「鶴ですか……懐かしいですね。昔……よく、折りましたよ」
 昔取った杵柄とはよく言ったもので、久しく手にしていなかったそれがしっくりと手に馴染むのを瑛藍は感じた。“客席”に座る婦人を前に、慣れた手つきで鶴を折り進めていく。記憶の奥底には、鶴の折り方もちゃんと仕舞い込まれていたらしい。
 帳場の上では数羽の鶴が既にその翼を広げており、他にも色とりどりの千代紙が散らばっていた。瑛藍の側では、珱里が同じように鶴を折っている。帳場の上の千代紙がすべて鶴へとその姿を変えるまでに、さほど時間はかからないだろう。
「……千羽折ったら病気が治るって、あの子、信じて疑っていないのよ……治るかどうかもわからないのに」
 花の香りが漂うこの店に千代紙を持ち込んだ貴婦人が、溜め息交じりの声で呟く。その穏やかで落ち着いた妙齢の女性の声を、相槌を挟みながら聴いていた瑛藍は、最後に一つ大きく頷いて笑った。
「まあ、その信じる力こそが生きる糧となるというのは、よくある話でしょうから。皆で折って差し上げましょう? 他でもない茅菜カヤナ様のご子息ですから、我々も出来うる限りご協力致しますよ――」



第六話 千鶴舞夜



 本来ならばいるはずのない場所に、彼女はいた。
「……本当に、ここで……いいのかしら……?」
 まるで異世界に一人迷い込んでしまったかのような声で、珱里は独り言ちる。だが、望む望まざるに関わらず、答えらしき答えはどこからも返ってこなかった。
 彼女が手にしているのは、桜の柄の風呂敷包みと一枚の紙切れだ。風呂敷包みのほうは膨らんではいるものの、珱里の細い腕でも十分に持てるほどの軽さで、一見して地図とわかる紙切れには、碁盤の目のように正確に区切られた中に、赤い丸印と番地らしき数字が記されている。その印のある場所が、おそらくは彼女の目指している場所なのだろう。
 その地図は、蓮砂国の中でも滅多なことでは入れないと言われる世界、羽堂の物だった。そして、珱里が立っているその場所も、また。
 羽堂は蓮砂国の東――いわゆる皇族や貴族に名を連ねる者達が住む一角で、皇帝《鎖碧》が幼い頃を過ごしたのもこの羽堂である。地図の上では北の楚楼、南の蛍斗とそれぞれ接しているにもかかわらず、中央の蓮砂宮を介してしか内部に入ることができない、ある種特別な世界だ。
 言うなれば、逆に彼女のような祭邑の民は滅多に立ち入ることのできないような領域なのだ。
 それにもかかわらず、珱里は、たった一枚の地図と風呂敷包みだけを頼りに、この羽堂の地に足を踏み入れていた。
「……この辺りのはず、だけれど……」
 種々雑多な彩りと華やかさを持つ祭邑とは違って、羽堂は丁寧すぎるほどに区画整備がなされていた。珱里は心底珍しいとでもいったような眼差し――田舎者丸出しと言っていいかもしれないそれで辺りを見渡しながら、白い石畳の上を目的地へと向かう。
 道沿いに淡い色合いの花が植えられ、一定の間隔でもって豪華な作りの――きっと灯りがついたらきらきらと輝くのだろうと、そんな夢想染みた考えにすら及ぶような飾りがいくつもぶら下がった――蛍灯が並んでいる。
 誰も通らないかもしれない道を、この蛍灯達は毎日照らしているのだろうか。ふと頭を過ぎったそんな考えを追い払うように、珱里は軽く頭を左右に振った。家があれば住んでいる者がいるのだ。誰も通らないなどということはありえない。
 こうしてつまらない考えにとらわれている間にも、時間は刻々と過ぎていく。ただでさえ約束の時間を少し過ぎてしまっているというのに。
