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第二章 嵐の後に


5

「先生」
「なんだい、オズウェルくん?」
 呼べばすぐに返事は返る。当たり前のように初めからそこにあったきっかけに、オズウェルは今更のようにほっとした。こちらから手を伸ばせば、それを受け止めてくれる手は確かに存在している。そういうことだ。
「お花とか、欲しいですか?」
 唐突にしては唐突すぎる話の展開に、ヘルメスは驚いたような、心底不思議そうな顔をする。
「どうしたんだい、オズウェルくん。ああ、いや、花は人並みには好きだけれど」
「えっと、その……」
 自分で切り出しておきながら、途端に後悔の波が押し寄せる。こういう時に何と言えばいいのか、オズウェルはよく知らなかった。シアならばきっと日常会話の延長上ですんなりと言えるのだろうけれど、オズウェルにはそれが途方もなく困難なことのように感じられた。きっと全員分の夕飯を作れと言われた時よりも焦っている――そんな自分がいるのを悟った。
 忙しなく視線を動かしながら、どう説明すればいいものかと、しばしオズウェルは考えた。文字通り、手の中に汗を握り締めていた。
「もうすぐ、焼き入れの時期がくると思うので……その、花瓶を作ってもらおうかなって。シアの部屋に花瓶があって、花が飾られているんです。白い花とか、青い花とか……それが、とても綺麗だったから」
 部屋に花を飾ってみるのも悪くないと思えるようになったのは、シアの部屋を見てからだ。もちろん花にも命がある以上、無闇に摘むものではないという心得はある。けれど、殺風景な空間にある種の華やかな彩りを持たせることができるのならば、それもいいのではないだろうかというのが、シアやティナの考えだ。花は、一度散歩に出ればそれこそいくらでも手に入れることができる。問題はそれを挿す花瓶だった。
 基本的に物を入れるための容器は、必要最低限の数しかない。皿や器などは木製の物が多いのだが、素焼きの物も同じくらいに利用されている。そのため、月に一度、あるいは半年に一度、その時点で必要な数の器をまとめて作る時がある。それに用いられるのは、島の東にある洞窟の土と炎の精霊の力だ。
 スープの入った器を抱えたまま、ヘルメスは考え込んだ。はたと器に視線を落とせば、スープは相変わらず湯気を立てている。冷めてしまう前にと、慌てた様子で一口掬った。魚で出汁を取った野菜のスープで、コルンの実がまぶしてある。作ること自体はとても簡単で、それはオズウェルがティナから一番初めに教わったレシピだった。
 味は納得の行くものだったのだろう。ヘルメスはうんうんと大きく頷いて、その表情を喜びで満たした。
「そうだね……いいことだと思うよ。せっかくだし、飾るなら……私が使わせてもらっているこの部屋だけでなく、オズウェルくんの部屋にも飾るといい。花は心を和ませてくれるから、いっそ部屋中を花で満たしてもいいくらいだと私は思うなあ。まあ……そんなことをしたら、さすがに怒られてしまうだろうけれどね」
 部屋を見渡しながら、ヘルメスは言った。もう一口スープを飲んで、やはり嬉しそうに笑った。その表情に、オズウェルはどこかほっとする。
「スープ、どうですか?」
 そうしてさりげなく、ごく控え目に聞いた。ティナではないけれど、やはり作った側としてはどうしても反応が気になってしまう。ヘルメスの表情を見れば一目瞭然ではあるが、何となく聞かずにはいられなかった。オズウェルの味覚がよほど変になっていなければ、彼としてはまずまずのものだったのだが、それでも直接感想を聞かなければ安心はできなかった。
「うん、とっても美味しいよ。……ひょっとして……これ、オズウェルくんが作ってくれたのかい?」
「……一応。台所と材料はシアの家の物を借りましたけど」
 首を傾げるところを見ると、案の定、ティナやシアが作った物とばかり思っていたのだろう。それもし仕方がないかとオズウェルは胸中で苦笑して、小さく頷いた。
