第二章 嵐の後に1
彼はいつだって何も望まれていなかった。 彼の持つ権利はいつだって二番目だった。 必要以上に望まなければ、結果に裏切られることもないということを知っていた。 「君にこの国をあげるよ、ハロルド」 ピアノの鍵盤を何気なく叩いた時に響く音のように告げられたそれは、彼にとっては願ってもいない言葉だった。 この国を手に入れるはずだったその男は、そう言い残して姿を消した。 自分が手を下すまでもなく、勝手に消えてしまったのだ。何も言わずに玉座に座っているだけでこの国の王になれるはずの男が、国ごと捨てていったのだ。 この国はどこか、大事なものが破綻しているのだろうと、彼は思っている。 「……僕が皇帝になってどうするっていうんだ、世界を手中に収めろとでも? ハインリヒ、君のいなくなったこの国で、君は僕に何をしろと言うんだい」 ハロルドはこの国を捨てようとしている男に、聞いた。 「君の好きなことをやればいい。たとえば、君がいつも考えていた盤上の戦いを、この国を使って実現することだってできるんだよ」 男の言葉は、ハロルドには決して抗えるものではなかった。そうあるべきだと初めから――ハロルドの手の届かない所でそうと定められていたかのように、彼はこの国の王になることを受け入れていた。 そう、元より手に入るはずのなかったこの国がどうなろうと、それは知ったことではないのだ。 自分は、好きなことをやってしまえばいいのだ。 「――陛下」 己を呼ぶ声に、思考の水底に沈めていた意識を引き上げる。 「君がいれば、精霊は手に入るんだろう?」 彼は皇帝の位を手に入れてから、欲しいものはなんだって手に入れてきた。 「手に入れるのは、陛下ご自身でしょう。……陛下、命をかける覚悟はおありですか」 「相変わらず、馬鹿なことを聞くんだね、君は」 答えなど決まっている。 彼はもう、二番目ではないのだ。 彼はこの国に望まれているし、望んだものはなんだって手に入る。 彼の手に入らないものは、もう、なかった。今度だって、そう―― *
《時渡りの民》の生活は基本的に自給自足で成り立っているのだが、それだけでは賄いきれない物も中には存在する。たとえば、魚や果物を切る時などに用いる刃物や灯り用の油などは、その最たる物である。そのため、定期的に島の外に出てそれらを仕入れてくる役目を担う者が、やはり存在している。 スヴェン・ラスフィル・クロスティア。淡い青紫の髪と瞳の、オズウェルたちより六つ年上の青年で、愛する妻タチアナとの間に授かった子の出産を間近に控えた父親見習いだ。 タチアナは既に臨月を迎えている。いつ生まれてもおかしくないというのが、母親としても先輩である女たちの見立てだった。『母親』たちが側についてくれているとは言え、新たな命を生み出すという儀式はきっととても不安だろう。男であるスヴェンには子を産む痛みというのが到底想像できないのだから、尚更だ。少しでも長くタチアナの側についていたいというのが本音ではあるけれど、これが彼の仕事でもあるのだから仕方がない。 それに、島で暮らす《時渡りの民》の中で唯一外界との接点を持っているという事実は、彼にしてみれば誇らしいことでもある。 その日も、彼はいつものように朝早くから船を出そうとしていた。晴れた空には一点の曇りもなく、波は穏やか。申し分のない日和だった。 「スヴェンくーん!」 遠くからかけられた声に振り向くと、のろのろと駆けてくる影。スヴェンはあっけに取られたように大きく瞬きをしてから、やがて小さく吹き出した。 「――先生、そんなに無理しなくても逃げませんよー!」 案の定、砂に足を取られて崩れ落ちるヘルメスの姿を見て、スヴェンはさらに笑い声を重ねる。ヘルメスがスヴェンの元へ辿りつくよりも、スヴェンがヘルメスの元に歩み寄るほうが早かった。 スヴェンは手を差し伸べて、ヘルメスの体を引き上げる。まいったと言いながら子供のように笑うヘルメスが、スヴェンは好きだった。彼の肩書きの中に父親という職業があるかどうかは聞いたことがないけれど、この人のような父親になれたらいいなと、憧れてしまうくらいには。 「やあ、面目ない。ちょっと頼みたいことがあるんだけど、スヴェンくん、いいかな」 「はいはい、俺にできることならどんど来いですよ。あ、今はオズ探し以外で」 「うん、ありがとう。