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「これより、成人の儀式を執り行う。ミーナス・クオン、前へ」 「――はい」 風の民の長であるヴァンフュールの厳かな声に応えて、ミーナスは一歩前へと踏み出した。 里の集会場でもある広場に集った老若男女数十名ほどの人々の中で、唯一彼女だけが軽度の鎧と白いマントで身を包み、腰に剣を差していた。 「ほう、まるで双天使の片割れのようじゃな、ミーナス。儂があと五十も若ければ、是非嫁にと考えたろうにのう」 今年で齢七十を数えるヴァンフュールはミーナスの姿を眺めやると、皺だらけの顔を更に皺くちゃにし、満足そうに喉を震わせた。彼なりの冗談を交えた最大限の世辞を、ミーナスは笑いながら軽く頭を垂れることで受ける。 「儀式と言っても、我々が祈りの言葉を捧げて終わりというわけではない。これからお主はこの――ウィンディアの森に一人で赴き、風の精霊と契約を交わさなければならぬ。その精霊の存在を以って、成人の儀式を為し終えたことの証明とするぞ」 ウィンディアの森はドラグール大陸のおよそ三分の一を覆うほどに広大であるが、風の民が住むウィンディアの里はとても小さな村だ。王都リュインから続く入り口にごく近い所に切り開かれたほんの僅かな領域に、およそ百人ほどが暮らしている。 風の民の大元の祖先は、一般的には尖った耳を持ち魔術に長けている精霊族と、人間の混血であると言われている。しかし、長い年月をかけて様々な血が混ざり合ってきたということもあり、今の時代に生きる彼らの耳は全く尖っていない。外見自体、あるいは体内に流れているはずの精霊族の血も薄れ、人間のそれに等しいと言っても過言ではないのだ。 それにもかかわらず、風の民は風の精霊と友好的な関係にある。精霊と人間との間に結ばれるのは“契約”であり、それには相応の代価である高い魔力が必要とされているが、ウィンディアの民の場合には――風の精霊との契約の場合に限り、その代価を必要としないのだ。 ウィンディアの風は彼らを拒むことなく受け入れ、彼らもまた、風と共に在ろうとすることを願う。遥か遠い昔から当たり前のように築き上げられてきた礎は、今も変わらず彼らの関係を根底から支えている。 その最たる顕れが、ウィンディアの民の成人の儀式だ。 成人の儀式は、生まれた子供が十八歳の誕生日を迎えたその日に行われる。儀式を間近に控えた若者は、一週間前から肉や魚など、血の通った物を口にすることができなくなり、菜食中心の食事と一緒にバラム酒を飲む。バラムの木はウィンディアの森に自生しており、葡萄に似て、淡緑色の丸い実を一つの房にいくつもつけるのが特徴だ。確証こそ未だにないものの、育つ場所が場所だけに、風の精霊が好むという言い伝えもある。 そして、前の晩に里の奥にあるリラの泉で身を清め、天球の光が消えると同時に床に就くのだ。朝は天球の光が輝き始めるのと同時に起床し、儀式に先立って用意された武具を身に着けるのである。 「ミーナス・クオン……準備はよいな? では――幸運と自由なる風の微笑みを。……ま、夜までに帰ってこなかったら探しに行くでな、遭難する心配はせんでええ。気楽にやって来い」 茶目っ気たっぷりに投げつけられた言葉に些か肩の力を抜かれながら、開かれた小さな門――森の奥へと続く道へ、ミーナスは一歩踏み出した。 この先に続いているのは、普段の狩りや採取に向かうための道ではない。風の民の手も及ばない、本当の意味での《風の聖域》だ。 行く先も定めずに辺りを吹いていた風が静かにその後を追い、あるいは深き森の奥へと彼女をいざなった。 *
鮮やかな木々の緑。どこまでも続く永劫回廊のような森。 一歩進むごとに異世界へと導かれているようだったが、ミーナスが歩いているその道は確かにどこかへと続いていた。 鬱蒼と生い茂る木々の葉の間から細く差し込む天球の光は心もとなく、辺りを満たす静寂の前では自身の足音すら意識せずとも聞こえてしまう。 足音だけではない。どこかに身を潜めて彼女の姿を見ている獣の息遣いまでもが、ともすれば聞こえてくるようだった。 ミーナスの他に、人らしき人の気配はない。精霊の気配というのがどのようなものであるか、ミーナスにはまだわからない。ただ、木々の梢を揺らし彼女の頬を撫でる風が、穏やかに緩やかに吹き抜けているだけだ。 ふと足を止めたミーナスを、変わらず流れていく時間が追い越していった。前を見ても後ろを見ても彼女の爪先の向こうに道があって、同じような景色が続いているばかりだ。 彼女の帰りを待つ者達がいるはずの里の姿も、今はもう見えない。 今の彼女にとって憂慮すべき問題なのは、目的とする場所にいつ頃到着出来るのかということだった。