儚き光を瞳に宿す、海に愛された異国の歌姫。花の真珠の涙を流す、遠い、遠い、異国の歌姫――
*
薫香茶房の男主人は、世にも珍しい、あるいは懐古的な物を好むことで有名である。
そのため、主に“香り”を売り物にしているこの店ではあるが、その主人の好みが長じて集められた珍しい品々を見に訪れる者も少なくない。
七色の砂、翡翠の花と水晶の花篭、種入り琥珀、風の結晶、満月色の葡萄酒、先代の妃が身につけていたという更紗の細切れ、凍れる刻の砂時計……表に出ている物以外にも、子供が遊ぶような古い玩具から果ては一世一代の逸品まで、実に様々な物が眠っているのだという噂は尽きない。
それこそ、売り物として扱っている品よりも数が多いのではないか、あるいは店の敷地の三分の二はその収集品で埋められているのではないかと疑う者もいる。それらすべてを、彼と趣味を同じくする古美術商にでも売りつけたら、この今にも倒れてしまいそうな古めかしい店ごと立て替えられるだろうにと残念がる者さえ出てきたが、男主人の瑛藍はそれらの声に真摯に耳を傾ける風でもなく、どちらかと言えば自らの希少な収集品にばかり心を傾ける始末だった。
――今日は、そんな数ある希少品の中から、ある一粒の真珠にまつわる話をしよう。
彼ともう一人の女主人だけが開けることの出来る、帳場の裏の黒い戸棚の上――あまりにも小さいために、意識して目を凝らさないと到底気づくことなど出来ないのだが、そこには、手のひらに載るくらいの大きさの、貝殻の細工が刻まれた硝子の小瓶がひっそりと置かれている。真珠が眠っているのはその中だ。
硝子の器と、そして同じ色の砂に抱かれ、太陽の光も忘れて眠るそれは、かの真珠姫が流した一粒の涙。見る者が見れば、喉から手が出るだけでは足りないほどに欲しがるという……淡い桃色の真珠である。
それは、見る者の心を魅了して止まない海の宝石だった。磨り潰して飲めば不老長寿を得られるなどという逸話もあった。
折しも、それは二代前の皇帝《鎖珀》の頃。その存在にまつわる噂が広まった途端、蓮砂国の大富豪達は一斉に彼女の涙を求めて使者を各地に放った。やがて、漁師の放った網にかかったかどうかは定かではないものの、南の国で捕らえられた彼女は、東の果てのこの蓮砂国まで運ばれた。
膝裏を覆う長さの緩く波打つ薄桃の髪に、珊瑚の瞳。天の御使いの落とし子かと言われるほどの類稀なる美しさを持った真珠姫であったが、見た目は年端も行かぬ少女のそれであったという。
第壱研究所に収容された彼女は、心無い大富豪――特に男達の格好の慰み者となった。身体を傷つけられ、心を傷つけられ、様々な苦しみや痛みをその身に受けた。だが、そのような苦痛の中から生まれた涙は、落ちた瞬間にすべて砂と変わってしまった。
散々傷つけ貪った挙句、それならばと――逆に彼女を喜ばせ、楽しませるための目的を携えた者達が、彼女の元へ送られた。皇帝しか口に出来ないような最高級の料理を創り上げる宮廷料理人や、その筆には魂が宿るとさえ言われた画家、色とりどりの宝石細工を指先一つで創り上げる職人に、その身を神へと捧げた聖職者、幼い皇女に毎晩子守唄を聴かせることを生業としている吟遊詩人――
彼女を泣かせ、真珠の涙を手に入れた者には莫大な報奨金を支払うというようなお触れまで出回ったため、彼女が望まずとも、彼女の元には多くの者が訪れた。その身を美しく飾られ、喜び、あるいは悦びとなるようなものも、惜しむことなく彼女に注がれた。しかし、彼女は決して真珠の涙を流すことはなかった。それどころか、涙の代わりに血を流したとさえ言われている。
代わりに彼女が紡いだのは、故郷を懐かしむ儚き歌であった。異国の言葉を解する者は誰一人としていなかったが、彼女の歌を聴いた者は、誰もが大粒の涙を零したという。人の心を動かす歌も、彼女自身の心を揺さぶることはなかった。彼女はいつしか、涙を流すことさえ忘れてしまっていた。
それも、今となっては昔の話だ。
彼女にまつわる噂話だけが現在も一人歩きをしているが、当の彼女のその後の消息については、皇帝《鎖珀》の死と共に泡となって消えたかのように、まったく知られていない。海に帰ったのだと言う者もいれば、第壱研究所で命を落としたのだと疑う者も少なくない。皇帝《鎖珀》の妾となったと声を潜めて囁く者もいないではなかったし、助けに来た婚約者と異国の地で幸せに暮らしているのだという美譚を語り始めた者もいた。
