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第 三 章  祈 り と 願 い の 果 て


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「どうだ?」
「……おいしい」
「だろう?」
 得意げに細められるクロノスの目に、フィレアは渋々ながらも小さく頷いた。
「紅茶は……ライプニッツでいいか? ユークリッドとかラプラスも一応あるにはあるんだが」
 クロノスの口から何気なく紡がれた単語の意味を、理解するまでに数秒要した。
 何と言うことはない、ただの紅茶の銘柄だ。だが、彼の口がそれを発するのが、フィレアの頭の中にはまるでなかった。
「……あんたが紅茶を淹れる姿が想像できなかったから、そこまで考えてなかった。……お砂糖があるなら、別に、どれでも」
 正直な話、フィレアは紅茶の銘柄まで詳しく知らなかったし、紅茶そのものに対するこだわりも特に持ち合わせていなかった。彼女にとっての紅茶は、どれも砂糖を入れて飲んでしまえば同じだったからだ。
「じゃあ、ライプニッツにするか」
 クロノスは再び立ち上がると、やはり慣れた手つきで紅茶を淹れ始めた。彼が使っている茶器などはフィレアには見覚えのないものだったので、おそらくは、彼がどこかから仕入れてきたものなのだろうと見当をつける。もしかしたら、フィレアが知らないだけで、もともとこの家にあったものなのかもしれないが、そこまではわからなかった。
 やがて先程のスープと同じように、湯気の立つ紅茶のカップがフィレアの前に置かれる。
「……ありがとう」
 用意されていた砂糖を入れてさっとかき混ぜ、甘い香りを吸い込んだ。
 思えば、こうやってゆっくりと茶を飲むのも、久しぶりだった。
 クロノスもまた、フィレアと同じように自身の紅茶に砂糖を入れてかき混ぜている。
「――あのね」
 その様子を見つめながら、唐突にフィレアは口を開いた。
「どうした? 目玉焼きのほうが好みだったか?」
 不意に零れた小さな呟きに、クロノスはカップを受け皿に置き、少々姿勢を正した。正したと言っても組んでいた足を解いただけで、座る姿勢そのものはふんぞり返っているように見えなくもない。加えて、聞き返す言葉そのものはやはり、どこかからかうような響きを伴っていたが――ためらいがちに向けられた彼女の眼差しそのものは、正面からやんわりと受け止めていた。
「違う。父の部屋も、まだそのまま残ってるの?」
「……ああ。掃除はしてるけど、基本的にはそのまま……のはずだ」
「そう。……身体の調子は?」
 見たところ、クロノスの様子はこれまでと何ら変わりないように見えた。そう見えただけで、実際は違うのかもしれないが、きっと彼はそれをフィレアには悟らせまいとするだろうという確信に似たものはあった。
 それが見抜かれたと思ったのか、クロノスは小さく肩を竦めて笑う。
「何とかな。昨日も言ったとおり、お前の魔力を少し借りてる」
「……やっぱり、そうなんだ。あたしはいつもどおりだけど」
「まあ、気づかなくてもおかしくないくらいのわずかな量だろうからな。……どうする? アイリスの花を見に行くって言うんなら、付き合うぞ」
 フィレアは少し考えてから、そっと首を横に振る。
「……いいわ。……花を見に行っても、あの子に会えるわけでもないし。……持って帰ってきても、見せたい人は、もういないから」
「――そうか」
 クロノスが浮かべたかすかな笑みに、フィレアは怪訝そうに眉を寄せてから、ふと息をついた。
「……だからどうして、あんたが寂しそうな顔をするの?」
 浮かび上がった純粋な疑問。それをそのまま口にして、それから、まるで幼子にでもするように彼の頭を軽く撫ぜようとする。
 クロノスは拒む様子もなく、ゆるく目を伏せてフィレアの手を受け入れた。
 青年の、青銀色の髪は、フィレアが想像していたよりもずっとやわらかな感触だった。
「……お前が寂しそうな顔をしているように見えたから、かな」
 くすぐったそうに息を吐き出し、そして唐突にこんなことを言う。
 なぜだろう。
 フィレアの中に、また疑問のような気持ちが浮かんだ。
 彼と過ごした時間はそう長くはないが、その中でも、すでに多くの不思議がフィレアの心の中に刻まれていた。
「……あたしが?」
「ああ。お前が」
「だって、会えないんだから仕方ないじゃない」
「それでも、会いたいんだろ?」
「…………」
 まっすぐに向けられる眼差しと声に、フィレアはすぐに答えられなかった。
 答えは問われずとも、最初から決まっている。
 会いたくないと言えば、それは嘘になる。
 それなのに、そうと答えることができなかった。
「……だって」
 フィレアは、彼の髪を梳いていた手を、力なく落とし握り締める。
 その華奢な手を、クロノスの大きな手がそっと包み込んだ。
 俯きかけた視線が、弾かれるように跳ね上がる。
 視線が重なった。
「会えないと決まったわけじゃないだろう、フィレア」
 クロノスの語調は決して強いわけではない。諭すような、言い聞かせるようなそれだ。
「――だって、どこにもいない」
 だが、なぜかそうではないと強く断言された気持ちになって、フィレアの口から答えとして出てきたのは、まるで幼い子供が言い訳でもしているかのような言葉と声だった。
 クロノスの、髪と同じ青銀色の瞳が、まっすぐにフィレアの金色のそれをとらえる。
 空を彩る《旅人の星レーナ・ティーラ》にも似たその色に、吸い込まれるように、引き寄せられてしまう。
「それじゃあ、俺は何だ?」
 重ねられた手に、力が込められるのを感じた。
「……え……?」
 それは、ひどく抽象的な問いかけだった。
 だからこそ、すぐに答えることができなかった。
 彼は――クロノスは、一体何なのだろう。何者なのだろう。
 精霊に似た存在で、フィレアと契約をするために彼女を探していたという、彼は。
 フィレアの父クロイツと、『フィレアを護る』という契約を交わした、彼は――
「……どうして」
 どうして、彼なのだろう。
 ――どうして、彼だったのだろう。
 フィレアはまだ、その答えを知らない。
 知っているだろう彼は、まだ、フィレアにその答えを与えてくれていない。
「あんた……は……、……何……?」
 もしかしたら。――もしかしなくとも。
 探している答えの一つは、とても身近なところにあるのかもしれない。あったのかもしれない。ずっと。
 それが『きっとあるのだろう』という、半ば確信に似た思いに変わるより先に、クロノスの手が離れた。
「……親父さんの部屋に行こうか。――このままじゃあ、お前を抱き締めたくてもできねえから」
 向かい合わせに座っているテーブルから立ち上がり、クロノスは何事もなかったかのように肩を竦めて笑った。
 答えは手を伸ばせば届くところにあるのに、この状況では答え合わせすら満足にできないと言ったのだ。
 喉から出かかった声が、うまく言葉を宿してくれない。
 思い込みでも構わなかった。そうだと、間違いないと思いたかった。
 でも、違っていたらどうしようというわずかな迷いが、容易くその願いを否定する。
 フィレアは、もどかしさに喘ぐように息をついた。
 クロノスはこうやってフィレアの心を焦らしながら、やはりどこかへ連れていこうとしている。
 フィレアが知らないことの多くを、クロノスは知っている。
 それをフィレアが知りたいと思っていることも、もちろん、彼は知っている。
「……っ、ばか!」
 辛うじてフィレアに言えたのは、その一言だけだった。



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