彼らが奏でるべき音色はどれも皆違うはずなのに、部屋の中を満たしていたのは何とも不思議な協和音だった。
中でも一番古い物は、およそ三百年前に作られたという。そんな、遠い昔から受け継がれてきた歌達の幻の共演が――世界に比べれば親指の爪の大きさにも満たないこの部屋の中で、繰り広げられているのだ。
瑛藍はその音の調べに、ただただ感嘆の溜め息をつくばかりであった。時に目を閉じて音に聞き入り、時に目を開けては巧妙な仕掛けを眺め、自鳴琴を見て聴いて楽しんでいた。
曲が終われば、螺子を巻き直す。そうすれば、途切れていた音が再び響き始める。
奏でられる旋律と共に、ある場所では三つ編みの少女がくるくると舞い、笛吹きが足で調子を取りながら笛を吹く。またある場所では小人達が身の丈よりも大きな糸巻きを回し、鮮やかな衣装に身を包んだ道化がささやかな芸を披露する。
数時間前までは何人もの人で賑わっていた室内に、今は彼以外の人影はなく、この広い――彼が暮らしているあの店の何倍も広い空間が、今は名実共に彼の独壇場となっていた。まるでこの屋敷の主と呼ばれてもおかしくないほどに、その姿は場に溶け込み、馴染んでいた。
「……おや、そろそろ時間ですね」
壁に掛けられた時計が告げている時刻を確認すると、瑛藍は今聴いていた自鳴琴の蓋を少々名残惜しげに閉めて、部屋の中央へと歩み寄った。
そこにあるのは、百年前に作られた、瑛藍よりも大きな高さを持つ自鳴琴だった。瑛藍の顔の大きさを優に超える、無数の穴が開いた銀の円盤が嵌め込まれており、それがゆっくりと回転しながら歌を奏でるのである。
この屋敷にある自鳴琴の中では一番大きく、瑛藍が一番気に入っているのもまた、この自鳴琴だった。三十分に一度しか鳴らないため、そう何度も繰り返して聴けるものではないが、それでも時間を忘れて聞き入ってしまうほどに、その旋律は美しかった。
時計の針が四時半を告げ、それと同時に円盤が回り始める。何度も聴いたはずなのに、初めて聴くような感覚すら覚えてしまう。演奏時間は約二十分。瑛藍は微動だにせず、ただ黙ってその音を聴いていた。誰が作ったのか、どんな題名がついているのか、瑛藍は知らない。彼にとって重要なのは、この自鳴琴が今ここにあり、彼の心を揺さぶるほどの音色を奏でているということだ。
窓の外の空は既に茜に染まり、西の空で鳥が鳴いた。夜の訪れも近い。闇が大地を染め上げて行くのに比例して、祭邑の街には夜を跳ね除けるような蛍火の灯りが輝き始める。
やがて、今日の最後の音色が終わりを迎えた頃、余韻を引き摺るように一人の老執事が瑛藍の側へ、足音を立てずにゆっくりと歩いてきた。
「……君は、いつも来てくれているね……そんなに、この自鳴琴達が好きなのかな?」
年齢を感じさせない、よく通る、鍛えられた声だった。瑛藍は老執事へと振り向き、丁重に頭を下げる。
その老人が、この屋敷を管理している者の中でも責任者的立場にあるのだということは、瑛藍も知っていた。すっかり色が抜けて白くなってしまった頭髪と顎鬚、丁寧に磨かれた銀縁の
「はい、週に一度の楽しみなんですよ……ああ、そろそろ閉館の時間、ですよね?」
瑛藍は笑いながら答えた。老執事もその顔に笑みを刻みながら頷く。
時計の針は、間もなく五時を告げようとしていた。
*
この広大な屋敷の主であった未亡人――マダム・ミモザが齢九十にして亡くなったのは、およそ数ヶ月前のことだ。
マダム・ミモザと、そして先に亡くなっていた夫のムシュー・トーマ。二人は、三十年ほど前に西方から移住してきた、異邦人の夫婦だった。異国の民とは言え、大陸共通の言語が公用語として用いられている蓮砂国では会話に困るということもなく、彼らが異邦人たる所以である金髪碧眼に白い肌は、黒髪黒目の黄色人種が国民の九割を占めるこの国では一際目立っていた。
