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第三章 空の歌声


6

「ねえ、オズウェルくん」
「……何ですか? 先生には教えませんよ」
 それは、暗にヘルメスが求める答えを知っていると言っているのに他ならなかったのだが、ヘルメスはそれすらもわかっていると言わんばかりに頷いた。オズウェルは内心首を傾げる。わかっていてなお声をかけたということは、ここから先に続くのは別の話だということになる。
「うん、確かに気になるけれど、それは後の楽しみに取っておくことにするよ。私はね、オズウェルくん。この島やこの里は、いわゆる『地上の楽園』なんじゃないかなって思うんだよ。何なら……また独り言だと思ってくれてもいい」
 生まれてから今までこの島から一歩も出たことのないオズウェルは、この島――言ってしまえば、この世界しか知らない。ヘルメスが知っている世界を、オズウェルは知らないのだ。
 だからここが楽園だと言われても比較のしようがないし、何よりも実感が沸かない。確かに人は優しい。世界樹も優しく島を包んでくれる。食べ物だって美味しいし、咲く花だって綺麗だ。けれど、オズウェルにとって、ここは『楽園』ではない。
「……楽園、ですか。何の変哲もない、小さな島じゃないですか。こんな狭い場所が……楽園、なんですか? あなたが住んでいた世界のほうが、もっと恵まれていると思いますよ。ここより広いし、ここよりたくさんの人や生き物がいる。ここにはない、色々なものがあるでしょう?」
 だからこそ、オズウェルの言葉も率直な響きを伴っていた。
 楽園というのは、誰も苦しまず、誰もが心安らかに暮らせるような世界ではないのか。精霊が孵らないなどといった悩みさえ抱かず、穏やかに暮らせるような――そんな世界ではないのか。そうであるのなら、オズウェルの『楽園』はまだ彼の前に姿を見せていない。
「確かに広さや人の多さでは外の世界には勝てないけれど、でも、外の世界にはないものだってたくさんあるよ」
 だが、ヘルメスはこの島を『楽園』と呼んだ。オズウェルの『故郷』であるこの場所を、彼は『楽園』だと言うのだ。
「私も、ないものねだりをしているのは一緒だろうけれどね。この小さな世界は、何よりも優しさに満ちている。とても優しい場所だよ、ここは」
 心の底からの実感がこもっているような言葉だった。だからこそ、彼の言葉には嘘偽りがないとこの島の誰もが感じるのだろう。そして、彼の言葉や彼自身を信頼しているのだろう。
 そんなヘルメスがないものねだりと言うのならば、それはきっと、オズウェルがまだ見ぬ外の世界に憧れているのと似たようなものだ。憧れるのは大抵の場合、そう簡単には手に入らないものばかりである。オズウェルにとって精霊がその一つであるように、ヘルメスにも一つや二つ、容易に手に入らない憧れの物があったとしても何もおかしくはない。
 ヘルメスがどんな過去を持って今に至っているのか、オズウェルは知らない。彼の冒険譚はそれこそ山が二つも三つもできてしまうほど耳にしているが、そのどれでも触れられていない過去が――考えてみれば、彼にもあって当然なのだ。オズウェルにだって、まだ彼に話していないことがたくさんあるのだから、尚更だろう。
「……私がこの島で見つけたり、もらったりした優しさは、オズウェルくんにとっては当たり前のことすぎて、もしかしたら、オズウェルくんは気づいていないだけかもしれない。けれど……ああ、うん……何て言えばいいんだろうね、こういう時は」
 気難しい顔をしながら額を手で押さえるヘルメスを見て、この学者でも悩んでしまうことがあるのかとオズウェルはふと考えた。人の気持ちほどわかりにくい物はないというのはヘルメスの言葉だが、こうして当の本人が悩んでいる様を目の当たりにすると、あながち間違いでもなさそうだった。
 自分の気持ちですら、理解することは難しい。理解するのも難しければ、それを他人に伝えるのもまた難しい。
 人の心とはそういうものだ。だから人は対立するのだろう。もしも他人同士が容易に理解し合えるのならば、そこにわだかまりなど存在しえない。争いなど起こらない。
「……いいと思いますよ。何となく、わかります。先生の言ってること。ただ、先生が思っていることとぼくが感じたことが、同じじゃないかもしれませんけど」
 そんな世界が本当に幸せなのか、オズウェルにはわからない。だが、少なくとも不幸ではないのかもしれないと思う。もし楽園という場所が、本当に誰も苦しまず、誰もが心安らかに暮らせる世界であったとしたら――誰も、不幸がどういうものであるのかを知らないだろうから。
「うん、それで構わないよ。オズウェルくんが感じたことが、オズウェルくんにとっての答えだから……ちょっと失礼」