 どうやらヘルメスにとっては、オズウェルが予想していた以上に予想外の出来事だったらしい。しばらく呆けたようにオズウェルと器の中のスープを見やっていたが、ふと我に返ると、殊更ゆっくりと、噛み締めるように味わうように残り少ないスープを飲み始めた。
「そんなに大層な物でもないですよ。ぼくのでよければいつだって作れるくらいですし。ティナさんやシアが作った物のほうが、よっぽど美味しいでしょうし」
「いや、オズウェルくんの作ったスープだって、きっと負けないくらいに美味しいよ。なんだか、食べてしまうのがもったいないくらいだ」
「冷めないうちに飲んでください。美味しいまま食べてもらったほうがずっといい」
「あはは、確かに……ごちそうさま。とっても美味しかったよ、オズウェルくん」
 最後の一口を名残惜しげに飲み干して、ヘルメスは口元を拭う。何はともあれ、きちんと食べてくれたことが嬉しかったので、オズウェルは小さく頭を下げた。
「じゃあ、オズウェルくん……ついでにというわけでもないけれど、きみより少しだけ人生の先輩である私の独り言だと思って、聞いておいてくれるかな」
 そう言われて聞き流せるような話だった試しはないが、オズウェルは取りあえず、溜め息混じりに首を縦に振る。
「……どうぞ? みんなが帰ってくるまで、あなたの話に付き合うだけの時間はありますよ、きっと」
 独り言である以上、こうして返事をするべきではないのかもしれないけれど、それでもオズウェルは律儀に頷いた。ヘルメスは何度か瞬きをしてから、わずかに相好を崩す。
 オズウェルが促すように手を差し伸べたのは、ヘルメスの手の中にいまだ留まったままのスープの器を受け取ろうとしたためだ。ヘルメスもすぐにそれを察して、自身のそれよりもわずかに小さな両手に、空になった器を託した。
「……ありがとう。さて、どこから言えばいいのか……」
 煙の筋が消えかかっている。葬儀も間もなく終わることだろう。ヘルメスは世界樹のある方向を見つめながら、常と変わらない穏やかな声音で呟いた。オズウェルは受け取った器を盆の上に載せ、それからヘルメスをちらりと見やった。もしかしたら、彼は世界樹よりもずっと遠いところを見ているのではないだろうかと、何とはなしに思いながら。
「オズウェルくん、子供から大人になるというのは、扉を開けるようなものだと私は思うんだ。大人への階段を上るという表現もあるけれど、あえて私は、そう、扉を開けるという喩えを使おうと思う」
 オズウェルは黙ったまま、ぱちぱちと瞬きをする。今ひとつその意図が掴み切れなかったのか、緩く首を傾げたものの、疑問の言葉が出ることはなかった。ヘルメスはオズウェルを見やりながら、常と変わらぬ調子で語りかける。
「ねえ、オズウェルくん。子供であるきみの前には、今、無数の扉がある。文字通り、数え切れないほどの扉だ。ちょっと想像するのは難しいかもしれないけれど、とても広い空間の中に、扉だけがたくさんあると思ってくれていい。色や形、質感も様々な扉が、たくさんだ。そして、扉の向こうには、きみがこれから進んでいくことになる、たくさんの未来が待っている。その可能性も、扉の数だけ……いや、それ以上にたくさんあるんだ。……わかるかな?」
「……何となく」
「うん、何となくでも構わない。たくさんの扉の先には、それぞれの未来が用意されている。たとえばある扉の向こうでは、明日にでもきみの精霊が孵っているかもしれない。またある扉の向こうでは、やっぱり今のきみのように、精霊が孵らないことを思い悩んでいるかもしれない。さて、オズウェルくん、きみだったらここでどうする?」
「どうする、って……それは……」
 オズウェルは大して間も置かず、半ば反射的に答えていた。
「扉を開けるしかないじゃないですか。そりゃあ、どの扉を開けるか、少しは悩むかもしれませんけど」
「そうだね、扉の前で立ち止まって、どの扉を開けるのか悩むよね? たとえば、きみは白い扉の前で悩むだろう。この扉を開けるべきなんだろうかと。次に、きみは黒い扉の前に行くかもしれない。やっぱり、こちらの扉のほうがいいかもしれない、なんて。夕飯の献立を考えるのとはわけが違う。そう簡単には決められない――だから、悩んで、悩んで、その先にある答えを探すよね?」
