毎夜通っている酒場への道を一本間違えて裏路地に入り、その突き当たりにあった店の扉を何となく開けてしまった――おおよそ、そんなことに過ぎなかった。
もしかしたら新しい白衣を下ろしたことが原因の一つだったかもしれないし、気分転換にと三日ぶりにシャワーだけでなく湯船に浸かったことも、原因の一つになりうるだろう。
だからと言って、通りの蛍灯が一本点いていなかったことを別段恨む必要もない。もしかしたら、点いていなかったのは二本だったかもしれないが、それは大した問題ではない。仮に宗乃がこの時蛍灯の接触不良に気づいていたら、後になってそのことにさえ感謝の念を寄せたかもしれないのだから。
そしてその日、薫香茶房の店主である
「……いらっしゃいませ?」
扉を開けた瞬間に流れてきた薬草を燻しているような匂いと煙に、宗乃は思わず鼻を手で覆った。噎せ返ってしまいそうになるのを何とか堪えながら、声が聞こえたほうに目を向ける。
普段通っている酒場よりも、一回りか二回り、あるいはそれよりも狭いかもしれない店。日が沈みきった夜ということを考えても、それよりも暗いように感じる店内。窓らしい窓は見当たらず、灯りと言ったら天井からぶら下がっている洋燈の蛍火石だけだ。帳場の上にも小さな洋燈が置いてあるが、店内全体を照らすまでには至らない。
外の喧騒も届かない、外界から完全に遮断されたと言っても過言ではないそこは、文字通り異世界のようだった。
もしも後少しだけ冷静に考えていれば、すぐに道を間違えたことに気づいて引き返していただろうが――その時彼は、影を縫いつけられてしまったかのごとく身を強張らせ、帳場の上に置かれている様々な石と傍らに立つ少年を凝視していた。
「ここは……?」
「――薫香茶房と申します。主に香などを扱っている、小さな店ですよ。私は店主を務めております、瑛藍と申します」
瑛藍と名乗った少年は、見た目の幼さに釣り合わない、大人びた口調で返した。もっとも、笑顔そのものは年相応に見えたし、どこか弾んでいるように響く声も、彼の見た目からすれば妥当なものだっただろう。襟足の辺りで揃えられた黒い髪と、蛍火灯の光の下でははっきりとはわからないが、おそらくは青い色の瞳。異国の民が纏う装束に似た、控え目な刺繍が施された紅色の上着が、この少年の浮世離れしたような不思議な雰囲気を一層引き立てていた。
「香……? 香りを売る店……なのか? ここは――」
「……ええ、そうです。心を落ち着かせる物、覚醒作用のある物、香りだけでなく見た目も楽しめる物や、消臭効果のある物まで……他にも様々な用途の物がございます」
まさか店を間違えたなどと言えずに、宗乃はぎこちなく店内に視線を彷徨わせた。正面奥と左手には、床から天井までの高さの棚が嵌め込まれている。それぞれの段に引き出しがついていることから、おそらくはその中に売り物である香が納められているのだろう。棚の側には木で作られた頼りない椅子が一つ。なるほど、少年の背の高さでは天井に近い位置の棚まで手が届かないから、入用の時にはこれを使うのだろう。
「何かお探しの物がございましたら、ご遠慮なくお申し付け下さいませ。こういった物が欲しいと申し付けて頂ければ、出来る限りご希望に近い物をお探し致しますよ」
そう言われても得体が知れないのは確かだった。もしかしたらこれは夢ではないだろうかとさえ宗乃は思う。そもそも、この祭邑の町で彼のような少年が店主を勤められる店などあるはずはない。すぐに引き返すべきだと頭のどこかで警鐘が鳴り響いたが、それは大した効力を持たなかった。彼が店内を見渡すその瞳は、既に店内を照らす灯りよりも輝きを帯び始めている。打ち勝ったのは、好奇心だった。
