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第三章 空の歌声


3

「あ、オズ。浮かない顔してる……どうしたの?」
 いつものように足を向けていたらしい世界樹の根元に、今日は先客がいた。肩までの栗色の髪と瞳の、膨らんだ腹を抱えた一人の女――出産を間近に控えた母親見習いのタチアナだ。
 子供はとても繊細だから、その母体である彼女にも余計な心配をかけないようにと皆から言われているので、オズウェルは無理矢理にでも表情を取り繕って、笑ってみせる。
「なんでもないよ、ちょっと虫の居所が悪いだけで」
「ふうん……先生と喧嘩でもしたの?」
 いきなり核心をつかれてオズウェルは驚きを隠しきれなかった。『先生』との喧嘩はそんなに日常的なことなのだろうかと思わずにいられないが、それを問いかける勇気はなかった。オズウェルのあからさまな反応にタチアナは目を瞬かせてから、ぽんとオズウェルの肩を叩いて笑い出した。
「オズは正直だなあ。嘘ついたってすぐにお見通しだよって、ほら、この子も言ってる」
 膨らんだ腹がわずかに動いて、タチアナはそれをそうっとなでた。確かにそこには命があるのだと、今更ながらに実感する。かつては自分もこうだったなんて、今でも信じられないけれど。
「ねえ、オズ。どうして先生がオズのことをあんなに気にかけるのか……そのちゃんとした理由、知ってた?」
「……それは……ぼくの《卵》が、光の精霊になるかもしれないから、だろ?」
「それも確かにあるんだけどね。手のかかる弟みたいだって、教えてくださったのよ」
 タチアナは座ったままのその体勢で、ちらりとオズウェルを見つめた。オズウェルは行儀悪くあぐらをかいたまま、その言葉の続きを目で問う。
「先生、年の離れた弟さんがいらっしゃったらしいの。ちょうど、今のオズと同じくらいの年齢だって。知らなかったでしょ? オズには兄弟はいないって話をしたら、じゃあ自分が兄になるなんて言い出したのよ?」
「……それ、もしかして、知らなかったのはぼくだけ?」
「さあ、そうかもしれない。だって先生の『おはなし会』にいつもいないのは、オズくらいだもの」
 ヘルメスが口止めをしていたのか、それとも、タチアナや皆が黙っていただけだったのか、いずれにしてもオズウェルにとっては初耳だった。湧き上がるのは、今更にしては今更過ぎるような疑問。
「先生って、いくつだったっけ?」
「今年で二十八歳ですって。……勘違いしないでね? 先生は、オズ、あなたが嫌いだからその話をしなかったんじゃないの。あなたには兄弟がいないから、やきもちをやいてしまうかもしれないでしょう? ――そう思って、あえてご自身の身の上話をなさらなかったのよ」
「どうしてぼくが、先生にやきもちなんか」
「やいてるわよ、一丁前にね。それに、オズは気づいていた? 先生が島に来てからのオズは、自分の気持ちをそれまでよりも素直に表に出すようになったのよ。笑ったり、泣いたり、怒ったり……先生が来る前のオズは、どんなに機嫌が悪くても、それを決して表に出そうとしていなかったの。先生、とても真っ直ぐにぶつかってきてくれているでしょう? ……いつも。だから、オズも真っ直ぐに気持ちを返すようになった……あたしは、そう思ってるんだけどなあ」
 そうして、楽しそうにタチアナは笑った。オズウェルの変化に気づいていたのは、ヘルメスだけではなかったということだ。
「だから、オズが本当は先生のことどう思ってるのかとかそういうのはあたしにはわからないけれど、先生ってオズが思ってるよりずっとオズのこと考えてんだから、ちょっとは信頼してあげてもいいんじゃない? ……よいしょっと」
 一息ついて腰を上げるタチアナを目で追いかけながら、オズウェルも立ち上がる。身重の体を支えようと伸ばした手のやり場に迷っているうちに、タチアナの笑い声が落ちてきた。
「だいじょうぶ、お母さんは強いんだから」
 そうして、タチアナは最後にもう一度手を振ってその場を離れた。