いずれにしても、今となっては昔の話なのである。
*
「――いらっしゃいませ……おや?」
薫香茶房の店主である瑛藍はその時、ちょうど紅蜜花の蜜と芳香油を用いて香水を作っている最中だった。定位置でもある帳場の上には、両手に収まるくらいの大きさの乳鉢と乳棒、紅蜜花の芳香油が入った琥珀色の小瓶、目盛りがついた円筒形の硝子の器、細い硝子棒や計量用の銀の匙などが無造作に置かれてあった。毎日雑巾で拭いているにもかかわらず、いつの間にやら埃も舞い降りてきていた。
一歩間違えれば、向かいの裏通りにある薬屋とも間違えられてしまいそうな有様である。細かな作業ということもあってか、瑛藍が身に纏っているのは常の白い長衣のみで、トレードマークとも言える紅色の上着はどこにも見当たらない。黒い髪も乳鉢の中に毛が入らないようにと考慮してか、暖色系の細い線がところどころに走る亜麻色の布が無造作に巻きつけられ、その中に収められていた。
乳鉢の中には砕いた乳白色の貝殻と真紅の薔薇の蕾や花弁も入っており、瑛藍はそれらを丁寧に混ぜ合わせているところだった。紅蜜花の蜜の匂いは、微妙な甘さと清純さを掛け合わせたような不思議な香りで、この祭邑の町には馴染まない、ある種の高級感をも伴っていた。
貝殻が纏う潮の透き通った香りと、真紅の薔薇が放つ艶やかな香り、そして、紅蜜花の蜜の匂い。それらが曖昧に絡み合って店内を満たしていたせいか、古びた扉を開いた女は、些か怪訝そうな表情を垣間見せる。
わずかな間を置いておずおずと向けられた眼差しを、瑛藍は深い青の瞳で静かに受け止めた。ほう、と、感嘆の息を一つ漏らして、
「……これはこれは、ようこそ、
瑛藍としては軽い揶揄のつもりで呟いたのだが、女にとっては少なからずそうではなかったようだった。ぼろ切れのような外套を頭から被った来客の女は、一瞬、不意を衝かれたように身を竦めてから、何事かを言おうとしたのだろう、その唇を微かに動かした。零れる息、それから頼りなく左右に振られる首と、どこか申し訳なさそうな両の瞳。恐る恐るといった風に自身を指差し、女はそっと瞬きを繰り返した。瑛藍は静かに頷き、頭を垂れた。
「ああ、いえ……お気を悪くされたら申し訳ございません。お客様、この辺りは……初めてでいらっしゃいますか?」
店内の薄暗さと、帳場の上の見るからに胡散臭い品の数々、そして、この蓮砂国・祭邑においては異国の民のそれとも言っても差し支えのない瑛藍の格好――その光景は、それこそ向こうの裏通りのさえない薬屋と比べてもあまり違いがなく、ともすれば見る者に多大な誤解を与えかねないような雰囲気だ。瑛藍もそれを十分に承知していたからか、普段から穏やかなその口調が輪をかけて落ち着いたものになっていた。
今度は首を縦に振った女に、瑛藍は了承の意を込めて先程のそれよりも大きな頷きを返した。乳鉢の中身を殊更ゆっくりとした手つきで混ぜ合わせ、時には細かく磨り潰しながら、言わんとしていた言葉を続ける。
「薄桃の髪に珊瑚の瞳を持つ歌姫がいたという、御伽噺がございまして。もちろん、今となっては、その歌姫が実在していたかどうかも定かではありません。何しろ……先々代の帝《鎖珀》様がまだお若かった頃の話と伝え聞いておりますから、かれこれ五十年以上も前の話になりますし」
帳場のほうまでやってきた女は、おもむろに被っていた外套を取り去った。しっとりと濡れていたことから、きっと通り雨にでも遭ったのだろうと瑛藍は胸中で結論づける。この祭邑では、黄昏時の通り雨はさほど珍しくはない。そうして女の姿を眺めやっては、心なしか嬉しそうに顔を綻ばせた。
「まあ……いったい何だとお思いになったとは思われますが、貴女の姿は、その、話として伝えられている歌姫の姿に……よく似ておられるように、お見受け致しましてね」
年端も行かない少女にも見えるその女は、肩の辺りで切り揃えられた薄桃色の髪と、丸くて大きな珊瑚色の瞳を持っていた。
「……よく似ておられると申しましても、私自身は生憎拝見したことがございませんから、その姿を思い描くことしか出来ませんが……ちょうど、今、真珠姫を題材にした香水を作っているところだったのですよ。まだ試行錯誤の段階でして、店頭に並べられるような代物でもないのですが……いかがですか?」