瑛藍は帳場の上に広げられた様々な色や形の石を、一つずつ煙で燻していた。鉄製の、足がついた香炉の上で煙を上げている香――その煙と濃い匂いが、店内に立ち込めている。それでも息苦しいと感じないのは、どこか見えないところにある窓が開いているのだろう。宗乃は吸い寄せられるように店内へと足を踏み入れ、帳場のほうへと歩み寄った。
「……なら……その石は、売り物ではないのかい?」
問いかけに瑛藍はゆっくりと頷いて、笑みを湛えたままの顔を来客へと向けた。
「ああ、ちょうど、どうしようかと考えていたところで。今朝届いたばかりの天然石星なのですが、取りあえず浄化だけでもしておこうと思ったんですよ。お気に召す物が――ございましたか?」
浄化と言っても、立ち上る白い煙に数秒潜らせるだけで、大きさも色も様々な石達が目の前に並んでいた。空のような結晶や、乳白色の輝石、薄紅色の透き通った宝玉、先が細かく分かれた枝葉が入り込んでいる水晶などもあったが――中でも宗乃の目を捕らえて離さなかったのは、掌大の黄緑色の石だった。
作業の合間にその視線を追いかけたらしい瑛藍が、おや、と声を漏らす。
「……お目が高い。橄欄石星ですよ――まだ浄化はしておりませんが、宜しければどうぞ、お手に取って御覧下さいませ?」
その声に促されるままに、宗乃は両手でそっと橄欄石星と呼ばれたそれを持ち上げた。透き通った黄緑色の中に、わずかに深い緑色の筋がいくつも走っている。蛍火石の灯に照らされて、白く輝いているようにも見えた。まるで石自体が仄かに光を放っているようだった。
「綺麗だね、まるで金……いや、星の輝きそのものだ……人の力では、まだこれだけの純粋な物質は創り出せないだろうな」
その輝きがあまりにも神秘的に映ったのか、宗乃は思わず息を呑む。すぐに元あった場所に戻してしまったのは、あるいは、手にすることさえ恐れ多かったからかもしれない。
「……天然石星は、天と地がもたらす恵みだと言われております。あるいはその名の通り、星の欠片や星の化身だとも」
「この世の物ではないような、そんな感じだね。人が触れるべきではない物のような気もするよ」
「ええ、そうかもしれません。けれども、実際には、これらは古くから魔除けやお守りとして用いられてきているのですよ。そして――西国ではペリドットと呼ばれているこの橄欄石星は、“黄金石”という意味を持っているそうです。太陽神の力を宿していて、心に明るさと希望をもたらす石とされています」
一息ついて、瑛藍は続けた。
「……今の貴方に、ぴったりだと思いますよ?」
紡がれる言葉を聞きながら橄欄石星を食い入るように覗き込んでいた瞳が、店主の少年へと向けられる。唐突にしては唐突過ぎる言葉だが、瑛藍の口調は先程までとまったく変わっていなかった。そのせいか、宗乃は彼の言葉の意味をすぐには理解できなかったようだった。躊躇うような間があって、宗乃は微かに口を開く。
「……僕に……? どうして、そんなことがわかるんだ?」
瑛藍は穏やかな笑みを湛えたまま、戸惑いを隠せない様子のその眼差しを見返した。
「こういった商売をしておりますと、様々な方にお会いする機会に恵まれますから。お顔を拝見しますと、何となくわかるのですよ。そうですね……勘、という言い方が、一番相応しいのかもしれません」
生暖かい風が吹き抜けていくのを肌で感じる。カンテラが揺れ、微かに軋んだ音を立てる。宗乃は微かに身体を震わせながら少年を見つめていたが、やがて、観念したように息をついた。
「……そう、か……いや……ちょっと研究に行き詰まっていてね。なかなか……いい考えが浮かばないんだ」
