蛍灯と呼ばれるこの灯篭は一つ一つが職人による手作りのため、その形はもちろん、紙の色や柄までもが店によって違い、人気のある店には前の年からの予約も殺到するほどだ。裕福な貴族階級の家では、家紋入りの物などが用意されたりもする。
七月――星降月の星祭を直前に控えた蓮砂国では、毎年お馴染みの光景だった。
星降月の七日。この日は蓮砂国の民のほとんどが、日暮れと共に余所行きの支度を始める。
薫香茶房の二人の店主も、例外ではない。常よりも早い時間に店の灯りが消え、扉にもしっかりと鍵がかけられる。ほんの一時間や二時間でも店を留守にすることで、男店主瑛藍の秘蔵の収集品を盗みにやってくる者が、まったくいないとも限らないからだ。
もっとも、これから彼らがその一端を担おうとしているのは、国を挙げての一大行事だ。この日のこの時間帯に蓮砂国の内部に残るのは、わずかな警備の者達だけと言っても過言ではない。盗人さえも、この日ばかりは開店休業状態というわけである。
そして、晴れ渡った空に満天の星が輝く頃。蓮砂国は楚楼の門から、皇帝《鎖碧》を先頭に、蛍火石の灯篭――蛍灯を持った長い列が北の白天山へと続く。その数はおよそ一万。目的地は、その麓より流れ出る
人々の列は川沿いに並び、各々が携えた蛍灯が淡い光を放つ。まるで星降月の名の如く、天から星が降ってきたような、そんな眺めだと人々は言う。
始まるのは静かな祭りだ。皇帝《鎖碧》の合図と共に、最初に歌が捧げられる。
天に座しませ 我らが創神 地に立つは 我らが同胞
天より降る雨 地に咲く花 遥かなる祈り永遠 の豊穣を
金色の月 銀色の海 喜びの雨 喜びの花
金の稲穂を 銀の杯 に 喜びの恵みを 喜びの実りに
山の緑 川の光 大地の息吹 空に散りばめ
星の御魂よ 巡りて巡れ 地に還りて 天に還す
あまねく星の 命脈の輝き 眩耀の海 光芒の耀き
玲瓏たる月 示す行方 黎明の太陽 果て無き導
天より降る雨 地に咲く花 遥かなる祈り
金色の月 銀色の海 喜びの雨 喜びの花
金の稲穂を 銀の
山の緑 川の光 大地の息吹 空に散りばめ
星の御魂よ 巡りて巡れ 地に還りて 天に還す
あまねく星の 命脈の輝き 眩耀の海 光芒の耀き
玲瓏たる月 示す行方 黎明の太陽 果て無き
希望、豊穣の願い。あるいは鎮魂。あるいは遠い過去への、未来への追慕の念――様々な想いが織り交ぜられたこの歌は、蓮砂国に古くから伝わるものの一つである。国民の誰もが幼少の頃から聴き、歌い、慣れ親しんできた穏やかな旋律――蓮砂の民の心は自然と一つになり、荘厳とも言えるその合唱の声が、風に乗って河辺を流れていく。
歌が終われば、次に放たれるのは黙祷の合図だ。一転して、辺りは静寂に包まれる。虫達も声を忘れてしまったかのように、息を潜めてしまう。ごくわずかな時間ではあるが、流れる河の水音が世界を支配する一時である。
そうして最後に、皇帝鎖碧の声と共に、無数とも言える蛍灯が一斉に河に放たれるのだ。人々は灯篭に願いの言葉を書き添え、
蛍灯が河を流れていく様は、天から降ってきた星が川を流れ、また天へと還って行くようだとも称され、夏の名物として国外でも有名である。この日のために多くの観光客が訪れるという、蓮砂国の年間行事の一つだ。
“蛍火流し”――あるいは“星送りの儀”と呼ばれる、星祭の一環である。
*
千を、億を越えるかもしれない、そんな小さな星達の姿を見上げて、瑛藍は感嘆の息をついた。
古の時より世界を照らし、迷い人を導いてきた無限の光――夜空を彩る星の饗宴はいつ見ても格別であるが、こういった折りに見るものこそ、最も美しいのではないかと瑛藍は思う。何しろ、一万の民が同じ場所に集い、おそらくは同じ気持ちを――こうして、共有しているのだから。
彼が持っていた蛍灯は、既に流れて遠く見えなくなっている。蛍火が残す、流れていく星のような魂のような軌跡にもまた、瑛藍は溜め息を零すばかりだった。
「……何度見ても、決して見飽きることのない光景だね」
