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ウィンディアの風が止んだのは、ミーナス・クオンが十八歳の誕生日を迎えた朝のことだった。 それは本当に一瞬の――それこそ、瞬きを数度繰り返している間に始まり、終わってしまうような出来事だったが、そんな僅かな間であっても――彼らが生まれた瞬間から側にあった風との繋がりを絶たれたことで、風と共に生きるウィンディアの民の間には大きな困惑と動揺、そして不安と畏れが突風のように吹き抜けた。 《風の集う場所》、《風の生まれる処》、《風の聖域》――ドラグール大陸の西方に位置する広大な森《ウィンディア》の呼び名は様々であるが、その由来はどれも同じだ。 すなわち、世界を巡る風はこの地より生まれ、この地に還るという――ウィンディアの地そのものが持つ意味、あるいは本質。 これは、フィルタリアという世界における理の一つでもある。 『理』は、決して揺らぐはずのない定め、いわば世界の礎のようなものだ。その理に当てはめるのならば――ただ一瞬の出来事だったとしても――風が止むということ自体があってはならないものだった。 それは淀みなく流れているはずの時間の中に綻びが生じたということ以外の何物でもなく、これから世界に降りかかるであろう災厄の前兆に他ならなかった。 決して止むはずのない風が止んだ――このような不測の事態に、ウィンディアの民は口を揃えてこう言った。 ――歴史が繰り返されるのだと。 *
その日は朝からよく晴れていた。風が運ぶのは間もなく世界を彩るであろう花の匂いで、まさに彼女を祝福するかのような、穏やかな陽気だった。 「……気をつけてね、ミーナスちゃん。風がいつもよりも落ち着きがないように感じるわ……危ないと思ったら、それ以上の無理はしないで」 ところが、そんな穏やかな陽気に身を任せていられないといったような、憂いを帯びた声音が響く。 「心配するのはわかるけど、そんなに心配しなくても大丈夫よ。……第一、母さんだって成人の儀式やったでしょ?」 靴の紐を結び、踵で床を叩いて調子を確かめてから、着替えるために結い上げていた深緑色の髪を解いてミーナスは立ち上がった。傷一つない新品の肩当てから滑るように流れるそれを軽く後ろに払い、今度は壁に立てかけてあった一振りの剣を腰に差す。 鞘にも柄にも細かな細工が施されているそれは、ミーナスの父デュランダルが今日のこの日のためにと用意させた特注の品だ。父の親友であり、ウィンディアのすぐ側に位置する、竜王国の王都リュイン――城下でも名の知られた、王宮お抱えの鍛冶師アルニージョ・カルサが自ら鍛え上げた一振りである。 五本の指に入る会心の作だと彼自身も胸を張ったその白銀の剣に、“風を纏いし者”という銘を与えたのはデュランダルだ。鞘には“ミーナス・クオン”と彼女の名前も刻まれており、正真正銘、この世界でたった一振りの彼女の剣というわけである。 「それは確かにそうだけど、でも、やっぱり母さんは心配よ? だって、可愛いミーナスちゃんが危険な目に遭うかもしれないことに……変わりはないんですからね」 「……母さん、心配するほど危険な目に遭ったの? ……精霊ってそんなに凶暴なんだ?」 何気なく投げかけられた問いに言葉を詰まらせる母を、外に広がる空と同じ色の瞳でちらりと見やってから、ミーナスはクローゼットから白いマントを取り出した。剣や肩当てと同じく真新しいそれは、エルウァの糸を用いて織られた、母ユノアールお手製の物だ。練習の甲斐もあって、慣れた手つきでそれを羽織る。赤い宝石がはめ込まれ、羽のような細工が施された銀の止め具もまた、この日のために用意された物だ。 