 けれども、実際――祭邑の喧騒に慣れている彼女がそう思うのも無理はなかった。並ぶ家はどれも煉瓦でできていて、あの小さな店が丸ごと収まってもなお余りあるくらいの広い庭で自らの美しさを競い合っているのは、祭邑には決して咲かないような可憐な花達だ。
 どこまでも真っ直ぐに続いていく町並みと、言いようのない開放感。静かで落ち着いた、祭邑では決して味わうことのできない新鮮な空気。額に入れればそのまま一枚の絵画になりそうな――珱里の目の前に存在しているのは、そんな風景であり、そんな別世界だった。
 それなのに、かえって息苦しさを覚えてしまうのはなぜだろうと珱里は思う。すれ違う人もいない。祭邑ではそんなことはありえない。まだここに来てからほんの数十分ほどしか経っていないはずなのに、早く帰りたいという思いにばかりとらわれる。あの店には瑛藍か珱里のどちらかが残っていなければならなかったとは言え、珍しい物や場所が好きな男店主が進んでこの地へ足を踏み入れようとしなかったのが、何となくわかったような気がした。
 どうせなら店を臨時休業にしてでも連れてくるべきだった――と、今更恨めしく思ったところで、目的を果たさぬままに引き返すこともできないのだが、それ以前に目的の場所が見つからないのであれば、その目的すら果たしようがない。珱里は少しばかり途方に暮れながら、手にした地図を食い入るように覗き込む。
 何せどの家も同じに見えるので、どれが目的の家なのか珱里にはわからないのだ。
 祭邑に帰るための目印の一つである七重楼閣も、ここからだと随分と遠く見える。住み慣れた場所を離れてしまったことを実感する。
 だからと言って、どこかの家に転がり込んで道を聞くのも気が進まない。聞くは一時の恥であるという問題ではない。紅色の着物という、その身なりからして羽堂の民でないと明らかにわかる彼女に対し、果たして、優しく道を教えてくれるような人がこの羽堂にいるのだろうか。珱里の中にはそんな先入観が深く根を下ろしていた。
 見ず知らずの世界に――事実そうではあるのだが―― 一人取り残されたような気になって、珱里はその場を逃げ出してしまいたいと心の底から思った。どうしようもない心細さばかりが、彼女の心を満たしていく。羽堂を抜けない限り、どこまで行っても同じ景色が続くだろうことはわかっていたが、この場にいたら見えない何かにあっと言う間に押し潰されてしまいそうだった。
 それでもその場から逃げ出さなかったのは、彼女が携えている荷物の重みを感じたからであり、そして、
「――珱里さん……?」
視界の隅に、見覚えのある女性の姿をとらえたからであった。

「茅菜さん……!」
 おそらくは、約束の時間を過ぎても現れない珱里を探しに出てきてくれたのだろう。長い黒髪を結い上げ、羽堂の民しか着ることを許されない白と紫の着物を纏った女性に、珱里は思わず――自身も紅の着物を着ていることを忘れて駆け寄った。それでも転んだり躓いたりしないのは、ひとえに慣れのせいもある。祭邑の町には様々な物が転がっていて、平らな道などほとんどないに等しいのだから。
「……どの家も皆同じような姿をしているから、迷ってしまったのではないかと思って」
 迷っていたのはまさにその通りであり、また、約束の時間に遅れてしまったことも合わせ気恥ずかしさと申し訳なさで一杯になるが、正直、彼女の出現は今の珱里にとって、天の助けそのものだった。茅菜はくすくすと上品に笑いながら振り返り、視線の先にある家を指し示す。
「少しだけ惜しかったわね、家はすぐそこだったの。琉真リュウマも待っているわ」
「……お、お待たせしてしまいまして、申し訳ありません……っ」
