまえが居るべきはここではない」 セドリックはずっとオルネラ=ヴィーと一緒にいたかった。だが、見上げた彼女が寂しそうに笑ったのが見えたので、小さく頷いて寝台を降り、父や大人達のいるほうへと向かった。 「セドリック!」 セドリックの身体を抱き締める、父レイモンドのがっしりとした両の腕。 「――セドリックというのか。良い子だな。レイモンド」 オルネラ=ヴィーはおもむろに告げた。 「その少年こそが、わたしを殺す力となる」 レイモンドは目を見開いて、オルネラ=ヴィーと腕の中の我が子を交互に見やった。 オルネラ=ヴィーは笑っていた。 ※
初めて彼女に会ってから、もう十年以上が経った。 永遠に続くのではないだろうかと思える階段を、一歩一歩、超えるように踏みしめる。 多くの冒険者達が身に着けているような頑丈な鎧や盾は、セドリックには必要のないものだった。 彼が携えていたのは、おもちゃのような一振りの短剣――ただ、それだけだった。 上り続けていれば、やがては、頂へと辿り着く。 セドリックは古びた木の扉の前で足を止め、その向こうに居るであろう彼女を思った。 「――オルネラ=ヴィー」 あの時よりもずっと低くなった声で彼女の名を呼び、静かに扉を開く。 乾いた風の匂いがして、その先に、彼女が居た。 「……ずいぶんと大きくなったな。見違えたぞ、セドリック」 ゆっくりと振り向いたオルネラ=ヴィーは、まぶしげに目を細めてセドリックを見た。 彼の目的を、これから起こることを――そのすべて理解しているかのような穏やかな表情に、セドリックはきつく眉を寄せる。 時が流れ、セドリックは少年から大人になったが、今、彼の目の前に立つオルネラ=ヴィーの姿は、セドリックの記憶に残る彼女の姿と何一つ変わっていなかった。 「わたしを殺しに来たのだろう。待っていたよ」 歌うような声で、オルネラ=ヴィーは言った。 それに対する答えと言わんばかりに、セドリックは懐に忍ばせていた短剣を抜いた。 「……あの日あなたに会ってから、ずっとあなたのことばかりを考えていた」 セドリックは淡とした声で呟きながら、一歩、彼女との距離を詰める。 「耳を塞いでも、目を背けても、あなたの歌ばかりがずっと響いていた」 「……このわたしが憎いか?」 「なぜ、そんなことを聞く」 「わたしが、他でもないわたしの血で、おまえの手を汚そうとしているからさ」 ざり、と、乾いた床を踏みしめる足音が、もう一つ響いた。 「……僕には、なぜ僕があなたを殺さなければならないのかがわからないんだ、ヴィー」 「大人達は、おまえには何も教えなかったか。……わたしが、おまえ達のような 手を伸ばせば触れられるほどにまで、二人の距離が詰まった。 「僕は、あなたにならば食らわれても構わないのに」 「おまえを食らったら、わたしはきっとおまえの父を食らうだろう。おまえを育てた大人達を……それだけではない、この国に生きるすべての者を食らってもなお、止まらないかもしれない。わたしの存在は、人間には害だろう。……喉が渇いているんだ、セドリック」 「もう……どれくらい、人間を食べていないんだ、ヴィー」 オルネラ=ヴィーは何も答えずに、ただ、笑っていた。 「――おまえの血を、一滴でも」 細い指先が、短剣を示す。 「そのおもちゃのような剣に吸わせればいい。そうすれば、おまえの力でわたしを貫ける」 「僕に殺せと言うのか、オルネラ=ヴィー。あなたを」 「……おまえにしか、できないことなんだよ。わたしの手が、おまえを傷つけてしまう前に……頼む、セドリック。わたしの願いを、聞いておくれ」 オルネラ=ヴィーの瞳から、星のような輝きが消えかけていることに、セドリックは気づいていた。 「……っ!」 鋭く研がれた短剣の刃先に、セドリックは手のひらを滑らせる。 みずみずしく赤い血が真っ直ぐに走る一筋の線から溢れ出て、白銀の刃を濡らした。 オルネラ=ヴィーが息を呑み、セドリックのほうへと踏み出しかけた足を無理矢理引き戻して、石の壁に背を押し付けた。 「さあ、セドリック。おまえのその血と剣で、わたしを」 オルネラ=ヴィーはセドリックの血を見ることを拒むように両手で目を覆った。懇願を紡ぐ声は、震えていた。 「……ヴィー……!」 今にも泣き出しそうに顔を歪ませて、セドリックは短剣を両手で握り締めた。 わずかな距離を一息で詰め、オルネラ=ヴィーの身体がくずおれると同時、渾身の力を込めて彼女を貫く。 セドリックの血をわずかに纏っただけの刃は、深々とオルネラ=ヴィーの心臓に突き刺さった。 永遠にも似た一瞬。だが、時間は止まらなかった。 「……リ、ック……」 ひゅうと、息が漏れる音が聞こえてセドリックは我に返り、こちらへと緩やかに倒れてくる彼女の身体を血のついた両手で受け止めた。 腕の中に落ちた重みは、まるで紙を抱き締めたようだと錯覚してしまうほどに軽かった。 「……これが魔物というものなんだよ、セドリック。だから、何も、不思議なことではない……」 掠れた声で、オルネラ=ヴィーは呟いた。 