ヴァンフュールのあの言葉から察するに、どんなに遠くても往復で半日程度の圏内にあることは間違いないのだろうが――そもそも、成人の儀式自体が“精霊と契約を交わす”という曖昧な中身である以上、目的地が一つしかないのかさえわからない。 加えて、ミーナスが歩いているこの道が目的地へと続いているのかどうかさえも不確かなのだ。 それでも、前に向かって歩き続けるしかなかった。後ろに続く道は、言うまでもなく帰るための道だ。だから、今はまだ振り返ってはいけない。 森に棲む風達が、同胞の血を引く彼女を出迎える。辺りの風は穏やかだが、どこか張り詰めているようにも感じた。 このままここにいたら、風と一つになれるような気がした。不意にそんなことを思う。 そんな考えに囚われている暇などなかったが、ミーナスの中に流れている血は、寧ろそれを望んでいることだろう。 遠い昔に忘れてしまったはずの記憶は、深い意識の奥底で今もなお生き続けている。風は、彼女を彼女の知らない世界へ連れて行こうとしていた。 「でも、駄目。一緒には行けない。私は風になれない」 けれども、今この場で風になることなどできない。彼女には果たさなければならないことがあり、彼女の帰りを待つ人がいて、帰るための場所がある。 風が還る場所とは別に、彼女自身が帰る家がある。ミーナスは深呼吸をすると、意を決したように大きく頷き、再び歩き出した。 「……っ、え……?」 その瞬間、言葉に出来ない何かが背中を駆け抜けた。同時に、言いようのない解放感と脱力感に襲われる。 咄嗟に辺りを見渡すが、目に見える何か――生き物が動いた様子はない。動いているのは風と遊ぶ森の木々の梢や、彼女を見上げる花や草だけだ。 逆に、目に見えない何かが襲いかかってくるということもなかった。息を殺してしばらくじっとしていたが、同じだった。 「もう……悪戯が過ぎるわね」 ――おそらくは精霊達に試されていたのだろう。困惑と安堵が入り混じったような表情で、ミーナスは小さく息をついた。ここは何もかもが未知の世界だ。もし彼らの誘惑に負けていたら、本当に風になっていたかもしれない。 こんなことがこの先何度か続くのかもしれないと思うと、必ずしも気分は晴れなかったが――それでも、この先に精霊はいると確信した。 そうして―― 「……小屋?」 森に入ってから約十分。抱いた不安は瞬きをする間もなく掻き消え、永遠に続くかと思われた緑の迷宮の終点とも思しき場所が、唐突にミーナスの前に現れた。 道の先には開けた場所があり、一軒の小屋が建っていた。木々の枝葉も手を伸ばしていないようで、空から差し込む光の量がぐっと増している。 周囲の森には静寂と人を寄せ付けない雰囲気が満ちているのに、その一帯にだけ――ミーナス達が住んでいるあの里のそれにも負けないほどの生活感が溢れていた。 「でも、何でこんな所に小屋があるの? ……誰かいるの?」 考えてみればあって然るべき光景だが、ミーナスはふと我に返った。何の変哲もない光景が、途端に違和感へと変わる。 ここはウィンディアの森だ。 一歩足を踏み入れれば、風の精霊の導きなしには出ることができない、そんな場所である。 食べられる実のなる木は至る所に生えているので、確かに食べる物には困らないだろう。けれど外部との交流が全く持てないと言っても過言ではない以上、お世辞にも住みやすい場所であるとは言えない。孤独を好むにしても、もっと相応しい場所は他にいくらでもある。 しかし目の前に現れたそれは、紛れもなく人の手によって造られた家だった。 家の側、そよそよと吹く風に揺れる洗濯物。人が腰を下ろせるような切り株が二つ並び、向かって右側の切り株の上には木で造られた器が鎮座している。さらにその器には、カラムの実のパンまで載せられているというおまけつきだ。切り株の向こう側に見える焚き火の跡は、おそらくパンを焼いていたそれだろう。 ミーナスは頭の中にぱっと浮かんだ疑問符を消し去る術も忘れて息を潜めた。今、彼女の目の前に広がる光景は、どう考えても昨日今日で創り上げられたようなものではない。 (……と言うことは……考えるまでもないわよね) 疑問符がじわじわと姿を変えた結論は一つしかなかった。間違いなくあの家には誰かが住んでいる。それも、ずっと昔から。 だが――風の民が住んでいるはずもないし、そもそも普通の人間であるならば精霊達に追い出されて終わりだろう。風の精霊の棲む場所であることから精霊族という可能性もあるが、大木の枝に家を作る彼らがわざわざこのような――大地に足をつけなければ生きて行けない場所に来てまで家を建てるとも考えにくい。有翼族や有角族は元よりこの大陸にはいないし、竜人族が住むのは深い洞窟の奥だ。 