第三章 空の歌声5
「確かに、精霊を欲しい、手に入れたいと……そう思ったことがあったのは認める。でもあの頃は、精霊についてほとんど理解していなかったんだ。それこそ、私にとっての精霊は、『何でも願いを叶えてくれる宝石』とか……とにかくそんな、夢のような存在だったんだ」 「じゃあ……そんなありもしないものが世界のどこかにあって、それを手に入れようと、本気で思っていたんですか? ……そうまでして叶えたい願いが、先生には、あったんですか?」 「恥ずかしいけれども、そういうことになるね。何せ私は、本物の精霊というのを、この島に来るまで見たことがなかったんだ。ここに来てから、精霊が人――《時渡りの民》と共に生まれてくるものなのだということを初めて知った。それと同時に、私には決して手に入れられないものだということも、知ったんだよ」 世界樹の幹に背を預けながら、ヘルメスは困ったように笑って答えた。 今でこそ笑いながら話してはいるが、その事実を知った当時の彼の落胆振りは、おそらく並大抵のものではなかっただろう。そのことを容易く想像できるからこそ、安易な慰めの言葉は用意できない。 手に入れることができれば、願いは叶えられる。しかし、手に入れることが決してできない以上、願いを叶えることもまた、不可能だ。 そもそも、精霊というのは途方もない願いを叶えてくれるような存在ではなかった。自然の力の化身そのもの――いわば、世界の化身だったのだ。 生まれながらにして精霊と共に在るオズウェルやシアと、精霊に憧れながら、自分だけの精霊には決して出会うことのできないヘルメス――彼らを隔てるものは、おそらくは彼らが思う以上に大きい。 「オズウェルくん、だから私は、できるだけたくさんの精霊の姿をこの目に焼き付けて、島を出たいと思っているんだ。きみの精霊がどのような姿をしているのか、それを、その瞬間を、この目で見届けたいんだ」 ヘルメスの瞳にいつもの輝きが戻り始めたのを見て、オズウェルは内心でほっとした。 「……でも、いつ孵るかなんて、わからないんですよ……?」 そして、その期待に答えられないかもしれないということが、逆に重く圧し掛かる。 「わかってる。私のことは気にしなくていい。急ぐ必要も、焦る必要もない。オズウェルくんの歩く速さで歩いてくれれば、それで構わない。これでも……待つことには慣れているほうだからね」 「先生、オズはとってものんびり屋さんだから、そんなことを言うと本当にゆっくりになっちゃいますよ?」 横合いから挟まれるシアの言葉に、オズウェルは苦笑した。確かに彼女の言うとおりで、反論の言葉も出てこない。 「……そうなのかい?」 ヘルメスは、まるでそれが初耳だとでも言うようにきょとんとするばかりだ。だがそれも一瞬のことで、開いたままの口からは次々に言葉が飛び出してくる。 「まあでも、オズウェルくんやシアちゃんもまだまだ若いし、私だって負けないつもりだからね――そうだ、シアちゃん。シアちゃんさえよければ……なんだけど、歌を聴かせて欲しいんだ」 「……わたしの歌、ですか?」 急に話題の中心に立たされて、さすがのシアも戸惑いを隠せないようだった。ヘルメスは二人を交互に見やりながら、満面の笑みを浮かべて頷く。 「オズウェルくんに聞いたんだよ。シアちゃんの歌は子守唄みたいだって……ね? オズウェルくん」 シアは小さく頬を膨らませ、気恥ずかしそうにオズウェルを横目で睨んだが、オズウェルはわざと気づかないふりをした。先生の味方についたというわけでもないが、シアの歌を聴きたいというのは否定しない。 「……そんなに、上手でもないですよ?」 それでも満更ではなさそうな様子で、シアは深呼吸を繰り返した。それに合わせて居住まいを正した二人の顔を見やってから胸に右手を当て、大きく息を吸う。 さわさわと辺りに吹いていた風が、眠りに落ちたかのようにすっと止んだ。それまでざわついていた辺りの空気が、一斉に静まる。 風だけではない。風と戯れていた小さな草花や、世界樹の枝の上で羽を休めていた鳥たち、そして世界樹までもが、彼女の歌声に耳を傾けているようだった。 風のように 星のように 歌を運び 夢を紡ぐ 青い空が見えたら 海を超えて 広い大地へ 白い花が咲いたら 鳥になって あなたの元へ ゆるやかに 時は過ぎ 命は巡り 巡ってゆく 黄色い月が笑ったら 山を越えて 遠い場所へ 赤いお日さまのさよなら また明日と 手を振ろう 少女の唇から紡がれる言葉と旋律。それはまるで子守唄そのもので、あるいは、世界樹の歌のようで――心のどこかがあたたかい何かで満たされていくのを感じながら、オズウェルはその優しい歌声に聴き入っていた。あっという間に終わってしまったのが、もったいなかった。 そうしてかすかな余韻が消えると、代わりに両手が打ち鳴らされる音が響いた。それが拍手だと気づくのに数秒かかる。遅れて、オズウェルも同じように拍手を贈った。シアが微笑むのが見えた。 「……とても素敵な歌だったよ、シアちゃん。ありがとう、聴かせてくれて」 「いいえ、こちらこそ……聴いてくれてありがとうございます。それじゃあ、わたし、夕食の準備に行ってきますね」 慌てたように立ち上がり、シアはワンピースの裾を軽く摘んで優雅な一礼を二人に見せた。オズウェルが言葉を探しながら大きく目を瞬かせている間に、ヘルメスが再び口を開く。 「もうそんな時間なのかい。シアちゃん、私も」 「あっ……先生はだめです」 立ち上がりかけたヘルメスを、シアは一言で制した。中途半端に浮いた腰が、再びよろりと地に落ち着く。 「今夜は特別だから、先生はここで待っててください。先生は、今日はお手伝いしなくていいです。あと……先生一人だと絶対帰ってきちゃうから、オズも待っていて? いいって言うまで、二人とも帰ってこないように」 再三念を押してから、二人の答えを待たずにシアは急ぎ足で駆けていく。その姿が遠く小さくなり、家の中に消えて行くのはあっという間だった。 揃って息をついてから、心底不思議そうにヘルメスが口を開く。 「……どうしたんだろうね? 今日に限って。シアちゃんに何か悪いことをしたとか、そういう覚えはないけれど」 「……ああ」 その理由にすぐに思い当たって、オズウェルは西の空を見上げた。島の外では春と夏の境目にあるこの時期特有の赤い天牙星が、はっきりと見える位置で輝いている。 ヘルメスの視線もオズウェルのそれを追いかけるように動いたが、美しい星の輝きに見出したのはオズウェルとは異なる感慨だった――そんな溜め息がオズウェルの耳に届いた。そうして束の間の余韻を楽しんだ後、顔中に疑問符を貼り付けてヘルメスは首を傾げる。 「……ひょっとしなくても、オズウェルくんは知っているのかい?」 「何でもありませんよ。先生が気にするほどのことじゃないです」 期待に満ちたヘルメスの声に、しかし、オズウェルは何事もなかったかのように平然と首を横に振り、あえて答えを告げなかった。楽しみは少しくらい後に取っておいても、怒られはしないだろう。 |