瑛藍は隣に立つ少女に、そう呼びかけるように呟いた。瑛藍によく似た面差しの少女珱里は小さく頷くと、その視線を同じように空へと向けた。
「飽きるはずはないわ。星の顔は、いつ見ても違うものだから。今日の顔は、明日には見られないから」
珱里が空へと向けていたのは、さしずめ、夢見る少女の瞳といったところだろうか。その横顔を見やり、瑛藍もまた、頷く。
「珱里は詩人だね。僕も見習いたいくらいだ」
「瑛藍には敵わない。私は……思うままのことを口にしているだけ」
それなら自分は思うままに生きているだけだと、そう答えようとした言葉は蛍灯のように瑛藍の口から流れてくることはなかった。周囲に満ちる人々の歓談の声に混ざって、明らかにこちらへと近づいてくる足音を聞き取ったからだ。その足音の主が誰であるのか、瑛藍は半ば無意識の内に悟っていた。珱里も気づいたのだろう。瑛藍の背後に立ったその人物に、珍しく笑みが浮かんだ。
「やあ、瑛藍に珱里。いい夜を過ごしているかね? ――相変わらず可愛いよ、珱里」
瑛藍の肩に手をかけながら、皇帝《鎖碧》は珱里のほうを向いてにっこりと笑った。その笑顔にやられたのだろう、珱里の顔が途端に赤くなる。
「……陛下、あまり珱里をからかわないでやって下さいね? 褒め言葉と貴女の瞳に弱いものですから。それに、わざわざこんな後ろにまで貴女がやって来たものですから、御覧下さい、皆様が驚かれておりますよ?」
半ばたしなめるような口調の瑛藍ではあるが、その顔はさもおかしそうに笑っていた。何しろ瑛藍と珱里がいたのは、一万の民の列の、中心に程近い位置である。先頭からここまで来るだけでも一苦労だろう。そんなところにまでわざわざ足を運んだ国の最高位の証を持つ者の姿に、視線は突き刺さるように注がれ、辺りの空気もより一層ざわついたが、気にするなというような鎖碧の素振りに、先程と同じ歓談の声を取り戻すのも早かった。神出鬼没のこの女帝のこと、どこにいてもおかしくないというのが国民の一般的な見解なのだろう。それでも時折ちらちらと視線は向けられていたが。
「何、からかってなどおらんよ。私は嘘をつけない人間でね」
珱里の反応に気をよくした鎖碧が彼女のほうへと足を運び、その頭を優しく撫でるものだから、珱里の顔はいっそう赤くなるばかりだ。端から見れば姉妹のようでもある。親子――と言ったら、さすがに双方から苦情の声が上がるかもしれない。
「それに今は……と言いたいところだが……すまんね、見苦しい格好で。駆け回るのも容易でなくてね、ここまで歩いてくるのも一苦労だったよ。いくら私とてこのような窮屈な格好で縛らずとも、逃げたりはしないというのに、まったく……お前達も、遠慮せずもっと前に来ればよかったものを」
「……ええ、そうですね。でも、さすがに貴女にお会いしたい一心で、列を乱すわけにもいきませんでしたから……こちらこそ、わざわざこんな後ろまで足をお運び頂いて、恐悦至極に存じますよ」
服装は常と違ってもその達者な口が変わっていないことに、瑛藍はどこか安堵にも似た気持ちを覚えながら、笑って頷いた。
鎖碧が頭上に抱く金の王冠には、細長い鎖の飾りがいくつもぶら下がっていた。彼女が頭を振り回す度に、それらが涼しげな音を立てて揺れる。
首飾りや腕輪、あるいは腰帯に至るまで、儀礼用の特別な造りの物が彼女の全身を彩っていた。もちろん彼女が身に纏っている服に使われている布は上物のそれで、金糸の刺繍が施された様々な色の衣を、幾枚も重ねて着込んでいる。遠目に見れば玉虫色だ。
裾は身の丈よりも長く、鎖碧はそれを両手で摘みながらここまで歩いてきたようだが、それでも所々が土で汚れてしまっていた。
美しい黒髪は高く結い上げられ、顔にも細部にまで常とは違う化粧が施されている。こんなことを言ったら笑われてしまうだろうが、今の鎖碧の姿は、瑛藍にしてみれば豊穣の女神そのものだった。蓮砂国の象徴とはよく言ったものである。