視線を再び目の前の橄欄石星に落とし、宗乃は力なく笑った。
宗乃はこの蓮砂国にある第壱研究所に籍を置く研究員だという。主に薬に関する研究が盛んなこの国では、研究員という肩書きがあればそれだけで寝食が保証されているようなものなのだが、それには当然、相応の代価としての研究の成果が求められる。
「一週間後に鑑査を控えていてね。それなのに……準備どころか提出用の書類も白紙のままなんだよ……何を書けばいいのか、わからないんだ」
聞けば、今度の鑑査で規定以上の評価が与えられなかった場合には、宗乃は研究所を追われてしまうらしい。そうなれば、彼はもはや住む場所さえ失ってしまう。一生の暮らしに困らないほどの富を得られる者などごくわずかで、研究員達の大半は宗乃と同じくいつ追い出されるか分からないような立場にある。張り詰めた空気の中で様々な研究者達が互いにしのぎを削り合う、時には争いの果てに血が流れることさえある――宗乃が日々を生きているのはそんな世界だ。その仕組みは瑛藍も知っていた。
「――それならば……どうぞ、その橄欄石星をお持ち下さい。お客様がその子に惹かれたということは、その子がお客様を選んだということでしょうから」
特に何かを躊躇う風でもなく、先程までと別段変わらぬ口調で瑛藍はあっさりと言った。逆に意表を突かれたのは宗乃のほうだった。
「……え……?」
「緑の石は、調和と再生の石。橄欄石星は先程も申しました通り、心に明るさと希望をもたらし、向上心を復活させる力を持っていると言います。物は試しという言葉もございますし、どうでしょう。お客様さえ宜しければ、お譲り致しますよ」
瑛藍はそう告げると、ぽかんと口を開けている宗乃を横目に散らばったままの石を取り上げ、途切れていた作業を再開した。翳した手の動きに、それまで真っ直ぐに立ち上っていた煙の筋が空中で分かれる。白い煙は手の中の石を柔らかく包み込み、緩やかに浄化していく。
「こ……本当に、これを……頂いてもいいのか? その、今、代金になるような物が……何も、ないんだが」
慌てて宗乃は懐や白衣のポケットを探るが、金になりそうな物が出てくるはずもなかった。そもそも今日の飲み代は最初からつけにするつもりでいた――つまりは、財布そのものを置いてきてしまったのであるから、ポケットにも懐にも何も入っていないのだ。それでも出てきそうな物と言えば、真新しい白衣の糊か身体に染み付いた薬品の匂いくらいだろう。さすがにそれでは形のあるものは買えない。
そんな宗乃の様子にも、瑛藍は笑みを湛えたまま頷いた。言い慣れた感のある、淀みない言葉の羅列が続く。
「当店の商品にはすべて、決まった値段がついておりません。お代はお客様のお気持ち次第でございます。私共は……必ずしも、金銭による代価を求めているというわけでもございませんのですよ」
どこか困ったように眉を下げた笑みと、軽く竦められる肩。さながら悪戯がばれた子供のような、そんな仕種だ。
「……じゃ……じゃあ、ただで頂いてもいいと……いうのかい?」
「極論を言えば、そうなりますね。例えば、香、例えば、石。例えば……夢。私共がお客様にお売りしている品の中には、決まった値段がつけられない物も多々ございます。ですから、当店でお売りする物すべてに、お客様のお気持ち次第という値をつけさせて頂いているのですよ」
「でも、それだと……僕の気が済まない。こんなに綺麗な石を、ただで頂くわけには……」
「ああ、後払いでも一向に構いませんし、必ずしも金銭でなくとも。例えば……このような、祭邑の片隅にございます小さな店にも、貴方様のお名前が届くようなご活躍をなさって頂ければ、私共としては、それでも十分でございますから」
