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風の伝説の始まりの話


6


「――おお、戻って来たようじゃの」
 ヴァンフュールの声に、広場に集っていた風の民達の視線が一斉に森の入り口へと向けられる。あたたかな歓声とテーブルの上に並べられた色とりどりの料理――その香ばしい匂いが、帰ってきたミーナスを出迎えた。
 成人の儀式の後にはこうして、里の民が総出で祝うのが通例だ。男達が宴の席を整える間に、女達は腕によりをかけて食べ物を拵える。
「お帰り、ミーナス」
 真っ先に駆けてきたペミナーラに手を引かれ、ミーナスはあっという間に人々の輪の中心に立たされた。今日の主役なのだから、仕方がないと言えばそれまでなのであるが。
「お帰りなさい、ミーナスちゃん。そのお顔を見る限りでは、おめでとう、と言ったところかしら」
 人々の輪から外れて近づいてきたユノアールにそっと抱き締められて、ミーナスはぎこちなく頷いた。人々の間に拍手と祝福の声が沸き起こる。
 続く言葉。あるいは皆の期待――通例であるからそれはわかっていたが、どう切り出せばいいものか迷ったのも事実だった。
 成人の儀式を終え、無事に精霊との契約を交わしてきた。その精霊を皆に紹介することは容易いけれど、その先に続ける言葉を、どうするべきか。
 実は、自分は遥か昔の英雄の生まれ変わりらしく、かつての大戦が再び繰り返されるかもしれないのですと――そう言ったところで、このめでたい席では場にそぐわない冗談だと笑い飛ばされるか、怒られるか、してしまうかもしれない。
「あのね、みんな……みんなに、聞いて欲しいことがあるの」
 それでもミーナスは、意を決して呼びかけた。笑みの欠片すら、拾えなかったことを自覚している。そのせいで宴の場が急に静まり返ってしまったことも。
「――風牙」
 直接言葉にするよりも、風牙の姿を見てもらったほうが早いような気がした。ミーナスの呼び掛けに応えるようにペンダントが淡く輝き、中から一筋の光が飛び出す。ミーナスの傍らに従うように現れた風牙は――先程戦った時のそれとは違う、狼のような獣の様相をしていた。
「そんなに驚くこたぁねぇだろ。さっきのあれも今のこれも、そう変わらねえ」
 その場にいた誰もが、息を呑んだようだった。獣の顔であるにもかかわらず、風牙が得意げに口の端を吊り上げたように見える。かつて“彼女”と共に世界を駆けた金色の獣の伝承を、知らぬ者はいない。
「セラ・フィアールはこう仰った。歴史が繰り返されると。……私は、ティア・フォーンの生まれ変わりで……私には、彼女が歩いた道を辿って欲しいと」
 デュランダルもユノアールも、驚きを顕にしていた。あるいは、何かを恐れているような――そんな眼差しでミーナスを見ていた。
「それではやはり、お主がそうなのじゃな。……時を継ぐ者よ」
 ヴァンフュールの声も、重苦しい息に包まれている。
 続けるべき言葉を、ミーナスは探し出せずにいた。予想はしていたが、せっかくのめでたい席に水を差してしまったことに変わりはない。
「……いいんじゃないの? ミーナスはミーナスだ。俺の妹で、父さんと母さんの娘。ティア・フォーンのように、死んだりはしない」
 僅かに震えるミーナスの肩をしっかりと抱きしめながら、あっさりとそう呟いたのはペミナーラだった。その場にいる風の民の中で、ただ一人、自信に満ち溢れた表情で一人一人の顔を見渡し、続ける。
「セラ・フィアールが仰ったんだろう? 現にミーナスが契約を交わしてきたのは――ティア・フォーンと共に在った金色の獣だ。歴史が繰り返されると言うのなら、本当のことと考えるのが妥当じゃないの? まあ、よりにもよって何で今この時代でティア・フォーンの生まれ変わりがミーナスなんだって大いにカオスに突っ込んでやりたいが――それで封印戦争自体がなくなるなら、とっくにそうしてる。そうじゃないか?」
「兄さん……」
 ちらりと見上げた兄の顔は、自信に満ちているだけではなかった。ミーナスの力を心の底から信じている、そんな表情だった。
「今日のこの日は、ミーナスの成人と旅立ちを祝うための日だ」
「でも、ペミナーラ。ミーナスちゃんを一人で行かせるというの? ……私には……そんなことはできない」
 さあ、と、酒の入った器を取り上げようとしたペミナーラであったが、小さな声で呟かれたユノアールの言葉には、さすがの彼も返答に困ってしまったようだった。おそらくこの兄のこと、それなら自分が一緒に行くと言い出しかねないことは想像できるのだが、彼はリュイン王国の騎士団に籍を置く騎士である。いくら封印戦争が繰り返されるとは言え、騎士としての仕事を放り出すことなどできるはずがない。
「俺が一緒に行きます。……頼りないだろうけれど、一人で行かせることなんかできないのは、俺も同じです」
 不意に、その場になかった新たな声が、風に乗って割り込んできた。その場にいた全員の視線が、ゆっくりと人々のほうへ歩いてくる来客へと向けられる。
「……クンラ……」
 ミーナスが名を呼んだのは、オレンジの混ざるブロンドの髪に、淡い翠玉の瞳を持つ青年だった。風の民の纏う草木に近い色合いで鮮やかな模様の入ったそれとは違う、金糸が織り込まれた白を基調としたリュインの民族衣装。ミーナスの幼馴染とも言える彼が今日ここに訪れたとして、不思議に思う者は誰もいない。
「言うじゃねえか、信用できねえか?」
 風牙が鼻を鳴らして威嚇するが、クンラはそれをやんわりと受け止めたようだった。
「そうじゃない。ティア・フォーンだって、風牙一人の力だけでは、カオスの元まで辿り着けなかった――そうでしょう?」
「クンラくん、でも……」
 戸惑うように紡がれたユノアールの声に、クンラはゆっくりと首を横に振る。
「ユノアールさん、俺のことは心配しないで。自分の身くらい自分で護れる。もちろん、ミーナスを危険な目に遭わせたりはしない」
「でも、何が起こるかわからないのよ? たくさん怪我しちゃうかも」
 躊躇いがちに声を上げたミーナスに、クンラは小さく眉を下げて笑った。
「あのね、それはミーナスにも言えることだよ。俺としては、手の届かないところで怪我されるほうがよっぽど心臓に悪い。……手が届く範囲なら、いくらでも護る機会はあるしね。……ティア・フォーンの二の舞にさせるつもりは俺だってないよ。風牙もそのつもりでしょう?」
「尋常じゃねえぞ、カオスアレは。半端な覚悟なら邪魔なだけだ」
「風牙がそう言うなら、そうだと思う。だけど、『ミーナス』のことなら、俺達のほうがずっと知ってる」
 その言葉には、戸惑いの棘すら生えていなかった。風牙とクンラ――金色と翠玉、二つの瞳が真っ向から衝突する。
「……死んだって恨むなよ。テメエで責任取れ」
 ――先に目を逸らしたのは風牙のほうだった。祝宴と言えど、遠くから眺めやるつもりなのだろう。踵を返し、ゆっくりと歩を進め、木の側にごろりと寝転がってしまった。
「ミーナスちゃん」
 そう、娘の名を呼んだユノアールの瞳には、もう、怖れはなかった。
「……ミーナスちゃんは、デュランダルと私の、大切な大切な娘ですからね。いつでも、どこにいても、それだけは忘れないでね」
 ミーナスはユノアールの元へそっと歩み寄り、抱きしめてくれるそのあたたかな腕に身を任せた。