この方こそたくさんの星を抱いているのではないかと瑛藍は思ったが、女神に見えることも含めてあえて告げようとはしなかった。
「それならば……もっと動き易い服を仕立てて貰うべきだと思いますよ。ただ、蓮砂国の皇帝ともあろう貴女が、人前で肌を晒すのは感心致しませんが。それに第一……貴女のそれが見苦しいというのでしたら、私共の格好などとても見れたものではございませんよ、陛下」
「よく言う。沙羅の上物にこだわっているのはお前だろう? お前の普段着だって決して安くはないじゃないか。なあ、珱里?」
「……おや、お見通しでしたか?」
鎖碧の言葉にこくこくと何度も頷く珱里に、瑛藍は困ったように笑った。珱里の纏っている物にも、鎖碧からすれば“沙羅の上物”で括られるほどの布が用いられているのだが、この際それは些細な問題でしかなかった。鎖碧にすっかり手懐けられ――もとい、惚れ込んでいる彼女のこと、鎖碧の前では明らかに瑛藍のほうが分が悪い。
「私だってそれなりに見る目は養っているつもりさ。ところで瑛藍、珱里、お前達……一体どんな願いを捧げたんだい?」
「……取るに足りない、つまらぬことでございますよ」
根本的な問いかけにも、瑛藍は軽く肩を竦めて曖昧な答えを返すばかりだった。珱里もまた、はにかむような笑みを浮かべるだけで、その問いにあえて口を開こうとはしない。二人の素っ気ない反応に、鎖碧の眉が顰められる。お気に入りの玩具を取り上げられて拗ねてしまったような――さしずめ、そんな表情だ。
「……こういう時は冗談でも、国家繁栄と声高に答えるものだよ、お前達」
「私共が願わなくとも、貴女が治めておられる限りは……この蓮砂の国は安泰だと思いますけれどもね? ……《鎖碧》皇帝陛下?」
わざわざ、彼女があまり好まない“皇帝陛下”という単語を強調するように付け加えられたにもかかわらず、鎖碧は機嫌を損ねたりなどはしなかった。それどころか薫香茶房の二人の店主に向けて、皇帝《鎖碧》としての悠然たる笑みが返される。
「当たり前だろう? 何、
その言葉に応えるかのように、辺り一帯を穏やかな風が吹き抜けた。涼やかな虫の声が、凛と辺りに響き渡った。星の輝きは先程までと変わらず、地上を見守るように燦然としている。それらはどれも心地よく、当たり前のように身体の隅々まで染み渡っていくような自然の営みだった。
晴れ晴れとした表情の鎖碧と、嬉しそうに笑って彼女に飛びついた珱里を見やりながら、瑛藍は、満足そうに大きく、しっかりと頷いた。
「……それは頼もしい。大いに期待しておりますよ? ――では、そろそろ貴女がいるべき位置に、お戻りになられませんか?
最後の蛍灯が彼らの目の前を過ぎていったところで、瑛藍はそう締め括った。事実、この喧騒の中にいつ大の大人の泣き声が混ざり始めるかは、最早時間の問題だ。それでも鎖碧は半ば口を尖らせながら答えた。
「おや、せっかちだね。では、行こうか……お前達なら当然、この私を一人であの二人の元へ帰したりはしないだろう?」
*
そうして、薫香茶房の店主達までもが皇帝《鎖碧》に連れられて最前列に向かった頃――たくさんの蛍灯達に混ざって、一つの蛍灯が河と海の境目を越えようとしていた。
薄桃色の紙が貼られ、淡い紅色の蓮花の模様がいくつも描かれたそれは、薫香茶房の向かいにある雑貨屋の店主が、精魂込めて作り上げた灯篭の一つだった。
その蛍灯が他と違っていたのは、星花のそれとはわずかに違う香りを纏っていたことだった。ほんの数日過ごしただけの店の香りが移ってしまったのだろうが、それは当の店主達でさえ気づかなかったくらいのほのかな香りで、また、店主達の衣服にも染み付いている、言わば馴染みのありすぎるものでもあった。
店主達がそのことを知ったところで、香りに足がついたのだとか、彼らも旅に出たかったのだろうなどと答えて、互いに詩人だとまた言い合うばかりだろう。
その灯篭には、明らかに筆跡の違う二つの文字が並んでいた。
“無病息災”
“商売繁盛”
星を見送れば、この蓮砂国にも本格的な夏がやってくる。