第 三 章 祈 り と 願 い の 果 て4
「……あたしが家を出てから、すぐに処刑されたわけではなかったの……?」 わずかに開いた口からは、細い吐息しか出てこなかった。 日記というものが日々を記録するものである以上、日付を偽ってまで書く必要性は、特にないだろう。フィレアは、この期に及んでもそんなことを冷静に考えている自分が馬鹿みたいだと思った。 「公には、すぐだっただろう。お前は外に出てすぐ、親父さんが捕まって処刑されたという報せを聞いたと言ったが――実際は……そう、お前が考えているとおり、すぐじゃなかった」 「――っ!」 弾かれたように、フィレアは顔を上げた。 そして、この家を出る前の最後の記憶をかき集める。 父は、確かな強さを持った声で、『逃げろ』と言った。 自分はもう歩けないから、逃げられないから。せめてお前だけでも逃げなさいと、地下室の隠し通路から、外へと逃がしてくれた。 なけなしの小銭と食糧と、最低限の装いだけで、フィレアは家を飛び出した。 振り返ることなど、できなかった。父がかけてくれた隠し身の術と、己の記憶力だけが、頼りだった。 教えられたとおりに行かなければ決して外には出られない道を、一人で進んだ。 それがあの家を出る前の、最後の記憶だ。 クロイツにとっても、大きな賭けだったに違いない。 共にいれば間違いなく殺されてしまうであろう娘を、少しでも生かすための可能性に賭けたのだ。 あとは、フィレア自身に、生きるためのほんの少しの幸運と気力があるかどうかだった。 結果的に、そのほんの少しの幸運と気力が、彼女を生かし続けた。 そしてすべては、『今』というこの瞬間につながっている。 「どうして、あんたが知って……ううん、あたしだけ、ずっと何も知らなかったんだ……」 今にも消え入りそうな声と、小刻みに震える肩。それに、クロノスの手が静かに伸ばされた。わずかにためらうような間があったものの、青年の手はそのまま、フィレアの肩に載せられる。 フィレアは一瞬身を竦め、今にも泣き出しそうな表情のままクロノスを見上げたが、すぐに視線を落とした。 「だから、お前に真実を見せるためにお前をここに呼んだ。知らなかったことを知るために、お前は成長して帰ってきた。……そうだろ?」 フィレアは素直に肯定できなかった。クロノスと目を合わせることさえ、できなかった。一句一句、言い聞かせるように告げられるその言葉に、そうだと頷くことができないのが、悔しかった。 「……離して」 クロノスの手は、すぐに離れた。 これ以上、何を知れというのか。足跡を辿ったところで、得られるのは過去の思い出だけだ。 振り返ってばかりいては、前には進めない。どんなに振り返っても、いなくなってしまった人も過ぎた時間も戻ってはこない。 フィレアにとって、過去は決して美しいなどといった簡単な言葉で飾れるものではない。 「答えて。あんたは、父や、あたしの、何なの?」 閉じた日記帳を机の上に置き、その上に握り締めた拳を重ねて、フィレアは、先程問われた言葉をそのまま返した。 睨みつけんばかりの勢いで、青年を見やる。 こうでもしないと、心が折れてしまいそうだった。 その勢いに圧されたか、クロノスが曖昧な笑みを浮かべたように見えたが、それには構わず、じっと答えを待った。 思いをぶつけることは容易い。だが、ぶつけるだけでは意味がない。 答えが得られなければ、意味がない。 「……やっぱり、覚えてねえか? ……俺のこと」 やがて溜め息交じりに零れた一言で、予感は確信に変わった。元より、考えられる可能性は一つしかなかったのだと、フィレアは胸中で苦笑する。 確かだと言い切れないだけで、たった一つ、用意できる答えがあった。 けれども、フィレアはあえてその答えを言わなかった。向けられた青銀の眼差しをまっすぐに受け止めて、見返した。 「思い出させてよ。あんたが、あたしの知っているあんたなら、できるでしょう?」 代わりに投げつけた答えも、何とも曖昧なものだった。