 ――本当に『お母さん』は強いのだと、オズウェルはその背中を見送りながら考えていた。あのお腹の中に、これから世界を知る小さな命が入っているのだ。オズウェルや他の《時渡りの民》と同じように、その身に《卵》を抱く――オズウェルにとっては小さな弟か、妹のような存在になるであろう、新しい家族が。
 その子が今のオズウェルと同じ年になるのは、今から考えるととても遠い未来のことであって、その頃にはオズウェルももしかしたら誰かの父親になっているかもしれない。今の彼にはとても想像できることではなかったけれど、何となく今やらなければならないことだけは理解した。
「……謝らなきゃなあ」
 少しだけ冷静になって、オズウェルは再びその場に腰を下ろした。よくよく思い返してみれば、ヘルメスは一言も精霊が欲しいとは言っていないのだ。だから完全にオズウェルが思い込んでしまっただけで、どちらが悪いかと聞かれれば完全にオズウェルのほうだろう。
 ただ謝るだけなのに、それが今は星を数えるくらい途方もないことに思えてならなかった。
「――よう、オズウェル」
 考え事に夢中になると周りが見えなくなってしまうのは悪い癖だと、これまでに何度実感したことだろう。そうしてまたそのことを実感しながらオズウェルは顔を上げた。聞き慣れた声は間違いなく、ティルトのものだった。今日は来客が多い。
「……ティルト」
「なんだよ、不味いポルタでも食わされたような顔だな」
 普段ならこの時点で既に『出来損ない』という冠詞がついた言葉の一つや二つ発せられていてもおかしくないのに、今日のティルトは何も言わずにオズウェルの側までやって来て足を止めた。世界樹の幹に背を預け、どこかぼんやりと地面に視線を向けている。まるで、いつものティルトと他の知らない誰かが中身だけ入れ替わってしまったようだった。
「どうしたんだよ、《卵》はまだ孵らない」
「じゃあ早く孵るよう、せいぜい修行に励めよ」
 ティルトの言葉は相変わらず素っ気ないが、『いつもの』刺々しさが感じられない。やはり今日のティルトは、オズウェルが知るいつもの彼とどこかが違う。
「お前が鍛えてくれるんじゃなかったのかよ」
「あいにく、今日はそんな気分じゃねえんだ。まさかこんな所でお前に会うとも思ってなかったしよ……何でお前の精霊が孵らねえと、島を出られねえんだか。お前や俺の予定が狂ったところで、何も変わりゃしねえだろうに」
 あまりの張り合いのなさに、オズウェルはかえって拍子抜けしてしまう。
「それはぼくじゃなくて老ベルメールに聞けよ。なあ、なんだってそんなに島を出たいんだよ。外の世界は危険なんだろ? せん……ヘルメスさんが言ってた。いくらティルトでも、一人で行けるかどうか」
「ずいぶんとあのよそ者の肩を持つようになったじゃねえか。けどな、兄貴は一人で行ったんだ。俺も一人で行けなくてどうするんだよ」
「ティルト、お前……」
 オズウェルの頭に、少しばかり乱暴にティルトの手が載せられる。ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき回されても、不思議と、この間ほど怖いとは思わなかった。
「……お前を今ここで、灰になるまで燃やすことだってできるんだぜ、俺は」
「ティルトはそんなこと、しないだろ」
 その言葉に対する肯定のように、ティルトの手が離れた。
 同族殺しは《時渡りの民》にとって最大の禁忌だ。仮にティルトがオズウェルを殺してしまったら――ティルトは二度とこの島から出ることができなくなってしまうのだ。
「ティルト、本当はぼくを探していたんじゃないのか? そうでなきゃ、わざわざお前がここに来るとは思えない。こんな所って言ったけど、ぼくがここにいるのを、知ってたんじゃないか? ……シアだって、いつ来てもおかしくないのに」
 それには答えず、ティルトはオズウェルに背を向けたまま、ひらひらと手を振って去っていった。まるでそれを待っていたかのように、ティルトとは逆の方向から、急ぎ足でやってくるシアの姿があった。


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