「母さんの 着々と準備を整えるミーナスの姿を見つめながら、母――ユノアールは、きゅっと両手を握り締めた。琥珀の瞳は床の方を向き、娘のそれと同じ色合いの髪もはらりとこぼれ落ちる。 娘に対する“可愛い”は常套句だとしても、娘の身を案じる様子に常よりも――ミーナスが大袈裟ではないかとさえ思ってしまうくらいに拍車がかかっているようだった。ミーナスは怪訝そうに眉を寄せ、母の元へと歩み寄る。 「……大丈夫よ、母さん。怪我には慣れてるし、そのための準備をしてるんだから。それに、私は母さんと父さんの娘ですもの。母さんだって乗り越えてきたことなんだから……ね?」 並んで立つと、ミーナスのほうがわずかに背が高い。『背の高さは父さんに似て欲しいわ』と、母は口癖のように言っていた。要は自分より背が高くなって欲しいというだけのことで、しかもミーナスがもっとずっと幼い頃の話であるが、その願いが叶ったのはほんの数年前である。記憶の淵で疼いた思い出を吟味するような間を置いてから、ミーナスはそっと身を屈めてユノアールの顔を覗き込んだ。娘の眼差しに何を思ったのか、ユノアールは何度も大きく頷いて――少しだけ寂しそうに笑う。 「うん、わかってる。わかってるんだけど……ミーナスちゃんも大きくなったなって……思って」 どこかで通じ合っていた部分があったらしいことには、さすが親子だとでも言うべきだろう。似ているのは顔だけではない。思考回路もまた然りだ。 母の言葉にミーナスはきょとんと目を瞬かせ、それから、小さく息をついた。それほどまでに、今日という日はユノアールにとって特別な日なのだ。無論、誰よりもミーナスにとってそうなのであるが。 「そりゃあもう十八ですから……いつまでも子供でいるわけにはいかないし。……寂しい?」 「寂しいのは否定しないけれど、でも、嬉しい方が大きいのは本当よ?」 親心というのはミーナスにはまだわからないが、案外こういうものなのかもしれない。そんな考えが、ふとミーナスの頭を過ぎる。 「――ミーナス、そろそろ時間だぞー」 ユノアールが娘と瓜二つの顔で微笑むのと同時に響いたのは、階下からミーナスを呼ぶ兄ペミナーラの声だった。 「はーい、兄さん、すぐ行くから!」 階下へと身を乗り出すように言い返してから、ミーナスは側に立つ母のほうに向き直り、姿勢を正す。言わなければならない言葉があった。それを言うために。 「行ってきます、母さん」 「……ええ、行ってらっしゃい、ミーナスちゃん。彼の方とミーナスちゃんの精霊さんに、宜しくね?」 しっかりとした声で告げられた言葉に、ユノアールはしっかりと頷いてみせた。階段を下りていく――昨日までと比べてずっと大人びて見える娘の背中を見送りながら、ふと込み上げてきた寂しさをかき消すように首を左右に振る。 開け放たれたままの窓からは、柔らかい日差しと常と変わらない穏やかな風が入り込んでくる。 ざわざわと木々の梢を優しく揺らす、ウィンディアの風。舞う羽のようにそっと頬を撫でていく彼らはとても好きだけれど、埃も一緒に連れてきてしまうのが玉に瑕だ。 ユノアールは部屋の主に代わってその窓を閉めると、ゆっくりとした足取りで娘の部屋を後にした。 (……ミーナスちゃんの目、貴方にそっくりよ? ……デュランダル) 階下にいるはずのその人の顔を思い浮かべながら、自然と、安堵にも似た息がこぼれるのを感じる。 (大丈夫。ミーナスちゃんなら、きっと大丈夫。だって……私達の自慢の娘ですもの) ユノアールは自身の胸の内に強く言い聞かせ、ミーナスの後を追った。耳に届く談笑の声に、人知れず胸を撫で下ろす。 何も心配することはない。彼女は無事に成人の儀式を終えて、必ずこの家へと帰ってくる。それだけのことだ。 夕飯の支度をしながら、あるいは、夫や息子と彼女のことについて語らいながら――彼女の帰りを待っていればいい。