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第一章 世界樹の子供たち


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 人の子よ、汝、忘るることなかれ。
 母なる大樹の歌声を。

――ベルメール・フィラ・ティオラータの言葉

 初めて自分の精霊と出逢った時、皆はどんな気持ちになったのだろう。嬉しかったに決まっているだろうか。もちろん、緊張もしていたに違いない。それは一生にただ一度しか出逢うことができない大事な瞬間であり、大事な儀式なのだから。
 ――それなら、《卵》が孵るまでの間は、どんな気持ちでいたのだろう。
 不安ばかりだったのだろうか。それとも、その日が訪れるのが、とても楽しみだったのだろうか。

 天に昇った太陽の光が優しく地上に降り注ぎ、春の匂いを纏った風が、草を揺らし、あるいは歌を奏でながら緩やかに丘を下る。青く輝く空の海をふわふわと泳いでいるのは、この世界に生きるどんな魚よりも大きくて軽そうな白い雲だ。自由を背に宿した鳥たちの群れが、時折その隙間を横切っていく。
 里の風景を一望できる小高い丘の頂上に寝転がり、空を見上げながら、オズウェルはぼんやりとそんなことを考えていた。傍らに転がって、彼と同じように太陽の光を浴びていた小さな《卵》を、そっと取り上げる。
 精霊が眠っているという、《卵》――《時渡りの民》としてこの世に生を受けた者に、等しく与えられる《卵》……精霊と共に生きる彼らにとって、これは魂の分身と言って差し支えのない存在だ。
 この《卵》から精霊が孵る時、それは、幼き《時渡りの民》が心身共に成長し、一人前となるに相応しいと判断される時である。
 オズウェル・ノル・カナン。金の髪に若葉の色の瞳を持つ少年。同年代の子供たちの中においては最年少だが、今年でもう十六だ。あと何度か月が巡ったら、十七歳になる。
 彼と同じ世代の子供たちの《卵》は、皆彼らが十五の誕生日を迎える前に孵った。よほどの例外がなければ、だいたいそれくらいの年までには孵るのだそうだ。
 しかし、オズウェルの《卵》は、彼の年齢から考えれば十分に機が熟しているにもかかわらず、未だに孵る気配がなかった。彼らの長を務める老ベルメールでさえ、このようなことは今までになかったと渋い顔をするばかりである。
 もちろん、オズウェルの肉体的、あるいは精神的能力が、他の者と比べて別段劣っているというわけでもない。大人たちはそんなに悩む必要はないと彼を励ますのだが、その気持ちは日を追うごとに精神的な重圧感へと変わっていった。
 きっとこのまま孵らないのではないかと、そう思っている大人だって少なからずいるに違いない。オズウェルはそう信じて疑っていなかった。
 果たしてこの《卵》は、本当に自分自身に与えられた精霊の《卵》なのだろうか。いつも心の隅に苦味を残す疑問が、また燻り始める。そんな時、オズウェルはよくこの場所を訪れては、現実と向き合うことを避けるように空想に耽るのだった。
 しかし、疑う余地などどこにもないことを、オズウェルはわかりきっていた。彼にとっての《卵》はこれしかないのだし、耳を当てればちゃんと鼓動が聞こえるのだ。偽物にしてはよくできすぎているだろうし、そもそも、彼のためにわざわざ偽者を用意することに見出せる意味はない。
 それでも、疑わずにはいられなかった。本物であるならば、皆のそれと同じだけの時間を過ごしているはずなのに、どうして孵らないのだろう。何度もそう思っているが、明確な答えは得られないままだ。
 いずれにしても《卵》が孵らなければ、この空間の中にあってはただの出来損ない、あるいは異端者でしかない。何よりもオズウェルが怖れていたのはそれだった。親もなく、身寄りもない彼にとって、彼らの仲間として認められないことは、すなわち世界を奪われることに等しい。
 仲間として認められるためには、《卵》が孵ることが何よりも必要なのだ。
「お前の顔、早く見たいんだけどな……早く出てこないと、ティルトの奴にばかにされてしまうよ?」
 十二の時に《卵》が孵った同い年の赤髪の少年は、彼が十七になっても《卵》が孵らなかったら果たして何と言うだろう。やはり出来損ないだと笑うだろうか。
 十七になるのはまだ当分先の話であり、それまでに《卵》が孵らないと決まっているわけでもないのだが――オズウェルは些か沈鬱な表情になりながら《卵》を空に向けてかざした。白い《卵》が、わずかに桜色に染まったように見えた。
 それに満足したのか、表情も和らぎ――オズウェルは《卵》を再び草の上に転がし、風の声に耳を傾けるように目を閉じた。
 当たる光の角度によって、《卵》はその色を変える。普段は白いが、時に卵の黄身のような色になったり、若葉に似た色になったり、桜色になったりもする。もちろんそう見えるだけで、別に中身が透けて見えるというわけでもない。それ以前に単なる目の錯覚にすぎないかもしれないのだが――オズウェルはその綺麗な色合いの変化が好きだった。
「……オズ? またこんなところでお昼寝してる。先生が探してたわよ?」
 空から降ってきたような優しい声に、オズウェルは我に返った。それと同時に、一人の少女が彼の視界を覆うように顔を覗かせる。遥かな高みに広がっている空と同じ色の瞳にはオズウェルの姿が映っており、やはり同じ色のおさげ髪が、彼の目の前で揺れた。


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