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第 三 章  祈 り と 願 い の 果 て


3

 父であるクロイツの書斎部屋は、ダイニングルームをさらに過ぎた先、一階の一番奥にある。
 フィレアの部屋に鍵がかかっていなかったように、クロイツの部屋にも鍵はかかっていないようだった。
「…………」
 残されているのは足跡だけで、部屋の主はすでにない。扉の向こうには誰もいない。
 その場に佇んだまま、フィレアは父の背中を思い描く。
 憧れであり、目標でもあった人。けれど、決して追いつけないのではないかと思ってしまうくらいの、強さを持っていた人――顔と声が以前よりははっきりとした輪郭を伴って思い出せたので、内心ほっとする。
 それなのに、取っ手を握り締めた手が震えてしまうのを感じていた。緊張しているのが嫌でもわかった。
「べつに化け物が潜んでるわけでもねえし、緊張する必要も」
「――心の準備ってもんが必要なの!」
 何度目か、同じように繰り返される、緊張感の欠片も感じられないクロノスの言葉。
 それをフィレアは少々上ずった強い口調で遮り、亡き父の部屋へと続く扉を力任せに開いた。

 扉を開いてまず目に入るのが、正面の窓とその手前に置かれている机だ。
 ぐるりと視線をめぐらせれば、床から天井まで届きそうな本棚が壁面を覆っているのが見える。
 言うまでもなく、どの棚にも本がぎっしりと詰め込まれていて、そのほとんどはフィレアが読んだことのないものだった。
 そして、本棚に収まりきらなかった本や大判の雑誌、古新聞の束などが、そのまま床の上に無造作に積み上げられている。
「考えてみれば……これだけの本と本棚、どこから持ち込んだのかしらって話だけど。さすがに本棚は元からあったんでしょうね」
 ここもおそらく、クロノスの手によってととのえられたのだろう。立ち込める古い紙とインクの匂いは独特のものであったが、フィレアはそれを、特に嫌だとは思わなかった。
 やはり、どこか懐かしい――そんな匂いだった。
「……よくこんなにもそのまま、残っていたわね。虫にも食べられてないみたいだし」
 部屋の中を歩き回り、時折本を手に取りながら、フィレアはしみじみと呟いた。場所がよいのか、それとも保存方法がよかったのか――ともあれ、短いとは言えない年月を経た割には、本はそれほど傷んでいるようにも見えなかった。
 まるでこの部屋までも、フィレアの記憶に残るあの頃から時間が止まっているようだった。
「ま、場所が場所だからな……たったこれだけの本のためにわざわざここまで足を運ぶ物盗りは……そうそういねえだろ?」
「荒らされてはいなかった? ……父さんは、大勢の大人が来るからって、あたしを追い出したの」
「……ああ、少しな。でも、全部をひっくり返されたわけじゃあなかった。その大人とやらは、ここにいるのがクロイツ一人だと信じて疑っていなかったんだろう。ましてや、子供がいるなんて考えもしなかったんだろうな」
 クロノスの声を聞きながら、フィレアは並ぶ本の背表紙を流すように追いかける。たったこれだけという言葉の割には、この部屋の中にある本だけでも数百冊は軽い。千の単位にはさすがに及ばないだろうが、ここにある本をすべて読み切るには、結構な時間がかかりそうだった。
「ねえ、父が書いてた日記とか、残ってない? 手紙でもいい。何か、筆跡がわかるようなもの」
「筆跡? ……ああ、自分の目で確かめたいの、ってか」
 どうやら、クロノスはフィレアの意図をすぐに察したらしい。頷いてまっすぐに机の方へと向かうと、そこから軽くフィレアを手招いた。フィレアは何かを期待するような眼差しを向けながら、すぐに歩み寄る。
 クロノスが開けた引き出しの中に、一冊の日記帳がひっそりと置かれていた。もとからここにあったと言うよりは、掃除のついでにここにしまっておいてくれたと考えたほうがしっくりと来る気がするが――ともかくも、フィレアは促されるままそれにそっと手を触れて、壊れ物を扱うような手つきで持ち上げた。
 考えてみれば、これこそよく『大勢の大人』に持ち出されなかったものだなと感心さえする。
「……残ってたのね」
「隠してあったんだ。本の山の中に紛れ込ませてあっただけだがな。……日記を隠すには本の中ってやつだ」
 確かにそうかもしれないと、クロノスの言葉にあっさり納得してしまう。薄汚れた赤い表紙を開くと、その裏側の隅に、フィレアが想像していたとおりの角張った流麗な文字で、父であるクロイツ・C・ターンゲリの名前が記されていた。
「……本当に、あの人が書いたんだ」
「同じだろ? あの手紙は、間違いなくお前の親父さんが書いたものなんだよ」
 確かな証拠を目の前にすれば、疑問ばかりが次から次へとあふれ出る。視線は手の中にある日記帳に落としたまま、フィレアは反論の言葉も口にできなかった。見れば見るほど、彼女に宛てられたあの手紙の筆跡とまったく同じような字が並んでいるばかりである。

 鳥獣の月 十五日

 早朝。召喚の儀を行う。
 手応えは感じた。だが、想定していたのとは違う場所に現れてしまったらしく、その姿を確認することは叶わなかった。
 フィレアがアイリスの花を取りに行くと言って家を出て行ったが、花の代わりに宝玉のような石を見せてくれた。
 石からは微弱な魔力を感じる。
 天使のような少年がくれたと、彼女は言っていた。
 私たち以外の存在がこの近辺にあったということをフィレアはひどく気にしていたようだが、もしかしたら、彼女が会った少年こそが、そうなのかもしれない。

「……これ、あの時のことだわ」
 傍らで同じように日記をのぞきこんでいたクロノスが、納得したように頷く。
 フィレアはさらに頁をめくった。

 炎樹の月 三日

 結界が破られた気配を感じる。
 とうとう、この場所が知られてしまったようだ。
 私でももはや抑えきれないこの力を、察知されてしまったのかもしれない。
 正気を保てている内に、フィレアをここから逃がすことにした。
 本当はこの日記も処分するべきなのだろうが、彼女に残せるものがこれくらいしかないことに今更ながらに気づいたので、せめて見つからないように隠しておこうと思う。

 外に出られさえすれば、彼女を助ける手は必ずあるだろう。
 それを、信じるしかない。

 フィレア。愛しい娘。
 きみの行く末を見守ることができない愚かな父を、許して欲しいとは言わない。
 きみは、どうか幸せに。

「……あたしが家を出た日のこと……?」
 フィレア自身も正確な日付を覚えていなかった日のことが、父の手によって記録されていた。
 はやる気持ちを抑えながら、フィレアは、さらに頁をめくった。

 想夢の月 十二日

 フィレアは元気にしているだろうか。
 花は、咲いただろうか。

 私は、いつまでこうしていられるのだろうか。

 本棚に並べられている本よりは薄いものの、それでも十分な厚さを持ったその日記帳の、真ん中よりも少しばかり後のページ。
 書かれていたのは、たったの三行。父の足跡は、そこで途切れていた。



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