例えば風が吹き抜ける感覚。例えば、晴れた空から零れ落ちるたった一粒の雫や、連なる雲達の真ん中にぽっかりと浮かぶ小さな白雲。例えば通りを歩いている時の、ただ一歩に感じる何気ない違和感のような何か。例えば眠っている間に不意に目覚めるその瞬間。そんな折々に、ふと感じるもの。それが彼にとっての虫の知らせである。
とは言え、起こるのは大抵悪いことではなく、寧ろ彼の知的好奇心を大いに満たすものがほとんどだ。だから瑛藍は個人的に、虫の知らせではなく“香りの知らせ”などと名づけては、女主人に素知らぬ振りをされていた。
その日も、彼は虫の知らせを感じていた。閑古鳥のつがいが屋根裏に巣を作っているこの店のこと、作業がなければ、来客の気配を感じ取るまで奥に引っ込んでいるのが常であるはずの瑛藍が、その日は珍しく帳場の裏で暇を持て余していた。
隣国の沙羅から仕入れてきたばかりの香料をたっぷりと効かせたミルクティーを片手に、お気に入りの白月蓮華の香を焚きながら、虫の知らせの原因たる人物、あるいは何かが訪れるのを、ただひたすらに待ち構えていた。
そして、瑛藍が予想した通りの来客が訪れたのは――彼が息抜きにと、先日借りてきたばかりの本を開いた時だった。時刻は午後、春と夏の境目にあるこの時期において暑さが最も勢いを増す頃。店の古びた扉が軋んだ音を立てて開き、そして――
「ああ、やっと着いた。狭い道の先にあるものだから、見つけ出すのに時間がかかってしまったよ。香りはいいが相変わらず辛気臭い店だねえ――店主はいるかね?」
店主が顔を上げるよりも、来客の口が開くほうが早かった。
「……おやまあ、相変わらず小さいこと。たまには日の光に当たらないと、そのうち溶けて消えてしまうよ?」
褒めているのかけなしているのかわからないような言葉はともかく、耳に残る心地よさを伴う、薄暗い店内に凛と響き渡るような声だった。その声の前では、どんなに素晴らしい香りであっても霞んでしまいそうな、気高き華のような声だった。
瑛藍は矢継ぎ早に告げられたその言葉にも特に驚いたような素振りを見せず、それどころか、微かに笑みすら浮かべながら肩を竦めてみせる。
そうしてたった今読み始めたばかりの飴色の表紙の本を閉じ、静かに椅子から立ち上がった。ゆっくりとした足取りで来客の女の前まで歩み出ると、その場で両手を合わせ、滑らかで丁寧な動作で頭を下げる。その表情は常よりも嬉しそうな笑みで彩られていた。
「……生憎、御伽噺に出てくるような可憐な姫君にはなれませんから。いらっしゃいませ、相変わらずお元気でいらっしゃったようで、何よりでございますよ。陛下……いや、
鋭く切れのある黒曜石の瞳を持ち、艶のある黒髪を腰の辺りまで伸ばした細身の女。身の丈は瑛藍よりもわずかに高い。身に纏う、袖や裾に金糸の細かな刺繍が施された赤い服は、この国の王宮である蓮砂宮に住まう者のみが着ることを許されている代物だ。
口の端をつり上げて、女は肩にかかる髪を払った。細い指の間からはらりと落ちる艶やかな髪は、まるで黒く染められた絹糸そのものだ。両の耳についた飾りが、涼やかな音を奏でる。
「律儀に言い直すのも相変わらずだ。久しぶりだね、瑛藍。お前も息災で何より」
――そこにいたのは、この“最果ての都”蓮砂国で知らぬ者は一人としていない、皇帝《鎖碧》と呼ばれる人物だった。
「お前一人で店番かい? 珱里はどこへ行ったのかね。ついにお前の体たらくぶりに愛想を尽かしてしまったのかい?」
店内を見渡しながら、鎖碧は首を傾げる。瑛藍はにわかに吹き出して、いいえと首を左右に振った。
「ご期待に添えないようで残念ですが、夕食の買い出しに出ておりますよ。間もなく戻るでしょう。扉を開けた瞬間に悲鳴が上がるかもしれませんが、お気を悪くなさらないで下さいませ? ……桃蓮様、立ち話も何ですから、どうぞお掛けになって下さい」