「いいえ、いいえ、お気になさらないで。こうして来て下さっただけでも……とても嬉しいわ。こんな遠いところまで、よくいらして下さったわね、珱里さん。大変だったでしょう? ……さあ、どうぞ?」
 茅菜に伴われて大きな門を潜ると、玄関の扉まではまだ距離があった。白亜の屋敷は遠目に見てもとても美しく、左右いっぱいに見渡せる庭はやはり、あの古びた店を建て直してもなお、余りあるような広さを持っているようだった。そもそも、これほどまでに広い庭のある家など祭邑には存在しないし、ましてや――庭に立つ木や咲く花の手入れをする庭師など、珱里は今までに見たことがなかった。
 見る物すべてが珍しいが、だからと言って庭を見るためにここへ訪れたのではない。初老の庭師に会釈をして、珱里は茅菜の後について家の中へと足を踏み入れる。
 その瞬間に鼻腔を擽った花の香りは珱里にも覚えがある物で、途端に安堵の息がこぼれた。
「……使って頂いているんですね、あの子達……ありがとう、ございます」
「ええ、勿論……お二人の作って下さる香り、私だけでなくあの子も大好きなのよ。だから、いつも助かっているわ。こちらこそ、ありがとう」
 その香りの元は、蓮砂の花である薄紅色の睡蓮と桜、そして紀千河沿いに咲く月灯花の甘酸っぱい香りを混ぜ合わせた薫物である。茅菜はそれを求めて数ヶ月に一度薫香茶房へ訪れる、いわば常連客の一人だった。蓮砂国の皇帝である《鎖碧》もそうであるように、薫香茶房には一種変わった客が多い。
 そもそも羽堂の民が自ら祭邑に足を運ぶことは滅多になく、茅菜は羽堂においては変わり者と言えるような存在に等しい。だが、茅菜の生まれは祭邑であると聞けば納得の行く者も多いだろう。町の見回りに来ていた彼女の夫である琉桂リュウケイに見初められてしまったのだと、頬を淡く染めながら話してくれたのは珱里の記憶にも新しい。周囲、主に琉桂側の親族達の猛烈な反対を乗り越えて結婚した経緯も、事細かに聞き出すことに成功している。
 そんな彼女から息子が病に臥せっていると聞いたのは、つい先日のことである。一人息子の琉真は今年で八歳になる。珱里が彼に会ったのは、一年ほど前に茅菜が店へと連れてきたその一度きりで、面識があるとも言い難いが、普段から好意にしてくれている彼女の息子ということもあり、ぜひ見舞いにと申し出たのだった。
 けれども、彼女にとっては未開の地でもある羽堂に一度でいいから足を運んでみたかったというささやかな下心があったのは、必ずしも否定できない。
「それじゃあ……早速琉真に会わせてあげなくちゃ……ね?」
 茅菜はそう言って椅子から立ち上がると、この部屋に入った時に潜った扉とは別の扉の前に行き、珱里を手招いた。察するに、おそらくは琉真の部屋へと続いているのだろう。
 珱里が側まで来たことを確認してから、茅菜は軽く扉を叩き、取っ手を引いた。やはり珱里が想像した通りの大きな部屋だった。
 きちんと整頓された机があり、文庫本程度の物から分厚い辞書のような物まで何冊もの本が詰め込まれた本棚があり、床には上物の絨毯が敷かれ、様々な玩具やぬいぐるみが投げ出されてあった。目的の人物が目に入るのはすぐだ。茅菜の背中の向こう、部屋の一番奥の窓際に白いカーテンの天蓋つきの――童話や御伽噺のお姫様が寝るような物だというのが珱里の第一印象である――広いベッドがあり、まだ年端も行かない少年がそこにいた。その姿は、部屋やベッドの大きさに比べると、あまりにも小さく見えた。
「琉真、お姉ちゃんが来て下さったわよ。ご挨拶して?」
「……っ、あ、の……珱里です、こんにちは……っ」
「お姉ちゃん? ……ねえ母様、ぼく、お姉ちゃんのこと知ってるよ。祭邑の人でしょ? お姉ちゃん」