ナイフが突き立てられた心臓の辺りから、さらさらと砂の粒になって、彼女の身体が零れ落ちていく。 「――ヴィー」 セドリックは喉まで出かかった言葉を飲み込んで、オルネラ=ヴィーの、星の光が散りばめられたような瞳をじっと見つめる。 彼の胸中に宿った思いを察したか否か、オルネラ=ヴィーはふと息をつき、笑った。 「……これ以上、わたしに触れてはいけない。……わたしと、同じになってしまうよ」 「そうでもしなければ、僕はあなたを憎めない……」 懇願を口にしたとて、受け入れられはしないだろうということは、セドリックにはもう、わかっていた。 無理矢理にでもそれを実行すれば、彼女はもっと悲しむだろうということも、わかっていた。 「もう、憎んでも構わないさ。わたしは……いなくなるのだから」 「ひどい 「……わたしのような悪い女に、つかまってはいけないよ」 「元から、そのつもりでいたんだろう。……あなた以上の悪い女は、きっとこの世界にはいない」 「……ふふ、言うようになったな。あんなにも小さかった、子供が」 セドリックはあえて、それ以上は喋るなとは言わなかった。 それよりも、消えゆく彼女が紡ぐ言葉に耳を傾けていたかった。 オルネラ=ヴィーは、静かに目を伏せる。細い指先も、彼女の水のような銀色の髪も、すでにほとんどが白銀の砂になって零れ落ちてしまっていた。 「わたし達はもう、二度と会うことはない。だが、おまえは、かならず……しあわせになれる」 それが、魔女の祝福であり、呪いであり、オルネラ=ヴィーが最期に遺した言葉だった。 もう一度目を開いたオルネラ=ヴィーはすべてを受け入れたかのような穏やかな瞳でセドリックを見つめ、微笑んだ。 その微笑みもまた、最後は、砂になって消えてしまった。 「……ヴィー……」 セドリックは、砂になってこぼれていくオルネラ=ヴィーの姿を、微動だにせず見つめていた。 やがてセドリックの両手からも砂がこぼれ落ち、彼女を貫いたナイフまでもが乾いた音を立てて床に落ちるまで、じっと、彼女にまつわるすべてを留めておこうとするかのように、彼女を見つめていた。 こうして、多くの人間を殺して食らい、西の森の人喰い魔女と呼ばれたオルネラ=ヴィーは、たった一人の少年の手によって、骨のひとかけらも残さずにこの世界から姿を消した。 セドリックは彼女が消えてしまってもなお、しばらくはその場でじっと座り込んでいたが、閉じた窓の隙間から迷い込んできた風に頬を撫でられて、今度こそ我に返り、立ち上がった。 そのまま、小さな部屋中の窓という窓を、すべて開け放つ。 高いところを吹く風は、突然生まれた通り道に驚くより先に吹き込んできて、そこにあった“オルネラ=ヴィーだったもの”を巻き上げると、反対の窓を潜り抜けてどこかへ行ってしまった。 それをぼんやりと見送ってから、ふと、セドリックは手のひらを見下ろし、無言で唇を噛み締めた。 「……僕は……あなたに、好きだと言いたかった。……オルネラ=ヴィー……」 ぽたりと、涙の雫がそこに落ちる。 “彼女”だった白銀の砂が、セドリックの手のひらに残る傷口を塞いでいた。 ※
西の森から響く歌声は、当の昔に聴こえなくなっていた。 それでも、惑わされ、食らわれるかもしれない恐怖は、人々の心に深く根を下ろしていた。 この日、セドリックが彼女の塔へとやって来たのは、“オルネラ=ヴィーが生きているかどうかを確かめるため”だった。 “生きていれば、殺して来い。おまえにしか、できないことだ”――村の大人達に、他の誰でもない父にそう言われて、セドリックは夜明けと共に一人で村を出た。 結果的に彼女はまだ生きていて、そして結果的に、セドリックはオルネラ=ヴィーをその手にかけることになった。 いずれ訪れていたであろうその日が、思っていたよりも早く訪れた――ただ、それだけのことだった。 村に戻ったセドリックは、『オルネラ=ヴィーはすでにどこにもいなかった』と、村の大人達に伝えた。 自分が殺してきたとは、伝えなかった。 そうすれば大人達は彼を英雄と崇め奉り、村中を挙げての大祝宴が開かれることになるだろう。 そんなものは、セドリックにとっては何の価値も意味もなく、また、必要のないものだった。 真実を知っているのは、自分だけでいい。 国の外に逃げたかもしれないオルネラ=ヴィーを探しにゆくと、セドリックが村を出たのは、それから間もなくのことだった。 その時、彼の瞳に星のような光がちらちらと瞬いていたのを見た者は、誰一人としていなかっただろう。 果てなく広い世界を歩きながら、セドリックは時折、彼女が紡いだ歌を口ずさむ。 あの時は言葉さえ知らないままに歌っていたけれど、今なら、彼女の歌の意味を考えることもできる。 あれは、誰かを想う『歌』だった。 その想う『誰か』は、きっと、もう、この世界のどこにもいないのだろう。 セドリックもまた、同じように、ものこの世界のどこにもいない『誰か』を想いながら、歌い続ける。 Fin.
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