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第四章 再会


3

 虫の知らせ、あるいは風の知らせ――どんなに綺麗な言葉で飾ろうとも、嫌な予感というものほど良く当たるのだとヘルメスは知っていた。そよ風が嵐になるように、小波が大波になるように、白い雲が灰色の雲になるように。
 島を渡る風はこんなにも優しく穏やかだというのに、心を満たしているのは言い知れぬ恐れ――そう、『嫌な予感』に他ならなかった。アドニスの言葉を聞いてからは、その嫌な予感が殊更大きなものになっている。
 ヘルメスは足を止め、両手で頬を抓ってから扉を開けた。その向こうに待つ人に、こんな沈鬱な表情を見せるわけにもいかない。
「あら先生、おかえりなさい。今日はお一人?」
 事情をわかっているはずのティナにそんな悪戯めかした言葉で迎えられ、ヘルメスは小さく肩を竦めながら笑った。
「いくら私がオズウェルくんの『追っかけ』でも、シアちゃんとのデートにまでついていくのは野暮というものでしょう」
 温められたメルルのミルクが入った器が、ヘルメスの前に差し出される。オズウェルの癖がうつったかのように器を両手で包み込むその姿を見て、ティナは口元に手を添えて笑った。その仕種に文字通りの疑問を覚えたらしく、ヘルメスは首を傾げる。
「先生って、とっても素敵な方だわって思って」
 ヘルメスの疑問に対してティナが答えをはぐらかす時の常套句の一つだ。しかも夫であるジェイドがいる時には決して口にしないのだから、それだけでも彼女はなかなかのやり手だ。ヘルメスはその度に彼女の言葉に感心してしまい、それ以上追求できなくなってしまうのである。
「駄目ですよ、ティナさん。望みがあると勘違いする男が現れてしまうかもしれませんから」
 そんなティナの言葉に対する、ヘルメスの常套句だ。他愛もない言葉のやり取り――その繰り返しの中に、些細な楽しみが眠っている。
 けれどやはり、どんなに取り繕っても繕いきれない不安が顔に出ているようだった。ティナが眉を寄せ、首を傾げるのを見て、ヘルメスは彼女の口から紡がれるであろう言葉を察した。
「どうしたんですか、先生?」
 予想通りのそれにヘルメスは小さく息をついて、意を決したように顔を上げる。
「……よくない噂を聞きました。ただの噂であればいいのですが」
「まあ。噂好きの先生にも、嫌な噂がおありなの?」
「ええ。ところが今回はそうやって笑えるような話ではなさそうです、ティナさん。私たちはとても愚かだ。幾度となく同じ過ちを繰り返しても、学び取れないものがあるのでしょう……人は。とても悲しいことです」
 その言葉の意図をティナが察してくれたのかどうかは、ヘルメスにはわからなかった。けれど、向けられた微笑みがどうしようもないくらいに優しくて、何度謝っても足りないような気持ちになる。謝ること自体に、意味が見出せなかったとしても。
「それでも人は、優しいんですよ。誰かに傷つけられても、それでも誰かに手を差し伸べずにはいられない……先生のお言葉ですからね、お忘れにならないで?」
 かつて口にした『自分の言葉』が細く鋭い針のように、ヘルメスの心に刺さる。
「――『我々』は、またあなたがたを傷つけてしまうでしょう。それも、とてもひどいやりかたで……また、誰かが死ぬかもしれません」
 この島は幾度となく襲われてきた。それも、他でもない、同じ人間の手によって。
 それほどまでに、力を持たぬ人間にとって精霊の力は大きいのだ。命を賭しても手に入れたいと、そう思ってしまうのだ。
 考えてみれば、それはとても皮肉なことだろう。彼らは――《時渡りの民》たちは、世界を護るよりも先に、同じ人の手から自らの身を護らなければならないのだから。
「母……我らがベルメールも申しておりました。間もなく大きな嵐がやってくるだろうと。彼女の言葉は即ち精霊たちの言葉。それが祝福であれ警告であれ、私たちにとっては絶対なんです。……たとえ、空があんなにも晴れていても」
 たとえ、彼らと同じ人間たちがもたらした『嵐』に飲み込まれようとも、それが精霊の意思ならば――彼らは従うのだろう。精霊が彼らを必要としなくなった時、あるいは、精霊がこの世界に見切りをつけた時。訪れるであろう《時渡りの民》の終焉は、即ち世界そのものの終焉なのかもしれない。
 あるいは、その時、精霊のいなくなった新しい世界が始まるのかもしれない。
 なぜ人は、世界の美しさに気づくことができないまま、その世界を壊してしまおうとするのだろう。
 ――気づくことができないからこそ、世界を壊すことができるのだろうか。
 窓の外に見える空は悲しくなってしまうくらいに穏やかで優しくて、ヘルメスはそれがいつまでも続くようにと願わずにはいられなかった。


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