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第二章 嵐の後に


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 船に乗っていたという五人の内、三人は行方が知れず、一人は助け出された時には既に意識がなく、運ばれた先で息を引き取った。生きていたのはたった一人だった。
 嵐が静まると、今度は死者の弔いの準備である。慌しい空気までもが静まるには、まだ当分時間がかかりそうだった。
 どこから訪れようとも、この領域で死んだ以上は彼らの風習に倣って埋葬される。それが死者に対する最大限の礼儀であると彼らは考えているし、そもそも、死者の故郷の風習を彼らが知る術はないからだ。
 死者の亡骸は世界樹の下で火葬をするのが《時渡りの民》の慣わしである。地に円陣を描き、亡骸を横たえ、世界樹の葉を焚く。最後に、祈りの歌と共に亡骸に火がつけられるのだ。灰は世界樹の根元に撒かれ、そして世界を巡る命の欠片となる。
 だから、《時渡りの民》の文化の中には、墓というものは存在しない。死者の行く先は、誰であろうとも、それこそ、どんな英雄でも極悪人でも等しく世界樹の下である。いわば、世界樹そのものが墓標なのだ。

 扉を開けたオズウェルの耳が最初にとらえたのは、聞き慣れない旋律と知らない言葉の連なりだった。歌っていたのは、ベッドの上で起き上がっていたヘルメスである。姿の見えない妖精でも隠れていたのなら話は別だが、そんな非現実的なことを考えるまでもなく、部屋の中には彼の姿しかなかった。そして間違いなく、その歌は彼の口から紡がれていた。
 てっきりまだ眠っているものとばかり思っていたので、ノックもせずに開けてしまったのだが、オズウェルは部屋の入り口に立ったまま、どうしたものかとしばし思案に耽った。眠ってさえいればすぐに部屋を後にしたのに、やはりそう簡単には行かないらしい。その間に、ヘルメスの視線はゆっくりとこちらを向いていた。
「オズウェルくん、遠慮しないで入りなさい。ほら、何よりここはきみの家だからね」
 手招きに応じて、それでもオズウェルは気後れしながら部屋の中へと足を踏み入れる。湯気の立つスープや温めたミルクが載った盆を抱えているので、些か覚束ない足取りだ。
 部屋の中は、一言で言うなら殺風景だった。ヘルメスが陣取っている簡素なベッドと、古びたテーブルの側に椅子。ベッドの側に転がっているのはヘルメスの物であるくたびれた鞄だ。中から色々な物が出てくるともっぱらの噂であるが、その中身の全貌を知る者はいない。
 テーブルの上には、ヘルメスが肌身離さず持ち歩いている手帳と、彼にしか読み解くことのできない、細かな文字がびっしりと詰め込まれた日記帳――つい先日まではこれくらいしか置かれていなかったのだが、大方スヴェンにでも頼んだのだろう、真新しい五冊の、しかもそれぞれに表紙の色の違う分厚い本――おそらくは日記帳だ――が、その傍らに積み上げられていた。
 たとえばここがシアの部屋だったならば、ベッドの上には手作りのぬいぐるみ、机の上には摘み立ての花が挿してある素焼きの花瓶と可愛らしい小物入れ、床にはメルルの毛で編んだ絨毯が敷かれていたりするのだろうが、男の部屋というのは大概にしてこんなものだ。
 オズウェルの部屋も似たようなものである。ヘルメスのように大きな荷物がない分、この部屋よりもさらに殺風景かもしれない。
「何の歌ですか? 今の」
 テーブルの上に盆を置き、オズウェルは側の椅子に腰を下ろした。問いかけながら、おずおずとスープの器を差し出す。それを両手で大事そうに受け取り、ヘルメスは礼の言葉と共に笑顔を返した。話題は何であれ、オズウェルが興味を示してくれたこと自体が彼にとっては嬉しかったらしい。
「私の故郷に伝わる古い歌だよ。子守唄代わりに、子供の頃から聞かされていてね」