 言いながらヘルメスは唐突に立ち上がると、両手を組んでぐっと大きく伸びをした。見上げているオズウェルの前で両肩をそれぞれゆっくりと回し、さらには首まで回してから、再び腰を下ろした。ところどころで、ぽきぽきと骨の鳴る音が聞こえた。思わず笑い出してしまいそうになるのを、オズウェルは辛うじて堪える。
「ねえ、オズウェルくん」
 何事もなかったかのような声で、ヘルメスは笑った。
「……はい」
「昨日……私が歌っていた歌の話をしただろう? ……あの歌には、続きがあってね。オズウェルくんが言うように悲しい歌ではあるのだけれど、そればかりじゃないんだよ。……聞いて、くれるかい?」
 オズウェルは素直に頷く。断る理由などどこにもなかったし、続きがあるというのなら純粋にそれを知りたかった。
「彼は焼け野原の中に咲いていた、一輪の花を見つけたんだ」
「花?」
「そう、白くて綺麗な、小さな花。そこに、死んでしまった彼女の面影を見て、彼は……その花から見出したんだ。故郷が焼けてしまっても、帰りを待っていたはずの人がいなくなってしまっていたことを知っても――絶望に満たされても、それでも、生きる希望はあるのだと。焼けてしまった大地にも、いつか花は咲く。深い悲しみも、いつか必ず思い出に変えることができる……とね」
 まただ、と、オズウェルは直感的にそう思った。また彼は――ヘルメスは、どこかとても遠いところを見ているようだった。眼差しは真っ直ぐにこちらへと向けられているけれど、オズウェルよりもさらに向こう――どこか、とてもとても遠い世界へと、その瞳は向けられているようだった。話の合間に小さく息をついたその瞬間だけ、ヘルメスの心はここに帰ってくる。
「それに、花は、その種を自らの力でどこかへ運ぶことはできないけれど、自分には、故郷まで歩いてきた足がある。大地を踏みしめることのできるこの足は、広い世界をどこまでも歩いていくことができる……そのことに、彼は気がついたんだ。そうして、彼は長い旅に出たんだよ」
 彼は一体、どんな過去を抱いて今ここにいるのだろう。
 聞けるはずもなかった。聞いてはいけないような気がしていた。ヘルメス自身が明かそうとしない以上、それは抉ってはいけない。
 彼がオズウェルの一番深いところを抉ろうとしないように、オズウェルもまた、ヘルメスに対してはそのことを守らなければならないと無意識の内にそう思っていた。
 それは気づかないうちに決められていた、目に見えない約束事のようなものだ。オズウェルにとっては、ヘルメスの過去は自身の両親のことと同じだ。
「――先生は、いつまでこの島にいるつもりなんですか?」
 だからこそ、ヘルメスならば答えてくれると、そう思ったのかもしれない。オズウェルの口が無意識に紡ぎ出した問いかけに、ヘルメスはかすかに首を傾げながらも、さしたる間を置かずに答えた。
「オズウェルくんの精霊が孵るまでは、ここを離れるつもりはないよ」
 やはり、オズウェルが予想していた通りの言葉だった。ヘルメスも飽きるほど答えているだろうに、このやり取りそのものを楽しんでいるようで、嫌な顔一つ見せない。
 それは今までに何度も――それこそ、耳にたこができるほどに聞いていることであって、オズウェルも今更反論しようなどとは思っていないのだ。
 オズウェルの問いには、別の意図があった。
「……先生、先生にだって、大切な人はいるでしょう? 親とか、年の離れた弟……さんとか、友達とか……先生の帰りを待っている人が。先生の友達のあの人だって、あなたが生きていると知ってあんなに驚いていた。死んだと思っていたと、そう言っていましたよね?」
 オズウェルにとって、家族同然でもあるシアやティナ、ジェイド、そして同胞である《時渡りの民》たち――彼らは、オズウェルが生まれた時からオズウェルの側にあって、彼の成長を見守ってきた。両腕では抱えきれないほどの心配をかけた自覚も、オズウェルにはたっぷりとある。
 現に今だってそうなのだ。唯一精霊の《卵》が孵らない、幼き《時渡りの民》を、同じ精霊と共に生きる彼らが心配しないはずはない。
「先生がこの島に来て、二年経ちました。二年はあっという間だけど、過ぎ去るまでは、とても長い。それだけ長い間、先生がどこにいるかもわからないなら、先生が生きているかどうかだってその人たちにはわからないんだ。だから、先生のことをとても心配していると思うんです。先生は、その人たちを安心させてあげようとは……思いませんか?」
「……そうか。オズウェルくんには、まだ、きちんと話していなかったね」
 ヘルメスは肩を落とし、息をついた。憂いを宿すその横顔に、オズウェルは内心、首を傾げる。
