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風の伝説の始まりの話


5


 ――想い出はいつまで経っても想い出であり、過去。そこから未来には繋がらない。
 過去は変えられないものなのだ。だからこそ、現在いまを生きるのだ。
 風牙は、自分を打ち負かした少女の中に、確かに“彼女”の面影を見た。
 白い風、自由なる風―― 一瞬だけ現れた彼女の幻は、穏やかな笑みを浮かべながら、静かに消える。
 もう、彼女の幻影にも二度と逢うことはないだろうと、風牙は確信した。過去と呼ぶには遠すぎて、もう、どれくらい昔のことだったのか思い出せないけれど、ずっと彼の心に影を残していた過去の断片が、砂のように流れて落ちる。
 最期まで言えなかった別れの言葉を、ようやく口にできそうな気がした。『さよなら』と、やっと彼女に言えそうな気がして、風牙はそっと目を閉じた。

 風は常と変わらぬ穏やかさを取り戻し、ウィンディアの森には静けさが戻りつつあった。天球の光は白く強い光を放ち、夕刻の訪れまでまだ十分に時間があることをその身で示している。
「風牙は、大丈夫なの?」
 こちらへと歩いてくるフィアールに、ミーナスは剣を鞘に収めながら静かに問いかけた。少々不安げなその声に、あっさりとした肯定の意が返される。
「うん、大丈夫。精霊は実体がないようなものだから、斬っても殴ってもそんなに痛くないよ。……これでミーちゃんは合格。風牙も文句はないね?」
 風牙は静かに身を起こし、その場に座り込んだまま胡坐をかいてそっぽを向いた。反論の言葉がひとつも出ないところを見ると、彼なりにミーナスの力を認めたと、そういうことなのだろう。
「自由なる風の牙。それが、風牙の名前。この名前を彼に与えたのは、ティア・フォーンだ。名前もなく、力の使い方さえわからなかった風牙を、彼女が救ったんだよ」
「……そんな思い出に、浸ってる場合じゃねえだろ。テメエは……余計なことまでしゃべりすぎる」
 機嫌を損ねているからか、あるいは、他の理由があるからか――ともかくもフィアールはミーナスのほうを向こうとしない風牙の正面に回りこみ、彼の目の前にしゃがみ込んだ。目線の高さを合わせ、どこか困ったように笑いながら――ゆっくりと息を吸い込む。
「ねえ、風牙。余計なことなんかじゃないよ。ミーちゃんだから……ミーナスだからこそ、聞いて欲しいって思わない?」
 風牙の肩が揺れる。ばつが悪そうな、どこか怯えているような――そんな金色の眼差しが、フィアールの淡い紫のそれをちらりと見つめる。フィアールはよいしょと腰を上げると、その眼差しを真っ直ぐにミーナスへと向けてきた。
 ――“彼女”の面影を持つからこそ。あるいは、記憶を持っているからこそ。フィアールの言葉に込められた意図を、ミーナスは何とはなしに感じ取った。それは、ミーナスが知らなければならないことで、受け止めなければならないことなのだろう。風牙という精霊を、喚んだ者として。
「……風牙の中には、精霊族の血が流れていた。精霊族は……ミーちゃんも知っていると思うけど、死んでしまうと精霊になる。風牙は……自分の中に精霊の血が流れていることを知らないまま、死んでしまった。精霊としての力を制御できずに、暴走してしまった彼を止めたのが、ティア・フォーンというわけ。そして、まるで最初から何もかもわかっていたように、彼女は風牙を連れてこの森へやってきた。それが始まりだ」
「フィアール――」
 風牙が遮るように名を呼んでも、フィアールの話は止まらない。
「彼女は……混沌に対する切り札のようなものだった。格好よく言うなら、“選ばれた存在”だ。でも実際は……いや、これはいずれミーナス自身が知ることになる話だね。とにかく俺は、彼女が連れてきた風牙を俺達の同胞――風の精霊であると認め、彼女は正式に風牙と契約を交わした。そして彼女は、ウィンディアここから風牙と一緒に世界を廻る旅に出た。とても……長い旅だった」
 彼はそこで一旦言葉を切って、風牙をちらりと見やった。風牙はフィアールのほうを見ようとはしない。まるで、過去そのものから目を背けようとしているかのようだった。
「……カオスがいるのは世界の中心、フィリア・ラーラが抱く《約束の大地アース・ラグーン》だ。そこに行くためには、俺を含む、七賢者のすべてに認められなければならない。彼女は見事それを成し遂げ――《約束の地》への扉を開いた。カオスの元へ行き、そして……この先は君も知っている通りだよ、ミーナス」
 そして、彼女は消えた。文字通り、風になった。それが封印戦争と呼ばれた戦いの結末だ。
 彼女の命と引き換えに、封印戦争と呼ばれた戦いは終わった。混沌の脅威も収まり、世界には平和が訪れたとされている。
「ティア・フォーンは消えてしまったけれど、カオスは決して消えない。破壊神キルーサの力を以てしても、混沌カオスを破壊することはできない。あの子は何度でも現れる。……風は、また止んでしまった」
 フィアールはさらに言葉を続けた。溜めていた何かを吐き出すような口調だった。衣の裾を撫でていく風が、一瞬だけ寂しそうに鳴いたような気がして――ミーナスは首を傾げる。
「……また……?」
「風が止んだのは……先の大戦以来なんだよ。あの日のこともちゃんと覚えてる。ちょうど、ティア・フォーンが風牙を連れてここにやって来た日だ。何より、ウィンディアの風が止むということは、予定外のことでもある。ウィンディアのみんなも驚いていたでしょう? 俺だって驚いた。だって、ウィンディアの風は止まないというのは、創造神ルヌラストが定めた『世界の理』のひとつなんだもの。言ってしまえば、ウィンディアの風が止むのは、あってはならないことなんだ。馬鹿げていると思うかもしれない。確かにほんの些細なものだ。でも、とても大きな意味を持っている」
「それって……」
 続く言葉を予感した。間違いはないと確信した。先の大戦の時と、今――どちらも、風が止まったことに変わりはない。
「……大戦が繰り返される可能性だって、ないとは言えないよね。風が止まり、ティア・フォーンの記憶を持っている――と思われる君が俺達の前に現れたし、各地で魔物さん達……明らかにカオちゃん――いや、カオスの影響を受けている子達が増え始めている。この森だって、実は例外じゃない。俺の力が届く範囲……こことか、ミーちゃん達が住んでいる所は大丈夫だけど、そこから一歩でも外に出れば、いつ魔物さんに襲われてもおかしくないんだ。フィルタリアという世界に真っ直ぐに張られていたはずの弦が、確実に緩み始めている」