けれどもクロノスは、どこか観念したように両手を掲げ、首の後ろに回す。 クロノスの首にかかっていたらしい細い鎖が外され、フィレアの眼前に掲げられる。 「これを……見せれば、わかるか?」 ――まっすぐに伸びた鎖の先端で揺れる、淡い金色の輝き。 それは、見覚えのあるものだった。 実際にその目で確かめて、そしてようやく、感嘆にも似た吐息がフィレアの口から漏れた。 悔しさがまず先行した。それよりも、安堵と嬉しさが追い越した。 そして、やはり消えない疑問。文字どおり複雑な気分ではあったが、まずは、あふれてしまいそうな涙を堪えるのが精一杯だった。 「……やっぱり、あんただったんだ」 声が震える。クロノスが小さく頷いた。無意識の内に、フィレアの手はイヤリングへと触れていた。 フィレアが身につけているイヤリングの石と、まったく同じ色の光を放つそれが、鎖の先で揺れていた。 「どうして、すぐに気づかなかったの。あたしは」 ずっと探していた、片割れだった。 彼女のそれと同じ物を持っている人物がいるとすれば、それはたった一人だ。 「……あんたも、どうして、そうだってすぐに言ってくれなかったの」 「単純に、あの時の子供と今の俺が結びつかなかったってのもあるんじゃねえのか。気づかなかったと、お前がお前を責める理由はどこにもない」 クロノスの眼差しはとても穏やかで、フィレアを責めたり咎めたりするような色は、どこにもなかった。 「……すぐに言わなかったのは、知らない、って言われたからかな。……言ってもすぐに信じてもらえないだろうなと、思ったんだよ」 「でも、……っ」 言いかけた言葉が途切れたのは、不意にクロノスがフィレアを抱き締めたからだった。 とっさのことで思考がすぐに追いついてこないのか、フィレアの身体があからさまに強張る。 その気配はすぐに伝わったのだろう――腕の中の彼女の変化に気づいたクロノスは、堪えるような笑いを喉の奥で噛み殺した。 「……夕べは自分から抱きついてきたくせに、こっちから抱き締められるのは嫌か?」 「あっ、あれはその場の勢いとか! そういうのがあったから……、……っ、もう!」 高鳴った鼓動の音がそのまま鼓膜に響いてくるような気がして、フィレアは、己の頬がかあっと熱くなるのを感じた。 そんな彼女の様子に構うこともなく、クロノスは、フィレアを包む両の腕にわずかに力を込める。 まるで、会えなかった長い間の想いごと抱き締めるように。 「こう、見えてもな……怖かったんだよ」 ややあって、クロノスがぽつりと呟いた。 「怖かった……?」 「ああ。――お前が生きているかどうかもわからなかったし、生きていたとして、見つけ出せるかどうかもわからなかった。……お前がそれを肌身離さず持っていてくれたから、見つけられたんだけどな。……何より」 クロノスの手が、フィレアの髪をなでる。唇が、髪に触れる。 フィレアは硬直したまま、まともに顔を上げることもできずに、ただ、青年の言葉を聞いていた。 「何より、……忘れられているかもしれねえってのが、怖かった。お前の中に、俺の存在はもうないんじゃないかって、考えるだけで……怖かった」 その声がかすかに震えているのを、フィレアは感じた。 言葉を返すより先に、こちらからも、大きな背中に細い腕を回して、青年の身体を抱き締める。 フィレアのその『応え』にかき立てられるように、クロノスの言葉が続いた。 「――だから、嬉しかったんだ。……お前が、あの日のことを覚えていてくれたのが。……俺だって結びつかなくても、俺を覚えていてくれたことが」 震える声に涙が混ざっているように聞こえて、フィレアは小さく息をつく。 「……忘れたなんてこと。一度だってなかったわ。……会いたかった。――会いたかったの。ずっと、ずっとよ」 今にも泣き出しそうに震える声を、止めることなどできなかった。 「俺も。――ずっと、会いたかった。こうやって、もう一度抱き締めたかった」 二人はそのまま、互いのぬくもりを感じるように抱きしめ合っていた。 |