「そうか。それならよかった……あとでたっぷりと可愛がってやるとしようか」
「……お手柔らかにお願い致しますよ」
帳場の裏に続く階段の向こうにも人の気配がないらしいことを悟ったのか、鎖碧は瑛藍に促されるままに木製の椅子に腰を下ろした。草臥れた座布団が敷いてあるだけの粗末なこの椅子は、向こうの通りに住む大工の男が拵えてくれたもので、彼だけではなく様々な来客が腰を落ち着けるための場となっている。
鎖碧は別段、座り心地も悪くないといった風に悠々と足を組んだ。一国の主が下々の民草と同じ椅子に腰掛けているなど、彼女の臣下がこの瞬間を目撃したならば泡を吹いて卒倒しかねない光景だ。
だが、さすがにこの小さな店では、彼女が普段座っているような革製の椅子などは用意出来ない。
「……で、桃蓮様。本日はどのようなご用件で?」
瑛藍は問いかけながらも、その答えを承知していると言わんばかりに、引き出しの中から取り出した鍵で背後の戸棚を開いた。中から取り出された幾つかの作業用の器具や透明な液体の入った小瓶が、鎖碧の見ている前で帳場の上に広げられていく。その手際のよさに鎖碧が感嘆の息を漏らしたのを受けて、瑛藍は恥ずかしそうに笑った。
そうして最後に、店内に掛けられた七曜表の日付を確認するように見やった。瑛藍の記憶が間違っていなければ、そろそろ三ヶ月になる。
「いつもの香水と、あと香粉も頼むよ。ほら、前に来て貰った時から昨日でちょうど三ヶ月だろう? そろそろ行かなければと思っていたんだが、案の定、三日ほど前に切れてしまってね。あれがないとよく眠れないし、仕事にならない。まったく、お前達の腕のよさに感心するばかりだよ」
鎖碧はそう言って、懐から取り出した二つの容器を帳場の上に並べて置いた。一つは細かな細工が施された透明な小瓶。ほのかに甘酸っぱい香気を伴っていて、店内に満ちる香りと初めから知り合いであったかのように溶け合い、混ざり合う。もう一つは平らな円形の、蓋がついた白い陶の器だった。これにもやはり鮮やかな赤紫の花の模様が描かれており、高貴な身分の者が持つのに相応しい出来栄えである。
「……恐れ入ります。いつものように文の一つでも寄越して下されば、すぐに献上致しましたのに」
「何、たまにはいいだろう。お前達が元気にやっているかも気になるからね。今日は時間もたっぷりあるから、出来上がるまで待つとするさ」
「またそのようなことを仰る……貴女のことだから、どうせまた抜け出して来られたのでしょう? ああ、茉莉花茶で宜しいですか? それとも……シナモンやジンジャーもあることですし、沙羅国風のミルクティーになさいますか?」
沙羅国は蓮砂国の隣にある国で、蓮砂国とも親交が深く、また様々な茶葉の産地でもある。沙羅の民は蓮砂の民よりも肌の色が若干濃いのが特徴で、その多くが深緑、またはそれに近い色合いの瞳を持っている。そして、特に女性は肌を人前に晒すことをあまり好まない。余談ではあるが、特に瑛藍が好んで身に纏う服は、沙羅で作られた物――沙羅の民が纏うそれと同じ物が多い。
「何でも構わんよ。お前達が淹れる茶は何を飲んでも上手いからね。ただ、強いて挙げるならば……茉莉花茶はさっき飲んできたばかりだったりするんだがね」
「ありがとうございます。では、沙羅国風の香料をきかせたミルクティーに致しますよ。冷たいほうが宜しいですか?」
「ああ……そうだね、手間のかからないほうで構わんよ」
要はどちらでも構わないということだろう。頷いた鎖碧に瑛藍は再度丁重な仕種で頭を下げ、台所へと踵を返した。
二人が初めて出会ったのは、もう何年も前の話である。当時、祭邑一の遊び人として名を馳せていた鎖碧はまだ皇位を継承したばかりで、皇帝としての自覚もまだ十分に兼ね備えてはいなかった。そのため、何かと理由をつけては蓮砂宮を抜け出し、その度に臣下達に追い掛け回されていた。