オズウェルくんは何とか見つけ出してみせるさ」 ヘルメスは握り締めていた革の袋をスヴェンへと差し出した。感じられる重さに、中に入っているのは硬貨だろうとスヴェンは見当をつけ、ヘルメスの言葉を待った。 《時渡りの民》には、物と硬貨を交換するという概念がそもそもない。物と交換するのはあくまでも、同等の価値を持つ別の物だ。だからヘルメスが初めてこの硬貨を彼らの前で披露した時、「そんな不味そうな物食べられませんよ」と憮然とした表情でオズウェルが言ったのは、今でも時折笑い話の種になる。島で暮らす以上は必要のないものと言っても過言ではなく、これと食べられる物を交換するのだというところまではオズウェルも思いつかなかったらしい。 「これで買えるだけの紙……できれば綴じてある物と、ペンとインク……字を書く物を買ってきて欲しいんだけれど……わかるかな?」 言いながらヘルメスがした身振り手振りが、『綴じてある物』を開いて『ペン』で『字を書く』ということくらいはスヴェンも理解できる。もっとも、それはひとえにヘルメスの『日記帳』を実際に見せてもらったからであって、《時渡りの民》の文化の中には、文字は存在していても紙は存在していないのだ。 「ええとー……先生が持っていたやつ、ですよね? ご期待に添えられるかはわからないけど、聞いてみます」 「うん、頼むよ。本当なら私もついて行きたいんだけれど、そうすると私の重さ分の荷物が積めなくなってしまうものね」 使いに出たスヴェンが船が沈みかねないほどの量の品を毎回持ち帰ってくることは、ヘルメスだけでなく島中の者たちが知っている。そんな大事な船に自分が乗って仮に沈んでしまったりなどしたら、それこそ顔向けができない。そんなヘルメスの胸の内を察したかのように、スヴェンは屈託なく笑い飛ばした。 「あはは、先生一人くらいだったら軽いから、だいじょうぶだと思いますけどね。たまには先生も遠慮せずに一緒に来ればいいんですよ。確かにオズの精霊はいつ孵るかわからないから、目を離せないって言うのもわかりますけど。それに、たとえ俺が外に出ている間に孵ったとしても……その瞬間を、あのオズウェルが素直に見せるとは思いませんけれどね。特に先生には」 「手厳しいね。でも、それくらいは覚悟の上さ。だからこそ、目が離せないんだよ」 「前向きなのはいいことだと思いますけど、そのうち本当に愛想尽かされても知りませんよ?」 「だいじょうぶ、オズウェルくんに振られるのは慣れっこさ。それに、これでも忍耐強い自信はあるからね」 「ま、振り向かせられるように頑張ってくださいよ。先生とオズの『喧嘩』……結構、話聞いてるだけでも楽しいんですから」 何気なく添えられた言葉に、ヘルメスは目を丸くした。スヴェンがたっぷりと大きく頷いたのを見れば、彼が嘘をつくような青年でないとわかっているけれど、冗談だとも思えなかった。 「……まいったな、そんなに人気者なのかい、私たちは。オズウェルくんには内緒だよ?」 「今の楽しみを三つ挙げろと言われたら、俺とタチアナの子供のことと、オズの精霊のこと……あとは、先生とオズの『喧嘩』だって、俺なら答えますよ。……貴方が来てから、本当にオズは変わった」 「うん、知っているよ。――いや、私がこの島に来るまでの彼は知らないけれど、彼が変わってきているというのは、聞いているよ」 「さすが先生だ。耳が早い。……これからも、宜しくお願いします」 そう言って頭を下げるスヴェンに、ヘルメスは照れくさそうに頭をかきながら肩を竦める。改まって言われると、これほど恥ずかしいことはない。 「その……いい意味で変わっているというのなら、嬉しいのだけれど」 「あらま、さすがの先生も自信がおありでない?」 スヴェンはやはり屈託なく笑いながら、あっさりと言ってのけた。 「それは間違いありませんよ。だってそうでなきゃ、とてもお願いしますなんて言えませんから。あの子は――オズは、俺たちの弟で、希望の光なんです。それじゃ、行ってきますね」 「そう言われると、なんだか照れくさいね。――ああ、行ってらっしゃい。気をつけて!」 そうしてヘルメスが見送る中、一隻の小さな船が島を離れた。晴れた空には一点の曇りもなく、波も風も穏やかで、海を渡るには絶好の日和だと胸を晴れるような、そんなとある日のことである。 |