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第一章 世界樹の子供たち


5

 自然と足が向いてしまっていたらしい。視界を覆いつくしてもなお余りある大樹を見上げながら、オズウェルは苦笑せずにはいられなかった。
「……精霊と、人の魂の還る場所……」
 世界樹。世界を根幹から支える、護りの大樹。この木の前では、大人も子供も皆等しい存在だ。人の命も精霊の命も、この樹から始まり、そして終わる。
 その根は地中深くまで下ろされ、大地の裏側にまで突き抜けていると言うし、その枝葉は、すべてが空そのものなのだと言われている。大人が五十人ほどで手をつないでやっと囲めるくらいに太く、無数の皺が刻み込まれた幹からは、太い枝と深緑の葉が、それこそ果てしなく広がっている。
 しかし、その頂に近いところまでは、どんなに目を凝らしても確かめることはできない。頭上を覆うのは白い霧で、丘の上から見ても、世界樹の頂だけは目にすることが叶わないのだ。
 その頂は雲よりも遥かに高い位置にあるのだと言われているが、実際に確かめることができた者もいない。世界樹を上ろうと試みた者たちが過去に一人もいなかったわけではないのだが、誰一人として達成できた者はいなかった。
 翼があったなら、空がどうなっているのかこの目で見ることができたのにと、そう言ったのはヘルメスだ。鳥のように翼のある生き物なら、空がどうなっているのかを知っているのかもしれない――とも。
 たとえ鳥がその答えを知っていたとしても、オズウェルにとっては、別段大きな意味を持たなかった。オズウェルには鳥の心を知ることなどできないし、たとえ答えがわかっても空を飛ぶ術を持たない以上、自身の目で確かめることさえできないのだから。
 見られるものなら見てみたいとまったく思わないわけでもないが、それはまた別の問題だろう。
「精霊は、万物に宿る力であり、我らは世界に調和をもたらすために彼らの力を用いる……精霊と我らは共に在り、共に生きる者。我らは世界を護る者……護る? 誰のために?」
 教え込まれた文句をオズウェルは小さな声で繰り返し、最後にぽつりと己の疑問を添えた。深い皺が刻まれたその幹に、両手で触れる。この場所で、世界が始まった時からの、数え切れないほどに長い年月をずっと過ごしてきたのだろう。世界樹の前では、己など取るに足りないちっぽけな存在だ。
 けれども、そんなことすら忘れさせてくれるほどに、世界樹は、あたたかかった。肌で感じるような、直接的なあたたかさではない。心を安らげ、穏やかにさせてくれるぬくもりを持っていた。
 《時渡りの民》は、精霊の力を用いて世界に調和をもたらすのがそもそもの役目だ。この島で生まれた者の半数は、《卵》から孵った精霊と共に、閉ざされたこの島から外の世界へと出てゆく。島に残っている者たちの役目は、この世界樹を護ることだ。
 外界から閉ざされているとは言え、同じ世界の中にある以上、侵略者が訪れないとは限らない。現にオズウェルの両親も、彼が物心つく前にやってきた侵略者たちの手にかかり、世界樹を護るという役目に殉じたのだ。
「戦って、死んだって……何も残らないじゃないか。それなら、何のためにぼくたちは存在しているんだよ……!」
 遠い昔から、彼らは、世界とこの世界樹を護るために戦ってきた。世界樹の元に留まることを選んだ者も、世界樹の元から離れることを選んだ者も、その思いは違わないはずであった。
 けれども、外の世界は果てしなく広い。この島では決して得られないものも、山ほどあるのだそうだ。
 ヘルメスは、この場所は地図にも載っていないと言った。だから、世界のどこにこの場所が存在しているのか、わからないのだとも言った。ためしにその地図をオズウェルも見せてもらったが、この島や世界樹の姿がないことよりも何よりも、世界の広さ、街の多さに圧倒されるばかりだった。この島よりもずっと広い世界が、たった一枚の紙切れの上に描かれていた。
 この広い世界をすべて見て回るには、果たしてどれほどの時間が必要なのだろう。一生分では足りないのかもしれない。途方もない時間、けれども、それらを費やしても構わないとあっさり思えてしまうほどの魅力を外の世界は持っていると、オズウェルは思う。
 それを証明するかのように、一度島を出た者たちは、その大半が二度とここには帰らない。帰ってくるのは、その命が終わった時――魂だけが、帰りつくのだ。
 そう、島に留まらなくとも、外で生きていくことはできるのだ。それこそ、見たことのない街、見たことのない食べ物、見たことのない本に、見たことのない――オズウェルも、そんな広い世界に少なからず憧れを抱いているというのは否定できない。ヘルメスの話を聞けば聞くほど、その思いは一層募るばかりだ。
 そして、ヘルメスもきっと、そのことを知っている。
 おそらく精霊が孵ったら、彼はオズウェルを外へ連れていくつもりでいるのだろう。だからヘルメスは、《時渡りの民》の文化を研究すると言いながら、オズウェルの精霊が孵るのを待っているのだと、オズウェルは薄々感づいていた。
 いずれにしても、今の彼に精霊はいない。たとえ《卵》があろうとも、孵らなければいないのと同じだ。この島を、世界樹の元を離れるための最初の扉さえ、オズウェルは開くことができないでいる。
 どうして精霊がいないと外に出られないのか、答えは明白だ。世界樹の元に、言い換えればこの島に帰るための道を知っているのは、精霊だけだからだ。この島の周りでは方位磁石も役に立たない。まさに精霊だけが、世界樹へと続く確かな道を指し示すことができるのである。精霊がいなければ、たとえ《時渡りの民》であっても無力な人の子でしかない。
 どうして《卵》が孵らないのだろう。何が足りないのだろう。いくら考えても明確な答えに辿りつけないからこそ、不安や不信感も増大する。
「ねえ、神様、どうして……っ!」
 ――どうしてぼくの精霊は孵らないのだろう。世界樹へと投げかけたその言葉を飲み込んだのは、耳元でパチンと弾けたごく小さな火花だった。乾いた木を燃やすことさえできないそれでも、オズウェルの思考を中断させるには十分すぎるほどのものだ。衝撃と、熱と、畳み掛けるように感じたそれらに、オズウェルは耳元を手で押さえ、振り返る。
 何もない空間から火花が出現するはずはない。その原因たる人物の正体を、オズウェルはよく知っていた。途端に顔が渋面になる。
「――よう、出来損ないのオズウェルくん。どうだい、修行の成果は?」
 嫌味たらしく掛けられたその声に、オズウェルは表情を変えないままに、わざとらしく溜め息をついた。


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