あのようなじゃじゃ馬はかつてなかったと、彼女が幼い頃から武芸の心得を教えていた武将・
だが、彼女のその大らかで破天荒な人柄は、蓮砂の民からは慕われていた。祭邑の雑多な空気に慣れ親しんできたことで、人民と同じ目線で物事を見極められる力を自然と身につけていたというのも、その原因の一つだ。
余談ではあるが、彼女と臣下達の鬼ごっこは、祭邑では一時、賭けの題材に持ち出されるほどの名物になっていた。
あの日は、珱里がちょうど買い出しから帰った時だった。店の扉を開けた珱里諸共、逃げ場所を探していた鎖碧が店内へと雪崩れ込んできた。床でも抜けたかと思うほどの大きな音は、忘れようとしても忘れられない衝撃だった。
その時もまた、瑛藍は虫の知らせのようなものを感じていた。その日は確か風の匂いがいつもと違っていたというのを覚えている。
ただ、来客がまさか彼女であったとは思わなかっただけで――
*
「……ああ、すまない。卵が無駄になってしまったね」
立ち上がって軽く乱れた服を整え、下敷きにしてしまった一回りも小さい少女に手を差し伸べながら、鎖碧は笑ってみせる。少女はと言うと、潰れてしまった卵のことより自分を下敷きにしたその人物から、目が離せないでいるようだった。てっきり非難の言葉でも飛んでくるのかと鎖碧は思ったが、その予想に反し少女の顔はほんのりと朱に染まっている――ように見える。
「どうしたんだい? 可憐なお嬢さん。どこか痛い所でもあるかね?」
少女の手を取って立ち上がらせたのはいいものの、鎖碧に向けられたのは、戸惑いを隠しきれない様子の紅の瞳だった。蓮砂の民特有の黒ではないその色に、鎖碧が大きく瞬きをした瞬間、
「……あ、あ……いえ、だ、大丈夫ですっ……こちらこそ申し訳ありません……あ、貴女様は……っ」
ともすれば悲鳴にも似た珱里の声にようやく奥から姿を現した瑛藍が、意外な来客に対して感嘆の息を漏らした。
「おや、これはこれは珍しいお客様だ。ようこそ、歓迎致しますよ――《鎖碧》皇帝陛下」
「……皇帝陛下は余計だよ。お前達、何も言わずに私を匿っておくれ?」
腕を組み、仁王立ちで言い放つ鎖碧の姿に困ったように笑いながらも、瑛藍は外の喧騒に耳を傾けた。狭く古びた店であるから、少し騒ぎが起こればその音を聞き取るくらいは容易である。慌しく外を走り回る数人の足音。それらを囃し立てるような町人達の声。そして、明らかに蓮砂国の支配者である彼女を呼ぶ声――
「珱里、彼女を奥へと通してあげて? ……窓は閉めて、外から見えないように」
「え、でも、瑛藍……」
今ひとつ事情が飲み込めていない様子の珱里の肩を、瑛藍は静かにぽんと叩いた。
「いいから、早く。彼らがここに戻ってくる前に、店じまいをしなければ」
「――話がわかるじゃないか、坊や」
「恐縮でございますよ、《鎖碧》皇帝陛下」
口の端を釣り上げたのも一瞬、恭しく頭を下げる瑛藍に、鎖碧は表情を一転させてひらひらと手を振った。それが己の名であるはずなのに、呼ばれること自体が不快だとでも言うように。
「おやめよ、堅苦しい。私が《鎖碧》なのは蓮砂の皇帝としての衣を纏っている時だけさ。どうせ呼ぶなら桃蓮と、そう呼ばれたほうが心地いい」
視線を逸らしながら頬を膨らませ、乱暴な手つきで髪を払う――その子供のそれとしか思えないような表情や何気ない仕種の一つ一つにさえ、ある種の気品が宿っているように感じられた。彼女が持っているそれは、決して祭邑の民が持ち得ぬものである。
再び彼女に向けて頭を下げながら、それらは元から彼女が持ち合わせている資質なのだろうと瑛藍は思った。
「失礼致しました。それが、貴女様のお名前でございますか? ――桃蓮様」