とにかく、誰かが住んでいるのならその理由を問うこともできるだろうと、そう思いながらミーナスはさらに歩を進める。 「……ようこそ、ミーナス? 良く来たね、待ってたよ」 その時、様々な方向へと飛んでいたミーナスの思考を一気に現実へと連れ戻したのは、頭上から降ってきた何とも呑気な声だった。 「……っ!」 直前まで全く気配を感じ取ることが出来なかった相手に対し、ミーナスは必要以上の驚きを顕わにしながら身を強張らせる。 「驚かないで。君を焼いて食べたりするつもりはないよ。火をつけるのには時間がかかっちゃうしね。それにしても今日はいい風だ。洗濯物もよく渇きそう」 逆光で表情までは見えなかったものの、軽く悪戯めいた声の主はどうやら青年らしいとわかる。ミーナスの視線の先――つまりは宙に浮かんで彼女を見下ろしていたが、降るように軽やかに着地するとそのままミーナスの方へ向き直り、穏やかな笑みを浮かべながら胸に手を当て軽く一礼をしてみせた。もう片方の手で抱えているのは――薪だ。 ミーナスは半ば呆気に取られたまま、青年の一挙一動を見守っていた。 「そんなに緊張しなくても大丈夫。怪しい者じゃない……と言っても説得力はないかもしれないけれど、君の母上や兄上や、大人達も皆、君と同じ年齢の時にそれぞれここに来ているからね。ヴァンフュールだって今ではうんとおじいちゃんだけど、若い頃は俺に負けないくらいハンサムだったんだよ?」 癖のある淡い緑の髪に、深い紫の瞳。全体的に渋い色合いの服装は、風の民が纏うようなエルウァ織のそれに近い物だ。この辺りでは見かけない細長く尖った耳は、精霊族のそれに似ている。 その正体についてあれこれと模索するミーナスを見やりながら、青年は矢継ぎ早に言葉を繋げた。 「ああ、顔立ちは母上に似ているけれど、よく見ると目元なんかが父上にそっくりだ。真っ直ぐな眼差しをしているね。……まずは誕生日おめでとう、ミーナス」 「どうして、私の名前を知ってるの?」 「それは簡単。風が教えてくれたんだよ……なんてね。えっと、成人の儀式で何をやるのか、それくらいは聞いている?」 初対面の相手に対し当然と言えば当然の疑問であったが、返された答えにミーナスは拍子抜けしてしまった。それでも、続いた問いかけにはしばしの間を置いてから、曖昧に首を傾げる。 「でも、精霊と契約を交わして来いとしか言われなかったの。あとは行けばわかるって……貴方が、その精霊?」 「なるほど、確かに間違っていないね。そう、これから君には、風の精霊と契約を交わしてもらうことになる。ああ、先に自己紹介。俺はフィアール・トゥルフール。七賢者の一人と言えば……わかるかな?」 「……は……?」 自分でも間の抜けた声だと、ミーナスは自覚していた。 ――わかるも何も、七賢者と言えば創造神ルヌラストの御使い――フィルタリアでは物心ついたばかりの子供でも知っている、神々の次に偉い存在である。 そのような存在がこんな近所に住んでいるなど、到底信じられるはずがない――のだが、どうやら、事実であるらしい。 「……セラ・フィアール?」 頭の中に一気に流れ込んでくる言葉を一つ一つ受け入れるのに、軽く瞬き数回分の時間を要し――その結果、自然と口をついて出た敬称に、フィアールはさも当然のように首を左右に振った。 「いや、そこまで畏まる必要はないよ。フィアールお兄さんって呼んでくれれば、俺としても本望かな。……あ、賢者っていうくらいだから、もっとしわくちゃのおじいさんを想像していた?」 「あ……い、いえ! ……は、母が宜しくと言ってました。彼の方って、貴方のことですよね?」 出掛けに告げられた母の言葉を咄嗟に思い出す。慌ててミーナスは首を横に振るが、図星と言えば図星だった。 「ユノアールが? 嬉しいな。こちらこそ宜しくって伝えておいて。あと、近い内に皆でお茶しようって」 世間話に綺麗な花が咲いた。 ルヌラストによって創り出された、この世界を見守る者。その七賢者の一人ともあろう者が、よりにもよってこんな辺境の森の奥に小屋を建てて住んでいる。 そのことだけでもミーナスの想像を遥かに超えていたのに、更には自分で洗濯をし、ミーナスが普段口にするのと同じようなパンを食べている―― それ以前に『賢者』とお茶を飲むなどということが、果たして一般的に許されることなのだろうか。ミーナスは心の奥底で真剣に悩んだが、フィアールの言葉には首を縦に振ることしかできなかった。 「それじゃあ、ミーナス。始める前に一つだけ質問があるんだけど、いいかな?」 左手の人差し指を真っ直ぐに立てて掲げながら、フィアールは器用に片目を瞑ってみせた。その指をそっと――内緒話でもするかのように口元に添え、芝居がかった動作で手を広げる。 |