 平和な時間が流れ続けるのだと、漠然と思っていた。
 少なくともミーナスが生まれてからは、世界を脅かすような戦乱など起こらなかったし、かつて起こったと言われる戦争だって、永遠とも呼べるほどに遠い昔の話だったからだ。歴史はあくまでも歴史であり、神話であり、ミーナス自身とは何ら縁のないものであるはずだった。
 だが、そうではないのだとフィアールは言った。その“かつて起こったと言われる戦争”が再び起きようとしているのだと彼は言った。それに他でもないミーナス自身が、飛び込んでいかなければならないのだと。
 御伽噺でしか知らない英雄の生まれ変わりだなんて、夢のような話である。現に今のこの瞬間だって、夢かもしれない。風牙と契約を交わすという、同じ出発地点に立っていながら、ミーナスが思い描いたことのある彼女の強さに、今のミーナスは遥かに遠く及ばない。ティア・フォーンの強さを知っている風牙なら、ミーナス以上に二人の差を感じているはずだ。
 けれども、突きつけられた言葉は決して冗談などという一言で片付けられるものではない。
 風牙と剣を交えた際に頭を掠めたのは、自分ではない誰かの記憶だった。途切れ途切れではあるが、その瞬間を思い出そうとすれば鮮やかに蘇らせることができる。それがティア・フォーンの記憶に違いないと言うのなら、ミーナスの中に眠っているのは、すなわち、彼女の記憶ということになる。
 風牙は、ミーナスが訪れるのを待っていた。フィアールも、また。