 オズウェルは彼を責めたりするつもりもなく――ただ心配していただけだったのだ。彼を心配しているだろうその人たちのことを、そして、その人たちにおそらくは心配をかけているだろうという彼自身を、心配していただけだったのだ。
 帰るための方法はあるし、ヘルメスの身を案じているはずの人々に無事を知らせてから、また改めてこの島に戻ってくるということも、老ベルメールに頼みさえすればいくらでも融通がきくだろう。彼女を始め、この島の者たちはそれこそオズウェル以上に彼を歓迎しているのだから、彼の頼みを聞かないはずはない。
 確かにその間にオズウェルの精霊が孵ってしまう可能性もないとは言いきれないから、ヘルメスがただ一時でも島を離れることを渋る気持ちもわからなくはない。けれど、それとこれとは――少なくとも、オズウェルにとっては別の問題だ。
 オズウェルは今までに、ヘルメス自身のことを本当に何も聞いていないのだという事実に突き当たった。彼が進んで語り始めるのは決まって、彼がこれまでの人生の中で見聞きした世界のことや古い歴史や、様々な神話や伝説の話ばかりで、彼は決して、彼自身のことを語ったりはしなかった。
 彼を想う人のことを、なぜヘルメスは口にしなかったのだろう。彼の故郷のことを、なぜヘルメスは話そうとしなかったのだろう。
「確かに、私にも数少ないけれど、心を許せる友はいるよ。けれど、私の帰りを待つ家族や故郷は、もう、この世界のどこにもないんだ」
 オズウェルが聞きたかったのはそんな話ではなかった。オズウェルが予想し、期待していたのは、いつもと変わらない口調で返されるはずのヘルメスの答えだった。
 彼のような人を生み育てた人々ならば、オズウェルが知るこの島の大人たちのように、優しさに満ち溢れているはずだ。彼のような人が生まれた場所ならば、とても穏やかであたたかな場所に違いない。そんな、彼を取り巻く人々と故郷の話を、いつものように目を輝かせながら、あるいはどこか懐かしみながら――聞かせてくれると、そう信じていたのだ。
 ヘルメスは痛々しいほどに穏やかな笑みを浮かべたが、オズウェルは『先生』と呼ぶその人の、そんな悲しそうな顔を見たくて問いかけたのではなかった。
「……オズウェルくんが謝る必要も、そんな顔をする必要もないよ。ちゃんと話さなかった私が悪いんだ。……聞いて、くれるかい?」
 今にも喉から飛び出しそうだった謝罪の言葉を寸前で絡め取られ、オズウェルは己の浅はかさを心の底から悔やみながら、ただ黙って頷くことしかできなかった。
 破るつもりはなかったのだ。しかし、無意識の内の約束事をやはり無意識の内に破ってしまったのはオズウェルのほうだ。いわばヘルメスの心の傷を抉ってしまったようなもので、非は完全にこちらにあると言うのに、ヘルメスは気にするなと言う。
 そのほうが痛かった。ヘルメスはそんな人ではないとわかりきっていたが、いっそのこと、無神経な子だと責めて欲しかった。怒られて、嫌われてしまったほうがよっぽどよかった。オズウェルは頷くことしかできなくて、だから小さく頷いた。目の辺りが、とても熱かった。
「……私が生まれ育った街は、周囲を石の壁に囲まれていてね、城塞都市なんて名前もついていた。私の国は、私が生まれる前から他の国と戦っていたんだ。本格的な争いが始まったのは、私が十五歳になった年だったから……オズウェルくんはまだ生まれていなかったと思う。……それくらい、昔になる。どちらが先に始めようと言い出したのかは知らない。けれど、本当にきっかけは些細なものだったんだと思う。そうして、抜かなくて済むはずだった剣を、互いに抜いてしまったんだ」
 それはオズウェルの知らない世界で起こっていた、オズウェルの知らない戦争の話だった。
「戦争は終わるどころかますます激しくなって、何年も続いた。そうこうしているうちに、私は戦場へと連れて行かれた。私だけじゃない、私の友人たちや、多くの男の人が戦場に行った。故郷のために、国のために戦えるということはとても名誉なことでもあったから、私は胸を張って故郷を後にし、戦線に加わったんだ。初めて剣を握り、その使い方を覚えた。……人を殺すということも」
 今のオズウェルと同じくらいの年齢で、ヘルメスは戦争というものを体験したということになる。たくさんの人々が互いに殺し合いをする――それは、オズウェルのまったく知らない世界の話だ。
 オズウェルは両の手のひらをじっと見つめた。もし今、自分が彼と同じ立場に立たされたとして――彼と同じように、剣を握り、誰か――名前も顔も知らない誰かを、斬ることができるだろうか。できるはずなど、ない。
 けれど、ヘルメスはそれをしなければ、生きることができなかったのだ。