祭邑のこの場所に名前が届くとなると、それは即ち、この蓮砂国全域に名を轟かせるのと大差ないということだ。途方もない試みかもしれないが、既に研究者という札を握っている以上、可能性はまったくないとは言い切れない。それがわかっているからこそ、宗乃はごくりと唾を飲み込んだ。先程までとは別人のような真剣な眼差しで、帳場の上の橄欄石星を見つめる。やがて意を決したようにそれを手に取ると、そっと懐に収め、白衣の上から何度かそこを叩いた。
「約束する。いつになるかわからないけれど、必ず代金と僕の名前を届けに来るよ……なんてね?」
「ええ、楽しみにしておりますよ? お気をつけて、お帰り下さいませ」
両手を組み合わせ、深く頭を垂れる店主に、宗乃も深く頭を下げて答え、扉のほうへ駆け出した。
「――うわっ!」
「大丈夫、ですか?」
勢いがついていたせいか宗乃は大きくつんのめり、その拍子に悲鳴のような声が上がる。橄欄石星が思った以上に派手な音を立てて床に転がり、咄嗟に帳場の裏から飛び出そうとした瑛藍を宗乃が手で制した。
そのまま橄欄石星をしっかりと拾い上げ、何事もなかったかのように宗乃は再び立ち上がる。
「……大丈夫。ありがとう。おかげでいい考えが浮かんできたよ。今度は、きっと上手くいくはずだ……それじゃ!」
開いた扉から訪れる風の流れに逆い、宗乃は急ぎ足で店を去っていった。瑛藍はその場に佇んだまま、開いた扉が閉まっていく様をじっと見やっていた。
扉が閉まると、店内には来客の存在すら始めからなかったかのような静寂が戻る。まるで忙しなく針を動かしていた時計が小休止に入ったとでも言わんばかりに、薫香茶房は本来の時間を取り戻した。そこに時間が流れていることを証明してくれるのは、香炉から真っ直ぐに立ち上る白い煙と、微かに揺らめく蛍火の灯り、そして、佇む店主の息遣いくらいだろう。
「……おや」
視界の隅で微かに煌いたそれに、瑛藍は首を傾げた。床に落ちた衝撃で橄欄石星が一部欠けてしまっていたことに、どうやら宗乃は気づかなかったらしい。瑛藍でさえ、その欠片が自身の存在を主張しなければ気づくことはなかっただろうから、無理もない話ではあるが。
瑛藍は帳場の裏からゆっくりと歩み出ると、後に残された小さな――親指の爪ほどの大きさの欠片をそっと拾い上げた。
親指と人差し指で摘みながら、天井の蛍火灯に向けて翳す。赤い光に照らされた黄緑色の星の欠片は、仄かに白い光を発した。瑛藍はその光の鮮やかな変化に目を細めた。
「……ああ、浄化をして差し上げるのを、忘れてしまいましたね。それとも……私が少しだけ、手離すのを惜しいと思ってしまったから……君は残って下さった?」
そう呟くと、瑛藍は定位置でもある帳場の裏に戻り、小さな欠片を他の石達にしていたのと同じように香木の煙で軽く燻した。
「そう言えば……お名前を伺うのも、忘れてしまいましたか」
今更のように呟きながら、瑛藍は困った様子もなく、寧ろどこか楽しそうに笑った。小さな橄欄石星の欠片は、他の浄化済みの天然石星達とは別の、白い小皿の中に置かれる。まるでそこが始めから定位置だったと言わんばかりに、小気味よい乾いた音が響いた。
やがて店主が忘れかけた頃に、一人の研究者が再びこの店の扉を潜る日が来るかもしれない。
それとも、くたびれた研究者がこの店に訪れることは、もう二度とないかもしれない。
その研究者が再びこの店に訪れようと訪れまいと、これから先も変わらない物が一つある。
時折思い出したように薬草の煙で燻される、小さな黄緑色の石の欠片――これは、薫香茶房の男店主が宝物の一つとして数えている、“橄欄石星の欠片”にまつわる話である。