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第一章 世界樹の子供たち


6

「出来損ないに構う暇があるなら、もっと他にやることを見つけたほうがいいんじゃないのか? ――ティルト」
 心底うんざりした様子のオズウェルに、赤髪の少年、ティルト・ルザ・マルディスはにやにやと意地の悪そうな笑みを浮かべていた。ただでさえ気分のよくない時に現われたティルトの存在は、オズウェルの気分を更に悪くさせた。向こうはそれすらも楽しんでいるのだから、なお性質が悪い。ティルトはそのまま一歩踏み出し、オズウェルのいるほうへと近づいてくる。
 ティルトが土を踏みしめるざらついた音が、やけに不快な響きを伴ってオズウェルの耳に届いた。世界樹を背にしているせいで、オズウェルは上手い逃げ場が見つけられない。オズウェルが逃げられないことも、ティルトは承知している。その上で、一歩ずつ距離を詰めているのだ。
「……どっかの『先生』が何やらあちこち嗅ぎ回ってるようなこの島でやることなんて、後輩であるオズウェルくんの《卵》が一刻でも早く孵るように、先輩として鍛えてやるくらいしかねえんだよ。それに、退屈で体がなまってるような俺の相手くらい、オズウェルくんなら簡単だろ? ……なぁ、ルザ?」
 その呼びかけに応えて、彼の肩口に留まっていた精霊が赤い炎を纏って舞い上がった。ティルトと同様に、燃える炎にも似た赤い髪と瞳、そして翼を持つ精霊――ルザ。野性的で挑戦的なティルトの笑みとは対照的に、ルザは炎を司っていながら、氷を思わせる冷たさを帯びた眼差しでオズウェルを見つめていた。
「……別に、お前に鍛えてもらいたいとも思わないし、その必要はないよ。お前の力は、借りない」
 無意識の内に震え出す身体を押さえつけることは、オズウェルにはできそうになかった。それをわかっているからこそ、ティルトの瞳にもさらに冷酷な光が輝き始める。
「オズウェルくんは冷てえなあ。昔はあんなに優しい子だったのに、今じゃ俺の相手もしてくれないなんてよ」
 今のオズウェルにとっては耳障りな声と共に、炎の精霊――ルザの瞳が、黄昏色の輝きを帯びる。それは、有無を言わさぬ破壊の予告だ。同時にティルトの右手にも、同じ色の炎が絡みつく。
「なぁ……オズウェル、強がるのもその辺にしておいたらどうだ? 本当はわかってるんじゃねえの?」
「――ティルト、何を言って……いや、何をやってるんだ……? ――待てよ、世界樹に火がついたりしたら、どうするんだよ!」
 オズウェルは息をのんだ。奥歯を噛み締めるが、恐怖は拭えない。背中に当たる世界樹の気配に今度は凍りついた。
 すべてを抱き、すべてを受け止めるこの大樹は、たとえその力を受け入れたことによって自らが破壊されるとしても、それらを拒んだりはしないのだろうか。
 丘から吹いてきた風に煽られ、小さな火の粉が弾けては消える。風が世界樹の葉をざわざわと揺らす音が、何かの警鐘のようにも聞こえた。
 ティルトは薄く笑った。
「困るだろ? なら、止めてみせろよ。お前にだって、精霊はいるんだからよ」
 しかし、その精霊はまだ《卵》の中だ。止めようにも、精霊の力に頼ることはできない。ティルトはそれをわかっていて、あえてオズウェルを挑発しているのだ。
「なぁ、オズウェル。どこかの先生が言いふらしてたぜ? お前の精霊は……」
 オズウェルは言葉を紡ごうと口を開きかけた。続く言葉がわかっていたからこそ違うと叫びたかったのに、声は出なかった。迫り来る炎に、抗いがたい恐怖を覚える。
 ティルトの一声で、たとえ彼にそのつもりはなくとも、その炎は容易くオズウェルを飲み込み、焼き尽くしてしまうだろう。オズウェルどころか、下手をすれば世界樹にまでその炎は及びかねない。世界樹であろうとも、木に変わりはない。木は火をつければ燃えてしまうのだ。大丈夫だとは、言いきれない。
「……万物を支配すると言われる、光の精霊なんだろ……!」
 できることなら今すぐこの場を逃げ出したかったが、足が竦んで動けなかった。縋る思いで懐の《卵》に触れても、それが当たり前のことであるかのように、答えはなかった。返ってきたのは、触り慣れた《卵》の感触と小さな鼓動だけだ。共に生まれ、同じぬくもりを共有してきたはずなのに、どこか絶望的な冷たさにさえ感じられる。
 汗が噴き出し頬を伝ったのは、何もティルトの手中にある炎の熱が伝わってきたからだけではない。
「オズウェル、怖かったらお前の精霊を呼んでみろよ。ノルくん、ぼくを助けて、って、呼んでみせろよ――なあ!」
 呼べるものなら当の昔に呼んでいる。そう答えたところで、ティルトの前ではそれはただの言い訳にしかならなかった。
 どうして自分ばかりがこのような目に遭わなければならないのだろう。そう思ったところで、しかしここから逃げ出せるというわけでもなかった。
 いっそのこと、子供のように大声をあげて泣き出してしまえたら楽だったのかもしれない。けれども、オズウェルにはそれすらできなかった。何よりも目の前の少年に対し、涙を見せるという醜態など晒したくはなかった。
 観念したようにオズウェルは瞳を閉じる。腕を振り上げたのか、ティルトの炎が動いたような音がして、そして――
「――いい加減にしなさい、ティルト!」
 ぱたぱたとこちらへ近づいてくる足音が、はっきりと耳に届いた。


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