「戦場に赴いてから、さほど時間も経っていない頃だった。風の噂にね、私が生まれ育った街が、戦火に呑まれたと聞いたんだ。当然、信じることなんかできなかった。自分の目で確かめるまでは、事実をそうだと認めたくなかったんだ。だから、一刻でも早く故郷に戻りたかった。でも、一介の兵士にすぎなかった私にそれが許されるはずもなかった。国のために戦っているのに、そこから逃げ出そうものなら――すぐに味方も敵に変わる。生きていられたのは……そう、自分の目で本当のことを確かめなければという思いがあったからに他ならなかった」
 ヘルメスの横顔に、オズウェルはずっと目を向けていた。俯いたまま、戻れない過去に思いを飛ばす『先生』の眼差しは、心が泣き出してしまいそうなほどに穏やかだった。
「……そうして、それから戦争が終わるまでの五年間を、私たちは戦い続けた。一歩間違えれば死んでいたということも、何度もあった。死んでしまえば、きっと楽になっていただろうとも思う。けれど私は、生き延びることしか考えられなかった。どうにかしてここから帰らなければと、そればかりが念頭にあった。心のどこかで、故郷がなくなってしまったなんて嘘だと信じていたんだ。私は、もうこの世界に存在していないもののために、戦っていたんだよ。自分の目で確かめるまで、死ぬことなどできないと思っていた。だから、帰ってこれたんだと思う。皮肉なことだけれど」
「……先生が死んでしまうのは、嫌です」
 堪えきれず、オズウェルは呟いた。
「オズウェルくん?」
「……と、シア辺りなら言いそうだと思います」
 すぐに頭のどこかの冷静な部分が、要らない言葉を付け加える。オズウェルの本心だということを、ヘルメスは容易く見抜いたようだった。
「ありがとう。まあ……そんなこんなでしぶとく生き残った私は、何とかして故郷に戻ったんだ。あとは……話した通りだよ」
 彼の歌がとても悲しかった理由を、オズウェルは、ようやく理解した。けれど、あえて聞かなかった。聞いてもきっとはぐらかされるに決まっているし、聞いても聞かなくても、ヘルメスが今ここにいて、生きていることに変わりはないのだから。
「……そうして旅をするうちに、精霊の話を耳にした。外の世界では精霊の噂にも尾ひれや背びれ、あるいは翼まで生えているようでね、精霊譚と名のつく話は……大袈裟かもしれないけれど、世界樹の葉の数よりも多く存在しているかもしれない。その中にね、精霊は魂を呼ぶと、そんな話があったんだ。それなら、死者の魂を呼ぶことも可能なのではと……そう思って、私は精霊を探すことにしたんだよ。不純な動機だと思うだろう?」
「でも、それが先生の生きる理由になったんですよね? 生きるために必要なのは何かを求める心だって、ティナさんも言ってましたから、別に悪いことじゃないと思いますけど」
 どうしてこの人は、こんなにも自分を責めているのだろう。それがオズウェルの率直な思いだった。彼のせいで彼の故郷がなくなってしまったわけでもないのに、生きていることそのものが、この世界にいていいという何よりの証なのに、ヘルメスはそれ自体を悔いているようだった。
 大好きだった人たちにもう一度会えるかもしれないという、そんな望みを抱くことも、オズウェルは特に不純だとか悪いことだとは思わなかった。オズウェルにも、会えるならばもう一度会いたいという人はいるのだから。
「……オズウェルくんは、優しいね」
 その穏やかな笑みが、なぜだかとても痛かった。優しいのは自分ではなく先生のほうだと、そう思ったけれど言えなかった。
「私はね、嬉しいんだよ。オズウェルくんは、ちゃんと心を返してくれるから」
「……何ですか? それ」
「うん、形はどうあれ、ちゃんとオズウェルくんはオズウェルくんの……その時その時の素直な気持ちを返してくれている。無理に閉じ込めたり、歪めたりせず、ありのままの感情を返してくれる。言葉を投げる側としては、投げた言葉が返ってこない時ほど、寂しいことはないんだよ。それは、こちらの心が、届いていないということに他ならないからね」
「閉じ込めるとか、歪めるとかはわかりませんけれど、ぼくは思ったことをそのまま口にしてるだけです、先生……そろそろ戻りましょう。もう準備も終わっていると思いますし」
 頃合いを見計らって、オズウェルは立ち上がった。ヘルメスも何も言わずにただ頷くと、立ち上がってオズウェルの後に続く。ヘルメスが見せた嬉しそうな、あるいは照れているようなそんな笑みはあえて見ない振りをした。シアの家の扉が開くのもきっとすぐのことだろう。
 開いた窓の向こうからは、ティナとシア――二人の談笑の声と、ポルタの実の匂いが届いた。


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