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第四章 再会


2

 通い慣れた道を一人、ティルトは歩いていた。一歩進む度に吹く風になで付けられる感覚も、鼻腔を擽る潮の匂いも、どちらもティルトにとっては心躍らせる存在と言っても過言ではなかった。
 今頃世界樹の下では、さぞかし賑やかに宴の準備が進められていることだろう。ティルトはあえて、こっそりと逃げ出すことでその輪に入るのを拒んだ。
 仲間のそれならともかくよそ者の来訪記念など、オズウェルではないが心から祝える気分にはとてもなれないし、何よりも今の彼には、考えることが多すぎた。作業に集中して気を紛らわせることができるほど、器用ではないとの自覚はあった。下手をすれば、木のテーブルや椅子にルザが火をつけてしまうかもしれないと、そんなどうでもいい懸念まで燻る始末だった。
 オズウェルがよく世界樹の元へ足を運ぶように、ティルトは船が出る海辺によく足を運ぶ。
 広大な水面の向こうに、ティルトが求める世界が広がっている。追いかけたいその人がいる、果てのない世界が。まだ見ぬそれらに憧れを飛ばし、思いを馳せること――それはいつしか、ティルトにとってささやかな儀式になっていた。
 いないはずの兄の面影を、どうしても探してしまう自分がいる。どこにいるのかさえわからないのに、そのうちひょっこりと帰ってくるのではないかとさえ思ってしまう。
 世界を回るよりも、この島のほうがずっといいとか、そんなことを言いながら笑うかもしれない兄の姿を、しかし、ティルトは望んではいなかった。
 兄はそんな人ではない。兄は志半ばにして諦めてしまうような人ではなく、やると決めたら梃子でも動かない人なのだ。
 途方もない夢を抱いて飛び出していってしまった彼は、きっともうこの島には戻らないだろう。広く大きな世界のどこかに、骨を埋めるつもりに違いない。
 そんな兄だからこそ、成長した自分の姿を見てもらいたい。見せることが叶わなかった精霊の顔を、見せてやりたい。もしかしたら彼の背を超えているかもしれないのだ。そうだとしたら、兄はどんな顔をするだろう。よく頑張ったなと、笑ってくれるだろうか。
 確固たる信念のようにティルトの心の奥深くに根ざすそれは、崇拝にも似ていた。
 けれど、島の外に出るための最初の扉を開けないでいるのは、何もオズウェルだけではない。
 今のティルトが島の外に出られないのは、《時渡りの民》の掟のせいだ。同じ星の下に生まれた同胞――オズウェルの《卵》が還るまでは、たとえスヴェンが担っているような物資の調達という役目であっても、ティルトが携わることはできない。
「くっそ……!」
 苛立たしげに砂を蹴りつけたところで、目の前にわだかまる問題まで遠くに飛ばすことができるわけではない。
 オズウェルの《卵》が孵らないのは、オズウェル自身の問題だ。そこに、ティルトが介入できる余地はない。
 だからこそ、苛立ちは収まることを知らないまま、膨らんでいくばかりだった。やり場のないこの気持ちを向けられる場所を、ティルトは知らない。
 歩いていれば、やがて海が見えてくる。ティルトにとって潮の香りが満ちる浜辺は、誰もいないからこそ心を落ち着けられる場所でもあった。ラスフィルが船を出す時、そして帰ってくる時――それ以外にここに訪れる人は滅多にいないのだ。
 この浜辺に降り立つ者がいるとすれば、それはほとんど外の人間だ。
「……誰だ……?」
 けれど、その人はそこにいた。初めからそこにいたかのように、彼は立っていた。ティルトは目を凝らし、その人を見つめた。
 その向こうの海に、巨大な船が浮かんでいた。
 しかし、ティルトは『巨大な船』というものを見たことがなかったので、海の上に浮かぶそれが『船』であるということに、気づけなかった。
 頭の中に次々に浮かび上がる疑問が形を成すよりも先に、浜辺に立ち、辺りを見回していた人影が、ゆっくりと足を踏み出した。ティルトはその人が誰だかすぐにわかった――ような気がした。
「兄貴……!?」
 そう叫ぶや否や、ティルトは走り出していた。
 赤銅色の髪と瞳、日に焼けた肌。ティルトの記憶の中にいる青年とさほど変わりのない、ただひたすらに会いたいと願っていた兄に間違いなかった。血を分けた兄という人を見間違えるはずもなかったし、何より彼の傍らにいる小さな精霊の姿を忘れるはずもなかった。
 夢かと思った。夢でもいいとさえ。けれどどうやら幻ではない。透けて見えるわけでもなければ彼はこちらに気づいたようだったから。
「ティルト」
 自身の名を紡いだ声色も覚えているそれに違いなかったけれど、ティルトはその時、とても重大なことを見落としていた。
 兄の表情に、己が持つそれと同色の瞳に、彼が島を出たあの日までは確かに持っていたはずの輝きがひとかけらも残っていなかった、そのことを見落としてしまっていた。
 だからカーディルがその手に一振りの剣を握り締めていたことにも気づかなかったし、
「……すまない」
「――な……っ!」
 その謝罪の言葉に込められた意味すら、理解することができなかった。
 首を傾げるよりも先に、体中を駆け抜けた鈍い痛みに心が悲鳴を上げて――ティルトは夢よりも遠い場所へとその意識を飛ばしていた。


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