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第一章 世界樹の子供たち


2

「シア」
 ゆっくりと身を起こしながら、オズウェルはその少女を見上げる。幼さが残る笑顔が眩しい。
 それを待っていたかのように少女――シア・エレイン・ティオラータは、彼のすぐ側にすとんと腰を下ろした。淡い若草色のスカートは、この草原の丘によく似合う。
「……エレインは?」
 オズウェルは何よりも先に彼女の精霊の名を呟き、首を傾げた。彼女と共にいるはずの水の精霊の姿が、どこを探しても見つからない。
「エレインは泉でお留守番してるわ。オズはいつもエレインを寂しそうに見てるからって、エレインが」
 シアはその笑顔を崩すことなく、そう告げた。泉というのはこの丘を下った先にある《精霊の泉》のことで、飲み水として用いられるほどに澄んだ水を湛えているせいか、よく水の精霊たちの溜まり場になっている場所である。
 どうやら彼女だけでなく、彼女の精霊にまでしっかりと心の内を見透かされているらしい。また気を遣わせてしまったと、オズウェルは内心溜め息をついた。寂しいというよりは、単純に精霊であるエレインや既に精霊と共に在るシアが羨ましかっただけなのだが、どちらにしてもきっと同じだろう。わざわざ訂正を加えて、更に余計な気を遣わせる必要もない。
「そっか……じゃあ、あとでエレインにも挨拶にいかないと……それで、先生がなんだって? また新しい情報を手に入れたとか?」
 彼女の精霊に対しては嬉しそうな表情を垣間見せたが、本題である『先生』の話題となると一転、オズウェルは半ば呆れたように肩を竦める。正直、今は顔を合わせたいような気分ではない。『先生』が携えているその用件がよくわかるから、尚更だ。
「なんだかすごく喜んでいたみたい。早く知らせなきゃって、オズを探してあちらこちらを駆け回っていたもの。そろそろ、ここまで来るんじゃないかしら」
 それなら連れてくればよかったのにと喉まで出かかった言葉を、オズウェルは一呼吸の間を置いて飲み込んだ。あの体力不足の『先生』のこと、いっそこの島を走り回るくらいがちょうどいいのだ。
「どうせいつもと変わらないだろ? そのうち、きみの精霊は光の精霊に違いないよとでも言い出すんじゃないか? ……先生は呑気でいいよな、こっちは、それどころじゃないっていうのに」
 側に転がっていた《卵》を、無造作に懐へと突っ込み、オズウェルは素っ気なく言い放った。少女の顔が途端に曇るのを横目で見やる。
「オズ、またそんなこと言って……そんなに、先生のことが嫌い?」
「嫌いとか、そんなのじゃない。でも、シアは先生の味方なんだろ?」
「……オズのやきもち焼き。先生はオズのこと、いっぱい考えてくれてるのよ?」
「自覚はあるけど、それってくやしいじゃないか。ぼくはよそ者の先生に手伝って欲しいなんて言った覚えはこれっぽっちもないよ」
 島の大人たちだけではない、幼馴染のこの少女まで、オズウェルが言うところのよそ者である『先生』を心から信頼している。オズウェルはそれが面白くなかった。だから自然と、彼の話題になると不機嫌になってしまう――そのこともまた、十分承知していた。
「もう……その先生を助けたのは、他でもないオズなのに?」
「……それとこれとは、話が別だよ。もうずっと前の話じゃないか」
『先生』とは、二年ほど前に、難破した船に乗ってこの島に流れ着いたヘルメス・F・ハルトマンという男のことである。歴史学者であり、民俗学者でもあるというヘルメスは、世界中を旅し、様々な民族の文化や歴史を研究しているのだという。もちろん世界樹や精霊のことも彼は知っていて、その存在を自分の目で確かめることが長年の夢だったのだそうだ。
 外界との交流に乏しいこの島には、外の世界に関する知識がほぼないと言っても過言ではない。それゆえ、未知の世界の話を聞きたがる者は決して少なくはなく、彼は持ち前の膨大な知識と巧みな話術であっと言う間に島の者たちの心を掴んでしまった。
 シアの言葉の通り、オズウェルは彼が島に流れ着いたその日――つまりは嵐の中、自分の体格より一回りも大きい彼を引き摺ってきたのだ。その時のヘルメスは全身にひどい怪我を負っていて、一時は生死の境をさまよっていたが、島の者たちの手厚い看護により何とか一命を取り止め、峠を超えたあとは回復するのも早かった。オズウェルが彼を発見するのがあと少しでも遅ければ、彼の命はなかっただろうとさえ言われている。
 そんな外界からの来訪者であるヘルメスが、いざ意識を取り戻してみれば目の前にいるのは精霊である。後に語るところによると、とうとう天の国に足を踏み入れてしまったとこの時は思ったらしい。衝撃のあまり再び失神してしまったというのは、今でも時折話の種に出される逸話だ。
 それほどまでに、彼にとっては未知であり憧れの世界であった――何よりも、彼曰くずっと探していたというこの島や精霊、そして《卵》の存在に彼が興味を示すのはごく当然のことで、それらを詳しく調査するという目的で、ヘルメスはいまだにこの地に留まっているのである。
 彼をこの島へ長く留めるひとつのきっかけとなったのは、シアの《卵》が孵る瞬間に立ち会ったことだ。新しい命の誕生の瞬間に、興奮して三日三晩眠れなかったと語ったくらいであるから、島の者にしてみれば割と馴染みのある瞬間も、異邦人であるヘルメスにとってはよほど衝撃的であり、感動的なものだったのだろう。
 そのため、できることならシアと同世代であるオズウェルのそれにも立ち会いたいと心から願っているようなのだが、正直、オズウェルにとってはいい迷惑だった。
 両親のいないオズウェルにとって、心から信頼の置ける人物はそう多くはない。加えて、この外部から閉ざされた、言わば彼にとっても聖域と呼べるようなこの地においては、侵入者は皆等しく彼の心の平穏を脅かすと言っても過言ではなかった。島の者たちから慕われている『先生』であろうとも、決して例外ではない。
 何より、オズウェルが、精霊が孵らないことで失ってしまうかもしれないことを怖れている『居場所』を、彼はいとも簡単に手に入れてしまったのだ。それこそ、この島で『先生』と聞けば誰もが真っ先にヘルメスを思い浮かべてしまうほどに。そのこともまた、オズウェルにとっては面白くなかった。
 だが、どんなに面白くないと思っていても、ヘルメスの持つ『空気』に飲まれかけている自分がいるというのも、また、否定できないのだ。
「オズ、もうちょっと、先生に優しくしてあげてもいいんじゃない?」
「だから――」
 こっちだって好きで冷たくしているわけではないとオズウェルは続けようとしたのだが、それよりも先に視界の端に映った人影に、思わず口をつぐんでしまった。
「ああ、やっぱりここにいたんだね、オズウェルくん」
 途端にぱあっと明るくなったシアの表情に、オズウェルは心の内で、深々と溜め息をついた。これで今日は二度目だ。


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