元は貴族であったというこの夫婦、財力的には東の羽堂の地が相応しく、望めば羽堂に住むことも容易かった。しかし、わざわざ土地を新しく整備させてまで彼らが住むことを選んだのは、何を思ったか祭邑の外れであったという、いわば変わり者の夫婦でもあった。
果たして、お世辞にも風流だと言えない、どちらかと言えば騒がしいにもほどがあるような祭邑で、二人が静かに余生を過ごせたかどうかは定かではない。けれども、そんな祭邑の空気をこよなく愛していた夫婦は、その鼻にかけない性格と気前のよさから、下手な金持ちを快く思わない者が多い祭邑の民にも親しまれていた。
瑛藍も数こそ少ないが、実際に夫婦との交流を持っていた。一見気難しそうで無愛想な夫と、穏やかで、笑顔がよく似合う妻。妻に連れられて薫香茶房に訪れた夫が、瑛藍の出した花茶にわずかではあるが頬を緩めた瞬間が、昨日のことのように思い出される。
最後に未亡人に会ったのは、彼女が亡くなる少し前だ。子供はおらず、夫には先立たれ、晩年はさぞ心細かったに違いない。あの日、薫香茶房の扉を潜った彼女は、初めて会ったその時よりも二回りくらい小さく見えた。
彼女が好きだった茉莉花茶を片手に、語り合った最後の一時。自鳴琴の話を聞いたのはその時だ。この店にある(男店主が集めてきた珍しい)品々にも負けないくらい可愛いと、そう言って笑った彼女に、瑛藍も是非拝見したいですねと笑って返した。見せてあげるから近い内に尋ねておいでと、そう言い残して店を後にした彼女。結局その約束が叶えられることはないまま――それから程なくして、彼女は眠るように亡くなったのだと、遠く風の便りに聞いた。身寄りのなかった彼女の葬儀に、多くの人々が参列したことは――ひとえに、異邦人であった彼女がどれだけ蓮砂の民に慕われていたかということの、何よりの証明だっただろう。
後には、多額の遺産と彼女が住んでいた屋敷、そして彼女が趣味で集めていたという数々の自鳴琴が遺された。その内金銭的な物に関しては、正式な相続者がいないためにそのほとんどが国の所有物として没収された。屋敷や自鳴琴達もまた、国の所有物として管理されることとなった。
黙っていられなかったのは、それなりに遊ばせられる金を持つ収集家達だった。自鳴琴類は基本的にこの蓮砂国では造られないため、どれもこれも値打ちのある物ばかりだったのだ。転売により得られる利益も決して少なくはなかっただろうし、芸術品として完成されたそれらは、眺めて楽しむだけでも十分に価値があった。
彼らは何としても自鳴琴達を手に入れようと、謁見を求めて皇帝《鎖碧》の元へ殺到した。しかし鎖碧は、ほぼ門前払いに近い形でまともに取り合わなかった。
――幾ら金を積んでも惜しくないと競って手を挙げた彼らの願いとは裏腹に、遺された自鳴琴達はすべてマダム・ミモザの遺言に従い、屋敷ごと一般公開されることが決まっていたのである。彼女の遺言書は皇帝《鎖碧》直々に一般へと公開され、瑛藍も実際にそれを目にした。六十の手習いという言葉があるけれど、それにしても見事な蓮砂国の言葉で綴られていたそれに、瑛藍はただただ感心するばかりだった。
金にものを言わせられる収集家の手にばかり渡ってしまうよりも、より多くの人々に楽しんで欲しいと、マダム・ミモザは思っていたのだろう。実際にその音色を聴いてみたいと心底思っていただけに、瑛藍は彼女のその心遣いに感謝するばかりだった。
結局、瑛藍が予想していたのとはまったく違う形で、瑛藍はこれらを実際に目にし、音を聴く機会に恵まれたのである。
一般公開が決まった時から、実際に公開されるまでの間、瑛藍は文字通り首を長くして待っていた。元より店に訪れる客が少ないとは言え、常の仕事すらまるで手につかないほどに浮き足立っていたものだから、何度女主人に注意されたかわからない。