「……そんな歌で、眠れますか? 悲しそうな歌なのに」
 オズウェルは率直な感想を述べた。ヘルメスは気を悪くする様子もなく、それどころか感嘆にも似た息まで漏らす。
「なかなか鋭いね、オズウェルくん。きっと、私は子供の頃からこういった静かな曲が好きだったんだね。これは……お別れの歌なんだよ」
「お別れ……」
「そう……戦争で生き別れた恋人たちの歌なんだ。男の人のほうは戦場に出かけて、女の人のほうは、故郷で彼の帰りを待っていた。けれど、その故郷は戦火に焼かれて、彼女は死んでしまった。傷つきながらも故郷に戻った彼は、故郷も彼女も、既に失われてしまっていたことを知った……そんな歌だよ」
 オズウェルのじっと促すような眼差しを受けて、ヘルメスは気恥ずかしそうな笑みを浮かべながらも、咳払いを一つ、先ほどの歌を歌い始める。こうして歌を歌っているところを見ると、楽器を片手に弾き語りなどしたら、結構様になるかもしれないと思えるような風貌だった。何とも言えないくたびれ具合がさらに拍車をかけている。
 考えてみれば、彼は言葉で語るのが上手いのだから、歌で語るのが上手かったとしても何ら不自然ではないだろう。
 オズウェルのそれよりも低い、伸びやかであたたかみのある歌声。本調子でないとは言え、十分に聴かせることのできる声だ。開いた窓から、ゆるやかな風が吹き込んでくる。まるでヘルメスの歌を聴くために風たちが足を止めたのではないかとさえ、オズウェルは感じた。
 控え目に流れる異国の言葉と旋律は、オズウェルが最初に受けた印象そのままに、どこか物悲しく寂しいものだった。心の奥底からじわじわと、何かとても大切なものが気づかぬうちに削り取られていくような感覚。あるいは、喜びや幸せや何もかもが、二度と戻れない遠い過去に打ち捨てられていくような心地。
 一言で言うなら、『悲しい』のだ。
「悲しい歌ですよね。……でも、嫌いじゃありません。とても懐かしい感じがする」
「……今日のオズウェルくんは、この間みたいな顔をしていないね」
 ヘルメスはふと首を傾げると、右手の人差し指で眉をくいと吊り上げながら、もう片方の目を細めて笑う。オズウェルは悪戯がばれた子供のように一瞬息を詰まらせてから、やがてぼそぼそと、小さな声で答えた。
「ちゃんと頭を冷やしてきましたから。だいじょうぶですよ」
「よかった。……そうそう、懐かしいと言えば、オズウェルくんが知っている古い歌というのはあるかい? オズウェルくんたち《時渡りの民》の中に伝わっている歌で、でも、儀式的な歌ではなく……こういった、子守唄みたいな歌」
 すんなりとこのような疑問を導き出せるのは、やはり、ヘルメスの学者としての探究心や知的好奇心のなせる業だろう。何気なく発せられる問いであるにもかかわらず、こちらはそれなりの答えを用意するべく考え込んでしまうから不思議だ。オズウェルがそんなやり取りにさほど違和感を覚えなくなってから、久しい。
「子守唄……とかは、記憶にないです。ぼくの寝つきの良さは、ティナさんのお墨付きだったみたいですし。でも、シアがよく歌ってる歌は、ティナさんに習ったって言ってたので……あれが、子守唄なのかな、とは。……だけど、先生が多分期待しているような、この島で生まれた歌とかは、わかりません。ぼくたちの中には、一度外に出て帰ってきた人もやっぱりいますから、そういった人たちが外の世界で覚えてきた歌っていうのも、あると思いますし」
 もしシアがここでヘルメスと同じ歌を口ずさんだとしても、ここまで悲しいと感じることはなかったかもしれない。彼女が歌ったならば、きっとどんなに悲しい歌であっても、確かな希望の色が織り交ぜられていたに違いない。それは流れる砂のようにさらさらと、聴く者の心に響き渡る優しさだ。
「そうか……今度聴かせて欲しいな。機会があったらね」