鎖碧は今度こそ満足そうに頷いた。そうして瑛藍が店の扉に鍵を掛けるのを横目で見やりながら、物珍しそうな眼差しを店内へと巡らせる。薄暗く狭い店内の中に帳場があり、何種類もの花茶が収められた棚があり、明らかに売り物ではなさそうな古美術品がひしめいていたり――そこで、鎖碧はふと首を傾げた。
「香りは悪くないが……しかし本当に頼りない店だね。いつ潰れたっておかしくないじゃないか。ああ……お前達、名は? この店は何を売っている店なんだい? 見た所、花や茶の葉が多そうだが――まさか骨董品を売る店というわけでもないだろう?」
矢継ぎ早に投げかけられるいくつかの問いにも、瑛藍と珱里は互いに顔を見合わせ、そして笑って返すことしか出来なかった。彼女の言葉は言い得て妙であるし、反論すべき所もない。
「店の名は薫香茶房……私は店主を勤めております、瑛藍と申します。こちらが……」
「妹の珱里と申します。桃蓮様、こうしてこんなに間近でお会い出来るなんて……夢のようです」
常と変わらぬ穏やかな笑みで応じる瑛藍と、微かに頬を赤らめながら答える珱里。面差しそのものはよく似ているが、その反応は天と地ほどの差があった。
「お前達、兄妹なのかい。して、この店は何を?」
二人は揃って頷き、珱里が言葉を続ける。
「様々な“花”を主に取り扱ってございます。花の香りや花のお茶……そして……夢。一夜で散る花のごとき、儚き幻などを」
「……花の如き幻の夢、か……なかなか情緒があるじゃないか。お前達の売る夢とやらは、いくらで買えるものなのかい?」
片方の手を顎に、もう片方の手を折り曲げた肘に添えながら――単純に興味本位から飛び出したらしいこの問いに、答えたのは瑛藍だった。
「お客様次第でございます。夢は人それぞれ……決まった値段がつけられるようなものではございませんから」
「なるほど。ならばお前達は私に、どのような夢を売る?」
「……貴女様のお望みの夢を。――桃蓮様」
天井から吊るされた蛍火石の光が、大きく揺らめいたような気がした。先程まではまったく気にならなかった花の香りが、指先から身体中に浸透していくような錯覚に襲われる。
花の香りが満ちる、静かな店内。外の喧騒はいつの間にか消えていた。
鎖碧は息を呑む。
――もしかしたら、自分を追っていたあの声さえ、初めから存在していなかったのかもしれない。そう思えてしまうほどの世界が、彼女を包み込んでいた。
鎖碧にとって幸いだったのは、彼女が感じたすべてに悪意がなかったことだろうか。
*
「……どうかなさいましたか? 桃蓮様」
過去へと飛ばしていた思考を今に引き戻したのは、鼻を突きそうなほどのシナモンの香りだった。盆の上にはミルクティーが入ったグラスが二つと鮮やかな文様が描かれた砂糖壺が載せられている。それらがそのまま帳場の上へと移された。
「ああ、手間をかけさせたね。お前達と初めて会った時のことを思い出していたよ」
「お砂糖はお好みで……それはそれは、懐かしいですね、あの頃の桃蓮様はまだあんなにお可愛らしかったのに」
「お前に言われたくはないよ、瑛藍。今だって十分に可愛げがあると思わないかい? お前達はほとんど変わっていないじゃないか」
鎖碧がそう言ったのは、彼女の身の丈が瑛藍よりもわずかに勝っているからだ。瑛藍もそれをわかっており、尚且つ彼女の手前、それ以上は食い下がらずに素直に認める。
「……まあ、お美しいのに変わりはございませんが。私共に関しましては……いつかお話した通りですから」
「しかし、お前達は……いや」
言葉に詰まった鎖碧を見ながらも、瑛藍は軽く肩を竦めただけだった。
鎖碧は誤魔化すようにグラスを取り上げ、その中身を一口流し込んだ。口の中に広がる甘さは、シナモンの味が絶妙に混ざり合って、今までに飲んだことのない味だった。