だが、間もなく目と鼻の先で拝めるようになるそれらを思えば、瑛藍にとってはそれこそ仕事どころではなかったのだ。
そうしてマダム・ミモザが亡くなってから数週間後――その屋敷が自鳴琴の館として開かれて以来、瑛藍は週に一度、日課ならぬ週課のように足繁く通っているのである。
*
「――どうかね、大奥様が愛したこの子達は」
いよいよ時計の針は五時を回り、この館も今日の勤めを終えようとしている。その眼差しに穏やかな光を湛えて、老執事は自鳴琴達を見やっていた。瑛藍もその横顔を見つめながら、大きく、深く頷いてみせる。
「どれも……とても大切にされていたと、そう感じますよ。錆び一つない、澄んだ音色は……心が綺麗だという証拠。彼ら自身の心もそうでしょうし、彼らに接していたマダム・ミモザももちろん――それに、おそらくは……貴方のお心も」
だからこそこんなにも心惹かれ、多くの者達が足を運んでしまうのだ。異国の、珍しい物だからという理由だけではない。もっと根本的、本質的な――心を揺さぶる何かを、彼ら――自鳴琴達は持っているのだろう。瑛藍はそう考えていた。
例えば、それは彼らを創り上げた職人達の想いかもしれない。ここに至るまでに彼らの音色――歌を聴いた、多くの人々の願いかもしれない。あるいは、彼ら自身が持っているかもしれない、魂そのものなのかもしれない……もちろん答えは瑛藍にもわからない。けれどそこにあるのは、言葉で表すことなど到底出来ないような、根底で揺らぐ確かな想いだ。
人の心、人の魂を捕らえて放さない――物に吹き込まれた命の鼓動。何もなければ、それは人の心を動かす要因には決してなり得ない。こんなにも離れがたく思ってしまうのは、そうさせる何かがあるからだ。
「私は、しがない一管理人だよ。私自身の手で彼らをどうこう出来るとも思わんが……それでも君は、私の心も綺麗だと言うのかね? しかし……君は、なかなか面白いことを言う。ただの“物”である彼らにも、心があると?」
意外そうな響きを含ませた老執事の言葉に、瑛藍は小さく息をついてから眉を下げ、緩く首を上下に振った。
「ええ、貴方のお心も……ですよ。彼らにも命があると、貴方もそう思われているでしょう? “この子達”、“彼ら”と、物に対して貴方はまるで……人のような呼び方をなさる。私も……いわゆる“物”を扱っている身ですので、ついついそう呼んでしまうのですが。やはりこういったことは……なかなか意識しては出来ないと、思いますよ?」
その、ある意味では的確な指摘に、老執事は目を丸くした。向けられる好奇の眼差しを穏やかな笑みで受け止めながら、瑛藍は胸に手を当て言葉を続ける。
「もしもここに私と血を分け合った妹がいたならば、彼女はこう思ったでしょう――この人が自鳴琴を見る眼差しは、まるで我が子を見つめるようだ――とね?」
部屋に満ちる沈黙の音色。二人は互いに顔を見合わせ、それから、揃ったように声をあげて笑った。深い皺があるかないかという、そんな違いがあるくらいで、二人の笑みはよく似ているようだった。
「そうか、そうか……これは参った。名は何と? 儂は
ひとしきり笑った後に、老執事――黄欣は唐突にそう呟いた。顎鬚をいじりながら器用に片目を瞑ってみせる様は、心なしか茶目っ気があるようにも見える。
「ああ、申し遅れました――瑛藍と申します。この祭邑の片隅にて……薫香茶房という小さな店を営んでおりますよ」
胸に手を当てて、瑛藍は深々と頭を垂れた。名前を聞いた途端に、黄欣が大きく瞬きをした。
「……薫香茶房の……瑛藍殿?」
半ば鸚鵡返しに呟かれる店と自身の名に、瑛藍はしっかりと頷いてみせる。
「はい、主に花の茶や香などを扱っております、暗くて狭い店でございますが……何か?」