 歴史は繰り返されるのだ。風はこの地より生まれ、この地へと還る。

「ミーナス。君にこれから、彼女と同じ道を辿って欲しいんだ。風牙が認めたミーちゃんなら、カオスにだって逢えると俺は思ってる。だからこそ、この広い世界に散らばっている俺の同胞――七賢者のすべてに逢って、彼らに君の力を認めさせてやって欲しい。さっきも言ったけれど、俺達全員が認めた者にしか、あの《約束の大地》への扉を、開くことができないから。それにね、ミーナス……この森で出逢うことのできる精霊は、その時のその人に、一番相応しい精霊なんだよ。人間ひとが精霊を選ぶんじゃない。精霊が、人間を選ぶんだ」
 ミーナスに一番相応しい精霊として、風牙が現れた。フィアールの言葉を借りるならば、ミーナスを選んだのは風牙ということになる。
「でも……私に、そんな、すごいことができるの? 封印戦争は、世界を巻き込んだ戦いだったんでしょ? ……ティア・フォーンのように、カオスの元へ辿りつけるかなんて、私にはわからない。ましてやカオスと戦うなんて――」
「できるさ、ミーナス。俺も風牙も君を認めたんだもの。確かに、辿って欲しいのは結果的には同じ道。けれど、ティア・フォーンのように、じゃない。これは、ミーちゃんの戦いだよ。ミーナスの中には、彼女の記憶が眠っているかもしれない。でも、これだけは覚えていて。ミーナスはミーナスだ。ティア・フォーンじゃない。風牙も、ティア・フォーンの生まれ変わりだからミーナスを認めたというわけじゃないよ。風牙が認めたのは、紛れもなく『ミーナス・クオン』なんだ。……そうでしょう? 風牙」
「……どうでもいいだろ、そんなことは。それより、早いとこ契約を交わしちまったほうがいいんじゃねえか?」
「風牙、照れないの。……ねえ、ミーちゃん、契約の仕方はわかる?」
 言われて、ミーナスは頷くと、兄ペミナーラから渡された銀の鎖のペンダントを外した。透明な精霊石を、風牙の目の前に掲げる。
 実体のない精霊と契約を交わすために何よりも必要なのは、精霊の意識を留めておくための媒介だ。武具や装飾品など、一般的には『物』が多いが、契約者の肉体そのものもまた、媒介とすることが可能である。もっとも、一つの肉体に二つの意識が混在することになるために危険も多く、己自身を媒介とする術者は滅多にいないのだが。
 媒介の次には、契約を成立させるための言葉が必要になる。ミーナスは事前に教え込まれていたそれを、緊張を宿した声で紡いだ。
「――果てなき大地を廻る風よ――自由なる君の名の下に――我が紡ぐは、汝が名――汝が言葉を、我は聴く――開かれる彼の扉、汝と我を繋ぐもの――過去と未来の狭間に浮かぶ、汝の心、今ここにあり――」
 空気が震え、風が強く吹き抜けた。風牙は真剣な眼差しでミーナスを見つめ、次に発せられるであろう言葉を、ただじっと待ち受けているようだった。
「我が名は、ミーナス・クオン――風の祝福を受けし者。自由なる風の牙――大いなる風よ、汝が名、我に預けよ――!」
「……俺の命は、とうにお前の物だ、ミーナス」
 風牙は迷いなくそう答えた。その瞬間、風牙のは風に紛れ、金色の光が精霊石に吸い込まれて消えた。

「お疲れ様、ミーナス」
 先程までは透明だった石が、風牙が宿ったことによって金色に変わる。それは言うまでもなく、契約が成立したという何よりの証だ。
「……これで契約は無事に完了。ミーナスの成人の儀式も終了。風牙は、いつでもミーちゃんの呼びかけに応えることができるから」
「でも、まだまだこれからってこと……なんでしょう? 貴方の言葉を借りるなら」
 フィアールは驚いたように瞬きをして、それから――どこか、悪戯を言い当てられた子供のように力なく笑って頷いた。
「そう……そういうことだね。ミーナスの旅が、ここから始まるんだ」
 改めてそう言われると、己に課せられた使命の壮大さに、溜め息をつかざるを得ない。もちろん溜め息一つで済むというのなら、そもそもカオスなどこの世界に存在していないのだろうが、それは、今考えるべきことではない。
「ねえ、ミーナス。俺はここから出られないから、ここから――祈ることしか出来ないけれど、でも、そのぶん目一杯祈るから。ウィンディアからの風に乗せたら、その祈りも……少しは大きく広がるかもしれないしね。……さて、ご両親も、兄上も、君の帰りを心待ちにしているだろうから。早く戻って、風牙と一緒に元気な顔を見せてあげて」
「……ありがとう、フィアール。ゆっくりしていられないのが残念だけど、ええと……私、頑張るから。どれくらい期待に応えられるかとか、そういうのは全然わからないけれど、でも……頑張る、から」
 今のミーナスに用意できる、それが、精一杯の答えだった。それでもフィアールはとても満足そうに、大きく頷いてみせた。
「――うん、ありがとう……こちらこそ。困ったことがあったら、いつもそうしているように風の声を聴いてあげて。風は――きっと君に一番相応しい答えを教えてくれる。いいかい、ミーナス。始まりは一人と一匹だけれど、終わるまでそうだとは思わないで。君は一人じゃないってこと、忘れないで。君の仲間は、世界中にいるよ――ミーナスに、女神フィリアの微笑みと……風達の導きがありますように!」
 ミーナスは大きく頭を下げてから、踵を返し、元来た道を歩き出した。その後ろ姿を見送りながら手を振るフィアールの表情は、最初に言葉を交わした時よりもどこか晴れ晴れとしているようだった。


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