「そう言えば、陛下」
二人の間に流れ始めた重苦しい空気を断ち切るように、呑気な口調で瑛藍は呟いた。
「……何だい?」
「マダム・ミモザの自鳴琴のことなのですけれど……彼女の遺言書、もしかして、貴女が偽造なさったのではないですか?」
一瞬にして悪戯がばれた子供のような顔をした鎖碧に対し、瑛藍は明らかに笑いを堪えながらそう言った。
「相変わらず鋭い子だね、お前は……偽造だなんて人聞きの悪い。せめて大衆の役に立つことをしたと言っておくれ」
「わかりますよ……明らかに筆跡が違いますし、それに、西国出身の彼女に、蓮砂の言葉で手紙が書けるとは思えない。遺言書という、ある意味正式な書類とは言え……公用語で書けば十分に伝わるでしょう?」
「筆跡……?」
疑問の声に答えるべく帳場の裏から瑛藍が取り出したのは、薄茶色の表紙の帳面だった。慣れた手つきでそれを手繰ると、強弱のない細い文字が綴られたページが開かれる。そこに記されていたマダム・ミモザの名前は、明らかに蓮砂で用いられているのとは違う、異国の文字で書かれていた。
「……迂闊だったよ。そうか、お前は彼女とも交流があったのか」
鎖碧の心底納得したような声に、瑛藍は深く頷いた。
「ええ……幸いにも。こうやってお茶を飲みながら、自鳴琴の話をよくして下さいましてね。それがご縁で、貴重な遺品の中から一つ譲って頂く機会に恵まれまして」
「だけどね、瑛藍。彼女の名誉の為に言っておくけれど、遺言として彼女が残した言葉自体は本物だよ。まあ、確かに少しばかり飾りつけはしたがね。小煩い輩を黙らせるのには、言葉より文のほうが手っ取り早い……それだけだったのさ」
「……いつもながら、貴女様の手腕には感服致します。あの文がなければ、この子も私共の元には来られなかったでしょうからね」
帳場の隅に置かれているからくり人形の自鳴琴を引き寄せ、瑛藍はそっと螺子を巻いた。店内に響き渡る明るい音色に、鎖碧もまた、冷たいグラスを揺らしながら頬を緩める。
「いい物を頂いてきたじゃないか。大切におしよ? ……まあ、言うまでもないだろうが」
「心得ておりますよ。それと……桃蓮様には、こちらを」
帳場の隅からもう一つ取り出されたそれに、鎖碧は目を丸くした。
「何だい? これは」
珊瑚で作られた小さな薔薇の花が、金色の台の上に飾られていた。その周りには宝石がふんだんに散りばめられ、鼻を寄せると、微かに異国の花の香りがする。
「……“金色の薔薇”と呼ばれる物です。ご存知ありませんか? 主に身分の高い女性への、最高の敬意の印として……西国ではよく贈られるのだそうですよ」
「これを私に? ……なかなか気が利くじゃないか」
「ええ。日頃のご愛顧も込めまして、是非貴女にと思いまして。受け取って頂ければ、恐悦至極の極みにございますよ」
自らへと贈られた“金色の薔薇”を、鎖碧は大層気に入ったようだった。じっと眺めやる様を見やりながら、瑛藍は彼女が買いに来た香水と香粉を用意するべく、作業に取り掛かる。粉にするための花を取りに、瑛藍が帳場から出たその時、不意に鎖碧が顔を上げた。
「……お前達の夢は、いつ醒めてしまうんだろうね?」
その言葉に瑛藍は足を止めると、先程と同じく困ったような曖昧な笑みを浮かべて、緩く首を傾げてみせた。
「私共にもわかりかねますが……私共の売る物を求めてこの店へと訪れる方がおられる限りは――いつまでも、この場所に」
「……そうか」
そうして、二人の言葉は途切れた。店内に流れているのは、重い空気をも振り払う力を持っているような明るい自鳴琴の音色と、店主が作業をするその音だけ。
それもほんの少しの間のことに過ぎず、買い出しから帰った女店主が扉を開けた途端に上げた悲鳴で、二人の笑い声が引き出されることになるのは――もう少しだけ先の話だ。