「そりゃあ、献立を考えるほうがずっと簡単だと思いますよ。難しいですね、なんだか」
 真剣そのものといった様子で考え込むオズウェルに、ヘルメスは満足そうに笑い、大きく息を吸う。
「そう、簡単なことじゃない。未来に進むための扉は無数にあるけれど、開けられる扉は常に一つしかない。扉を開けて、その向こうに足を踏み入れてしまったら、その先に続く道を歩かなければならない。歩いた道を振り返ることはできても、引き返すことはできない。振り返った先にあるのは、過去だからね。それでも、大人になるというのは、こういうことじゃないかなって、私は思うんだよ。成長するということは、大人になるということは、こうやって、いくつもの扉を開けながら前に進んでいくことなんじゃないか、って」
 ヘルメスは紅茶色の目を細め、困ったような笑みを浮かべた。困ったようなというのはそう見えるだけで、実際には眉を下げただけなのだろう。彼がこのような表情をするのは、決まって真剣な話――それこそ、心でも何でも、見えない扉を開いて、その奥底にまで踏み込むくらいの真剣な話をしている時だ。冒険譚を語る時の彼は、もっとずっと目をきらきらと輝かせている。
「……大人たちだって、扉を開けながら成長してきた。私だってそう……まあ、私の場合は、正しい扉を選び抜いて来れたか、その点に関しては自信がないけれど。でも、扉を選ぶという事に関しては、私や大人たちはきみよりも先輩だ。だから、たまには大人に頼りなさい?」
 そう言われてしまうと、反論の言葉も出てこなかった。ヘルメスの言葉は、確かに間違っていない。それが嫌というほどにわかるから、尚更だった。
 オズウェルは椅子の縁を両手で掴んだまま、少しばかり気まずそうに視線を床へと落とす。ヘルメスはそんなオズウェルから視線を外し、窓の外を横目で見つめながら、一旦閉ざした口を開いた。
「どんなに大人になりたいと願っていても、きみはやっぱり、私たち大人から見れば……まだまだ、子供だから。もちろん、きみだけが子供というわけじゃないよ。シアちゃんだって、ティルトくんだってそうさ。私も昔は子供だった。みんな色々な悩みを抱えて、成長していく。けれど、一人で成長してきたんじゃ、ないよね?」
 どんなに追いつこうと手を伸ばしても、背伸びをしても、大人というのはいつだって子供よりずっと先にいる。ずっとずっと先で、子供が来るのを待っている。
 ヘルメスという男は特にそうなのだ。追いつけそうな位置にいるはずなのに、たやすく伸ばした手をかわして行く。だからと言って子供をまるきり子供扱いするわけでもなく、常に同じ視点に立とうとしている。同じ目線で、子供の言葉をとらえようとしている。大人の言葉で、ゆっくりと、焦ることなく、子供の心を開こうとしている。
 彼はよそ者である以上に、大人なのだ。オズウェルよりも大きくて、オズウェルよりもたくさんのことを知っている、今のオズウェルでは到底敵わないと認めざるを得ないような、大人なのだ。オズウェルはそれが悔しかったのかもしれなかった。
 そんなオズウェルの胸中をしっかりと理解しているかのような、ヘルメスの言葉が続く。
「オズウェルくん、きみが思っているほどに、きみは一人ではないから。一人で何もかも抱え込んだりしないで、たまには泣きついてすがるくらいに大人に頼って欲しいと、私は思うんだよ。泣くのは恥ずかしいって、オズウェルくんは思うかもしれないけれど」
 世界樹の下からは、既に人の影が離れ始めていた。煙は残り香すら引き連れて青空に溶けており、葬儀が終わったのだということを遠く離れた場所から知らせてくれる。ティナとシアが様子を見に、間もなくやって来ることだろう。
「ティナさんといい、あなたといい……どうしてそう、同じことを言うんですか……」
 オズウェルは力なく笑ってみせた。本当に力が抜けてしまったようだった。その反応に、ヘルメスがまた嬉しそうに笑うのが見える。
 そうして、これからは今までよりもずっと自然に、ヘルメスの言葉に耳を傾けられそうだとオズウェルは思った。


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