 緊張のせいで声が震えていた珱里とは対照的に、琉真の第一声は何ともあっけらかんとしたものだった。そして子供ゆえの、偽ることを知らない純粋な言葉に、珱里は驚きと喜びを覚えずにはいられなかった。
 思わず茅菜のほうを見てしまうが、茅菜はというと、大して驚いている様子もなくにこにこと笑っているだけである。
「……ね、珱里さん。だから琉真は貴女のことを待っているって」
「覚えていてくれたの? 琉真君……」
 ベッドの上には、何羽もの折り鶴が散らばっていた。柄は様々であるが、よく見ると形そのものが歪であったり、ところどころ不自然な場所に折り目がついていたり、裏側の無地の白い部分が垣間見えていたりする。
 そして少年はちょうど――紺地に白の矢絣柄の千代紙で、一羽の鶴を折っている最中だった。
「うん、祭邑に行ったのはあの時が初めてだったから、覚えてるよ。お花のいい匂いがするお姉ちゃん。珱里お姉ちゃんていうの? ぼくは琉真だよ」
 少年は、一年前に会った時とさほど変わらないように見えた。寧ろ、かえって小さく、痩せてしまったかのような印象すら受ける。子供の成長は早いものであるから、普通に考えると幾分か大きくなっているはずなのだが、痩せ細ってしまったのが病のせいであるというのならば、それも容易に納得が行く。
 少年の病は決して軽くはないのだろう。性質の悪い精霊に身体の肉を削られてしまったようで、痛々しい。
「――奥様」
 そこに再び、今度は外から控え目に扉を叩く音と、茅菜を呼ぶ声が響いた。茅菜はすぐに返事をし、扉へと向かう。言伝を携えてやってきたらしいのは、彼女の部屋に来る途中でも見かけた給仕の女性のようだった。二言三言言葉を交わした茅菜は、申し訳なさそうに二人の元へ戻ってくる。
「……ごめんなさいね、珱里さん。急なお客様がいらしたみたいなの。宜しければ……ゆっくりしていらして? 何かあったら……琉真もいるし、彼女が廊下にいるから……伝えてちょうだいね。琉真、お姉ちゃんがいらして下さったからって……はしゃぎすぎないのよ?」
「はあい、ママ。大丈夫、悪いことはしないよ!」
 何とも頼もしい答えである。自分の前ではしゃぐというのも何だか変な話だと珱里は思ったが、茅菜がそう念を押すからには、あながちないとも言い切れないことなのかもしれなかった。そうして茅菜の姿は扉の向こうへ消えてしまう。給仕の女性もまた、洗練された優雅な一礼と共に、茅菜に続いて足早に扉の向こうへ消えてしまった。珱里が息を飲み、口を開くまでのわずかな間の出来事だった。
 扉の閉まる音というのは、時に世界そのものを隔ててしまう。また後で―― 一時の別れの言葉や、ありがとうございます――いくら口にしても足りない礼の言葉――言おうと思っていた言葉のすべてが、消化不良のまま珱里の喉元で煙を上げた。
 少年と二人、言わば取り残されてしまった珱里は、どうしたものかと逡巡した末に、ベッドの側に置かれてあった椅子にぎこちなく腰を下ろした。別に椅子に座るだけなら咎められるはずもないだろうに、せめてその許可だけでも前もって取っておけばよかったと、今になって後悔する。
 腰を下ろしたことでより琉真と目線が近くなるが、彼の目線は既に、手の中にある鶴になりかけの千代紙へと向けられていた。別に声をかけられることを拒んでいるわけではないのだろうが、声をかけようにもかけられない雰囲気であるのは明らかだ。何より、集中しているのならば邪魔はしたくない。
 沈黙が場を支配するのもすぐのことだった。何か話題を探さなければならない。例えば――
「ねえ、お姉ちゃん。お姉ちゃんは、本物の鶴を見たことある?」