「……そういうことは、ぼくよりもシアに直接頼んだほうが早いと思いますよ。シアは歌が好きですし、それにとても綺麗な声だから。ここからじゃ、聞こえませんけれど」
 オズウェルは窓の外を指し示した。ベッドの上から窓の外を見やり、ヘルメスは深く溜め息を吐いた。
「……ああ、死者を送るための歌……だね……何と言うか、どこの世界でもああいったものは、どこか、寂しい気がするね」
「それはそうでしょう。亡くなった人を送るのに、賑やかに騒げるはずもないですし。先生のことだから、どうせもっと近くで聴きたかったなんて言い出すんでしょう? ……あんなにずぶ濡れになるまで雨が降ってきたって気づかなかった、先生が悪いんですよ」
 後半はやや呆れ声で、オズウェルは口を尖らせながら呟いた。年相応の拗ねた顔だった。大の大人が子供の目の前で背中を丸めて咳き込む様子に、いっそ大人のくせに情けないなどと言い捨てることもできたろうが、ヘルメスの申し訳なさそうな表情を見ると、そんな気持ちも萎縮してしまう。
 何より相手は病み上がりの身体だ。そこまで薄情だという自覚はオズウェルにはないし、元よりそのつもりもない。
「ああ、うん、実際に聴きたかったのは否定しないけれど、こうしてオズウェルくんにも迷惑をかけてしまったし、それは……面目ないと思っているよ。でも、あまりにも……風が気持ちよかったものだから。オズウェルくんだって、あの丘に吹く風は好きだろう?」
「それはまあ、そうですけれども。でも、どんなに寝ていたって、雨が降ったらあんなにずぶ濡れになる前には気づきますよ、さすがに……先生がぼくより頭を冷やしてどうするんですか」
 丘で別れたあの後、日が沈んでから降り出した雨が本降りになるまで、ヘルメスはそれに気づかないまま丘で眠りこけていたのだった。シアの家に帰りついた時には、服を着たまま泉にでも落ちたのかと思われるほどに、全身がから水が滴り落ちていた。
「まあ、私もきっとあの時は頭に血が上っていたんだろう。よく冷えたよ」
 それが祟って、雨が止んでから今日に至るまでの丸三日間、ヘルメスは延々と高熱にうなされる羽目になったのである。貴重な男手でありながら、浜辺に流れ着いた遭難者たちを救出に行けたはずもなく、ヘルメスは同じ境遇である彼等との対面をいまだに果たせていない。
「……オズウェルくんは行かなくてよかったのかい? 死者を送る儀式は、とても大事なものだとうかがっているよ」
 熱も下がり、何とか起き上がって食事を取れるまでには回復したものの、葬儀の場に立ち会えるほどの体力までは戻っていなかった。それでも立ち会いたいというヘルメスの懇願は、主にティナとシアの有無を言わさぬ微笑みによって、すっぱりと却下されてしまったのである。
 オズウェルはすぐに答えを返さずに、窓の外をじっと見つめた。近いようで遠い場所に世界樹が見え、その周囲にぽつぽつと、どれが誰なのかまではさすがにわからないものの、人影が見える。この島にいる、オズウェル以外の《時渡りの民》が、全員そこにいるはずだった。細く白い煙が立ち昇っているのも、その辺りだ。
「……本来ならば行くべきなんでしょうけれど、あなたの面倒を見るといういい口実を利用したまでですよ。あなたが無茶をしないように見ていると言えば、誰も無理に来いとは言いませんから」
「そうか……ありがとう。ああいったものを一人で見るのは、ちょっと、辛かったかもしれないから」
 いつもならティナに次いで饒舌なヘルメスも、この時ばかりは窓の外に視線を向けたまま押し黙った。死者に対する思いは様々だろうし、冥福を祈る気持ちを否定することなどできるはずもないが、わずかな間であっても話題が途切れることで、かえって調子が狂う。場合が場合とは言え、相手がヘルメスであるから尚更だった。たまらずオズウェルは話を切り出した。


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