 祝の席は笑い声に溢れ、今は煌々と燃える炎を囲んで楽が奏でられ、舞が繰り広げられている。
 その輪から一歩離れたところに腰を下ろし、ミーナスは賑やかなお祭り騒ぎを嬉しそうに眺めやっていた。

 旅が始まるのだ。《自由なる風》ティア・フォーンの足跡を辿る旅が。
 それは、まだウィンディアやリュインなどごく限られた小さな世界しか知らないミーナスの想像力で描くことはできないが、とても長い旅なのだろう。
 フィアールが言ったように、ここから旅立ったティア・フォーンは、風牙と二人きりだった。なぜなら、この地に人――風の民が住むようになったのは最初の封印戦争が終わってからずっと後のことで、精霊と人が共に生きるようになり、人が精霊と契約を交わすことが当たり前のようになったのも、その頃のことだ。
 精霊が人に自らの命と力を託さなければ生きていけなくなったのは、封印戦争とそれに伴う数々の争乱により、このフィルタリアが傷つき、荒れ果てたからなのである。そのことをミーナスが知るのは、ずっと先の話であるが。
 ともかくも、ミーナスの旅立ちを見送るのは、フィアールただ一人ではない。デュランダルとユノアール――自分を産んでくれたただ一人の父と母と、その血をわけたただ一人の兄である、ペミナーラ。そして、彼らと共にミーナスの成長を見守ってきた風の民の同胞達もいる。
 さらに、これから始まる長い旅には、風牙だけでなく幼馴染の青年まで一緒に来てくれるのだから、これほど心強いことはない。
 自分は、一人ではないのだ。そしてフィアールが言ったように、彼女の仲間となる人々が、きっと世界のどこかで彼女を待っているのだ。それは風の導きであり、フィリア・ラーラの祝福であり、あるいは、フィアールの言葉を借りるならば、世界の理というものなのかもしれない。しかし、それでも心強いことに変わりはないのだ。
 ミーナスは目を閉じ、今まさに彼女の傍らを通り抜けている風に思いを託した。側にいてくれる大切な人へ、今日出逢ったばかりの相棒と賢者様へ、そして、これから出逢うことになるであろう、まだ見ぬ仲間達へ――
 風はこの地より生まれ、世界を巡りこの地へと還る。ならば、広大な世界のどこかで、風が運んだミーナスの言葉を聞き、受け止めてくれる者がいるかもしれない。今、ミーナスの髪を撫でた風も、いつかは、まだ見ぬその人の頬をくすぐるのだ。
 ――ならば、これほどまでに嬉しく、楽しいことはない。
「ミーナス、護るよ。君を」
「もちろん、私もよ」
「ところでクンラ。旅が終わるまでミーナスには手を出すなよ?」
「貴方が姉に手を出さないと約束して下さるなら、約束しますよ、お義兄にいさん?」
 緩やかに吹き抜ける風、煌々と燃える祝福の紅い炎。古より受け継がれてきた歌声が、風に乗って響き渡る。
 今だけは、ただ心を穏やかに休めて、明日からの果てしない旅に思いを馳せる。ただ、それだけ。

 こうして、ウィンディアの風の民であるミーナス・クオンが十八の誕生日を迎えたその翌日、彼女の長い旅は始まった。
 カオスが待つ《約束の地》へと続く扉を、開くために。
 フィルタリアというこの金色の大地に生じた綻びを、繕うために。
 後に新たな神話として語り継がれてゆくこととなる、これは――《自由なる風》を追い掛けたもう一人の《風》の伝説の、ささやかな始まりの話。


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