くすくすと笑いながら、瑛藍は乳鉢の中身を来客の女に見えるように傾ける。女はそっと顔を寄せ、食い入るようにそれを覗き込んだ。静かに目を伏せ、心地よさそうに息を吸い込む。
「…………」
それから、女は瑛藍へと向けて何やら口を動かしたけれど、開いた口からはただ息が漏れただけで、声がついてはこなかった。喉元を押さえ、眉を下げ、それから深い溜め息。沈痛な面持ちに、瑛藍は首を傾げた。
「……おや――もしかして、お声がお出にならないのですか?」
女は曖昧に首を傾げながら、困ったような笑みを瑛藍へと向けた。瑛藍もまた首を傾げて、続けるべき言葉を探す。
「……お声を取り戻したいと、そう思っておられるのですか?」
女は、今度はしっかりと頷いた。一度ではなく、何度も頷いた。何かを訴えかけるように、その口を幾度も大きく開閉する。
「生憎、私は医者ではありませんから……貴女の声を取り戻すための、最適な方法を存じ上げてはおりません。ですが――」
瑛藍は顎に手を当て、何やら考えるように視線を巡らせた。
「貴女はこの薫香茶房にいらして下さった。それならば、今日のよき日のご縁に感謝を込めて、喉にいいと聞くとっておきのものをお出し致しましょう。さて、甘い物はお好きですか? ……少々、お待ち下さいませ」
女の答えを待たずに瑛藍は踵を返した。店と奥の空間とを隔てているのは、この辺りではあまり見られない、鮮やかな色と柄の仕切り布だった。その向こうに男主人の姿が消える。店内のそれよりも明るいと思われる灯りの元から聞こえてくるのは、瑛藍ともう一人、女主人のものと思われる話し声。さほど時間を置かずに、瑛藍は再び姿を現した。湯気の立つ茶色い液体が入った半透明の器が、女の目の前に差し出される。
「茶蜜糖と紅唐生姜を、お湯で溶いたものです。私などは風邪を拗らせてしまった時によく飲むのですが、今日はちょうどこれもありますし……芳香油を混ぜる前でよかった。これは身体には少々毒でございますから」
後半は半ば独り言のように呟き、琥珀色の小瓶を示しながら、瑛藍は小さな銀の匙で乳鉢の中身――作りかけの、香水の素ともいえるその蜜を、小指の爪ほどの量だけ掬い上げ、器の中身に落として軽く掻き混ぜた。甘い匂いが、ふわりと舞い上がる。
「……紅蜜花の蜜は、《紅の歌姫》カーラカーリァが、歌を紡ぐ前に欠かさず飲んでいたそうです。ですから、紅蜜花は“歌蜜花”などという異称もございまして。少々不純物も混ざっておりますし、ああ、ほんの少しだけ、酸味があるかもしれませんけれど……毒ではありません。いかがでしょうか」
女は明らかな躊躇いの意をこちらへと向け、視線を彷徨わせていたが、程なくして意を決したようにその半透明の器を受け取った。落とさないようにと両手で包み込むように持ち上げて、白い湯気と甘い香りを放つ茶色の液体を、一口、二口、喉へと流し込む。瑛藍はその様子を息を詰めながら見守っていたが、やがて女はその器を帳場の上に置き、両手でそっと喉を押さえ――
「……ぁ……っ」
「――お客様……? ――大丈夫ですか?」
薄桃の髪の女は喉を押さえたまま、その場に力なくくず折れた。瑛藍は帳場の裏から足早に飛び出し、女の側にそっと屈み込む。間近で見れば見るほど小さな身体だった。片方の手は丸く縮まった背を擦り、もう片方の手は肩を支えるように伸ばされたが――それが、肩へと届く直前に、淡く輝く、丸い小さな物を捉えた。反射的に握り締めた手の中に、硬く柔らかい石のような感触。涙のように零れ落ちたそれに瑛藍は驚いたようで、軽く目を見開き女を見つめた。
「こ、れは……?」
瑛藍はゆっくりと手を開き、そこにある物を見下ろした。それは、真円の、淡い桃色の真珠だった。親指と人差し指で軽く摘んで翳してみると、虹のように幾重にも重なった色合いの光が、輝いている。
「……
呆然と告げられたその名に、女は穏やかに微笑み、頷いた。涙の代わりに薄桃色の真珠をいくつも零しながら、女は、綻ぶ花のような笑みを浮かべた。瑛藍は一瞬見惚れてしまったかのように硬直して、それから、緩々と息を吐き出した。
「……でも……それは、わたしの……ほんとうの名前、では……ないの」
ところどころ掠れてはいるが、それは声として、言葉として十分に聞き取れる。瑛藍は相槌を入れながら、紡がれる言葉の続きを待ち受ける。