驚いた様子の黄欣の表情が、急にくしゃりと笑み崩れた。何度か納得するような頷きを繰り返してから、彼はどこか、懐かしむような眼差しを瑛藍へと向けた。まさしく、我が子を見るような眼差しかもしれない――瑛藍は何となくそう思う。一気に黄欣の笑みが深まったのを見ると、あながち間違いではないのかもしれなかった。
「――ああ、大奥様から話は伺っているよ。君が、そうか……それなら話は早い。どれでも気に入った子を持って行くといい。何、一つ二つ減ったところで気づく者もおらんだろうからな」
「……は……?」
前置きもなくさらりと告げられた言葉は、聞き流せる程度の一瞬で理解するにはあまりにもその範疇を超えていた。それを証明するかのように、思い切り間の抜けた声が広い部屋に零れ落ちる。自鳴琴の音色のように響き渡ることなくすぐに消えたそれに瑛藍は我に返り、告げられた言葉を改めて頭の中で反芻させた。そうして、恐る恐るといった風に聞き返す。
「……あの、申し出はありがたいのですが、本当によいのですか? この子達は、マダム・ミモザの形見であって……貴方にとっても、何物にも代えがたい大切な存在では?」
ここにある自鳴琴を、好きに持って行っていいと――黄欣はそう言った。少なくとも瑛藍は、彼の言葉をそう受け取った。もしもその通りの意図ならば、それこそ瑛藍にとっては願ってもないことであったが――だからと言って、さすがに遠慮なく堂々と頂いて行けるほど図々しくはないという自覚もある。
「ああ、大奥様からの言伝だよ。薫香茶房の瑛藍という少年が尋ねてきたら、彼が望む物をどれでも譲ってやってくれとな」
瑛藍の葛藤も軽く一笑に付され、反論の余地すら与えては貰えないようだった。
「でも、このような高価な、貴重な物を無償で頂いたと羽堂の方々に知られましたら……」
それこそ、石を投げられるどころでは済まないかもしれない。我が身は愚か小さな店の将来まで危惧して、なおも食い下がろうとした瑛藍の言葉は、老執事の茶目っ気のある目配せによって遮られる。更に、黄欣は人差し指を軽く口元に添えて、笑った。
「それとは別に、大奥様直々の頼みごとだよ。ごくごく個人的な、言わば秘密の約束というやつさ」
*
場の薄暗さにはそぐわない、明るく弾んだ自鳴琴の音色が店内に響き渡る。
「……それで、このからくり人形の自鳴琴を頂いてきたと、そういうわけなのね。でも、本当に綺麗ね。大切にされてきたんだなって、感じる」
薫香茶房の女店主珱里は、帳場の上に置かれたそれを食い入るように見つめながら呟いた。瑛藍が新しく何かを持ち帰る度にこの店は物置きじゃないと怒る彼女が、どういうわけかこの自鳴琴にはどこか心惹かれる部分があったらしい。文句も言わず、自鳴琴の音色を瑛藍がそうしていたように繰り返し聴いていた。
「本当は……あの一番大きな物を頂きたかったけれど、さすがにこの店では置き場所に困ってしまうからね……おや、珱里もそう思う? うん、とても大切にされているよ。だから、彼らもその思いに応えるように、とても綺麗な歌を聴かせてくれる」
二人の目の前に置かれているのは、小さな木製の自鳴琴だった。引き出したがついた長方形の箱の上に、それぞれに異なる姿の三体の人形が載っており、自鳴琴の音色に合わせてゆっくりと回りながら舞うのである。箱は宝石箱で、指輪や耳飾りなどが収められるようになっていた。
「そんなに大きな自鳴琴が、あるの? ……どれくらい?」
「高さだけなら僕や珱里よりも大きいから……この店では窮屈で、僕が聴いているような音を奏でてはくれないかもしれない。それに、あの子は僕が独り占めするべきではないとも思うしね? あんなに、綺麗な歌なんだもの。珱里も一度聞いてみるといい。何なら……一日くらい店を閉めたっていいよ」
薫香茶房の男店主の、“自鳴琴の館”通いは、これからもしばらくの間、続きそうである。