彼女のためにできそうなことは、今はそれくらいしかない。 ならば、できることをやるしかないのだ。その後のことを考えるのは、それからでいい。 未来は――訪れるまで、誰にもわからないのだから。 階段を下りながら、ミーナスは自分を呼んだ声の主を探した。テーブルの側にあったその人影が、すぐに目に入る。 「お待たせ、兄さん。父さんも」 「おう、準備は完璧みたいだな。いつもより可愛いぞ、ミーナス。ああ、いや……もちろん、いつものミーナスも可愛いけどな」 項の辺りで一つに結ばれている長い金髪に、母譲りの琥珀の瞳を輝かせる兄ペミナーラは、現れた妹の姿にすっかり待ちかねたように声を上げ、立ち上がった。向かいに腰を下ろしていた父デュランダルもまた、ミーナスの出で立ちに感嘆にも似た息をついているのが見える。 「ありがと。でも、お世辞を言っても何も出ないわよ」 満足そうに歯を見せて笑う『自称妹馬鹿』の彼が妹を誉めるのは大概にしてよくあることなので、ミーナスもいつものように軽く流すだけである。 「お世辞なんかじゃないさ、俺はいつだって本当のことしか言わない。……はい、誕生日プレゼント」 大真面目な顔で彼がお決まりの台詞を言うのもまた、いつものことだ。そしていつものように小さく息をついたミーナスの眼前に、鈍い光を放つ細い銀の鎖が掲げられる。透明な雫型の石がついたそのペンダントを、ミーナスは両手で受け止めた。 「これは?」 透明な石は翳しても光を通しただけで、どんなに角度を変えてみても透明なままだった。とりあえず言われるままに鎖の繋ぎ目を外し、首からぶら下げる。その姿を見て、ペミナーラはますます満足そうに笑みを深くした。 「精霊石って言って、その名の通り、精霊が好きな石……と言われてる。愛はたっぷり込めてあるから、お守りのつもりでね」 「……ありがと。でも、そんなに愛を込めちゃって……リアさんに怒られても知らないわよ?」 ミーナスは茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せた兄を横目で一瞥すると、小さく肩を竦めてみせる。その――いつものと言えばいつものやり取りを見ていたらしい父が小さく吹き出す声が、耳の奥まで届いた。 「ミーナス、気分はどうだい? ……やはり、緊張してる?」 「うん……なんか、いよいよって感じよ、父さん。だって、いつもよりも深呼吸の回数が増えてるもの」 「……ミーナスらしいね。その調子なら大丈夫だろう」 穏やかに笑う父に、ミーナスは少しばかり恥ずかしそうに頬を赤くした。やはり、父には敵わない。 ミーナスの剣は、竜王国リュインの金竜騎士団を束ねる彼デュランダルや、同じく金竜騎士団に籍を置く兄ペミナーラ直々の手解きによるものだ。騎士としての父の姿を見て、ミーナスは物心ついた頃から木刀を握ってきた。ペミナーラもまたそうであった。母ユノアールだけは、娘であるミーナスには、自分がそうであるように神に仕える神官の職に就かせたかったようだったが、明朗闊達で活動的、外向的な性質のミーナスと相性が良かったのは剣の方であった。 時には若い男達に混ざって練習試合にも顔を出すことがあり、ミーナスの剣の腕前はそれなりだと言っても過言ではない。 「ミーナス、自分の力を最後まで信じるように。そうすれば、精霊は必ず君に心を開いてくれる。君にはそれだけの力がちゃんと備わっているのだから、不安に思う必要はない。堂々と臨んできなさい」 「――はい、父さん」 いつもと変わらない、力強さを感じさせてくれる父の声に、ミーナスはしっかりと頷いた。 「……ミーナス・クオンに、《 彼が剣と共に教えてくれた数々の言葉は、今でもしっかりと胸に刻まれている。 |