「わたしは……ナディア。貴方が言うように、真珠姫と、そう……呼ばれていたけれど……本当の名前は、ナディア――」
歌うように祈るように、涼やかな声音はどこまでも美しく響いた。耳に届いたその声は、身体の中にも染み渡るような心地さえ抱かせた。
宝石の涙を零す真珠姫。人々を魅了し心を震わせ、涙を誘って止まない歌姫。失った涙を取り戻した彼女は、御伽噺や寝物語に想像していた以上に儚く、強く、輝いて見えた。彼女を求めた男達の気持ちが、瑛藍は少しだけわかったような気がした。
「……ナディア……」
蓮砂国のものではない、異国の響きを、瑛藍は確かめるように何度も口に乗せる。忘れてはいけない名だと、悟った。ずっと覚えていなければならない名だと、感じた。あるいは、忘れられない名だとも、そう思った。
「そう、ナディア……魔法使いの貴方は?」
「……瑛藍、と、申します。魔法使いなどではございません。この小さな薫香茶房の、しがない一店主でございますよ」
「エイラン……? ……ありがとう、瑛藍……これで……海に帰れる……」
ナディアは立ち上がると、まだ湿ったままのぼろの外套を被り直した。瑛藍もつられるように立ち上がり、じっと彼女を見やる。彼女はそのまま瑛藍に背を向け、扉を開いた。瑛藍もそれに続いて店の外へと歩み出る。
外は珍しく、大粒の雨が降り始めていた。ナディアはその中を、濡れることも気にせずに――寧ろそれさえも喜びの対象であるかのように、幾分か弾んだ足取りで歩いていった。
小さな店の軒下から、その姿が雑踏に紛れて見えなくなるまで、瑛藍はその背中を見つめていた。
かつて真珠姫と呼ばれたその少女が辿っていった足跡は、降り続く雨がじきに攫ってしまうことだろう。そうして、すぐに常と別段変わらない祭邑の雑踏が再び現れる。
ぽつぽつと街を照らし始めた蛍火石の灯りが届くはずもないような灰色の空をちらりと見上げてから、瑛藍は店の中へと踵を返し、そこで動きを止めた。風の悪戯かと思いかけて、すぐに首を横に振る。思い巡らせるような眼差しで床の上を見つめたまま――ややあって、ああ、と、心底納得が行ったかのような溜め息交じりの声が漏れた。
――彼女が流した真珠の涙は床に散らばったままだったが、瑛藍が握り締めていた一粒の真珠以外は、すべて、淡い桃色の砂となって崩れ落ちていた。
そのまま埃と一緒に掃き出してしまうことなど出来るはずもなくて、瑛藍は有り合わせではあったが、小さな、貝殻の細工が刻まれた硝子の小瓶に、砂と真珠を詰めて蓋をした。そのままそれを、帳場の裏にある黒い戸棚の上に静かに置いた。
「……どうやら、私が思い描いていた彼女と……当たらずも遠からずだったのでしょうか、ねえ」
そんな呟きを、中途半端に混ぜ合わされたままだった乳鉢の中身へと向ける。
気高き歌姫の香りと、馨しき乙女の香り。そして、遥かなる海の香り。彼女の声を取り戻したきっかけがどの香りにあったのかは当てられないが――香りではなく、そもそも茶蜜糖や紅唐生姜だったのかもしれないが――どれでもいいと、瑛藍は思った。どれが正しい答えであろうとも、悪い気はしない。
それから時は流れ、以来彼女がこの薫香茶房を訪れたことも、往来で彼女とすれ違ったことも一度もないが、きっと彼女は海に帰ったのだろうと、瑛藍はそう思っている。
蓮砂国の東の海岸から続く海が、果たして彼女が住んでいたと思われる南の海に繋がっていたかどうかまでは瑛藍にもわからない。もしかすると、きっと彼女はそう遠くはないところに今もいるのかもしれないとも、思ったりする。
時折、東からの風に乗って歌が聞こえるような気がするのだ。もちろん常識的に考えればそんなことはまず有り得ないから、単なる空耳に過ぎないのかもしれないけれど――確かに、歌が聞こえるような気がするのだ。
彼女が用いていたとされる異国の言葉は、瑛藍にもわからない。だから、どんな思いが込められているのか、直接それを感じ取ることは出来ない。それでもどこか懐かしさを覚えるその旋律に、ふと時間を忘れて聞き入ってしまうことも一度や二度ではない。
――それは優しく美しく、心に染み渡る人魚の唄。
誰もが涙を思い出す、儚く優しい海の調べ――
……ちなみに――真珠姫を題材とした香水は無事に出来上がったものの、結局その香りを気に入ったらしい女主人に持って行かれて、終ぞ店頭に並ぶことはなかったとか。