「……え? ……う、ううん、本物の鶴は見たことがないわ。うんと昔に、鶴が出てくるお話を読んだことがあるくらいで……」
 それは今まさに珱里が発しようとしていた問いかけそのものだった。先手を打たれてしまうと、かえって言葉に詰まる。珱里は自分自身に落ち着くように言い聞かせながら、何とか答えらしき答えを繋いだ。
「……そっか……そう、だよね。ぼくも図鑑とか絵本でしか見たことがなくて……だからぼく、いつか本物の鶴が見たいんだ。冬になったら白天山の向こうの華峰河に鶴が来るって聞いたから、見に行きたくて……だから、早く病気を治したい。でも……母様もお医者様も、いつ治るのか教えてくれないんだ。もしかしたら、ぼくの病気はもう治らないのかもしれない……」
 ころころと変わる表情や声色は、さすが子供のそれだと珱里は思った。けれど、次第に元気をなくしていく様を見ると、はたして一番相応しい言葉を見つけられるのだろうかと不安にも駆られる。
 少年が病に臥せっているとは聞いていたけれど、詳しい病名や病状までは聞かなかった。茅菜に聞けば教えてくれたのかもしれないが、わざわざ尋ねてまで聞き出そうとするのも気が引けるし失礼だろう。
 だが、少年の病気は、彼が思っているように不治の病かもしれないのだ。その可能性をないものにすることは出来ない。そして、仮にもしそうだとしたら――この少年にも、そして少年の母親にも、一体どのような言葉を返せばいいのかわからない。
「でも、千羽鶴を折ったら病気が治るって、友達が教えてくれたんだ。友達も折ってくれてるっていうし、ぼくも、たくさん折るんだ」
 琉真という少年はあまりにも素直だった。幼さゆえの純粋な心を、おそらくは彼自身が気づかぬままに、生きる糧へと変えていた。
 千羽の鶴を折り上げれば、病が治るという逸話は珱里も聞いたことがある。だが、それはおとぎ話の中の一説であって、実際にどこかで起こったという話は知らない。

 鶴は幸せを運ぶ使者だとも言われている。あるいは、長寿を象徴する鳥であるとも言う。
 琉真にとっての今一番の幸せは、彼が侵されているという病が完治することだ。

 ――だが、千羽の鶴を折ったとしても、少年の病が治るとは限らない。

「……ねえ、お姉ちゃん、千羽の鶴が完成したら、ぼくの病気は治るよね?」
 気を抜けば容易く押し潰されてしまいそうな窮地に立たされた時、すがりつけるような何かさえあれば心を保つことが出来る――というのはよくあることだと、瑛藍が言ったのを覚えている。例えばこの少年の場合は――いつか本物の鶴を見たいという夢そのものであり、千羽の鶴が完成すれば不治の病が治るという、その揺るぎない信念なのだろう。
 確かな強さを、珱里は感じた。ささやかな、けれどとても大きな夢も、根底で揺らぐことのないその信念も――確かな強さだと、珱里は思った。もしも今、一つ願いが叶うのならば、すぐにでもこの少年の病を治して欲しいと願わずにいられないほどに。
「ええ、きっと治るわ。だって、病気を治さなきゃ、本物の鶴に会いに行くことが出来ないでしょう? ……そうだわ、今日はね……琉真君のためにお姉ちゃん達が作った鶴を持ってきたの。琉真君のお布団の上に、広げても大丈夫?」
 琉真が頷くのを見て、珱里は持参した風呂敷包みを解いた。窮屈な場所に閉じ込められていたのがやっと解放されたかのように、少年の周りには何羽もの色とりどりの鶴が散らばった。多少少なめに見積もっても百羽はいるだろう。
「わ、あ……っ! すごい、お姉ちゃん、こんなにたくさん折ってくれたの?」
「私だけじゃないわ。お店に来て下さったお客様も、琉真君が早く元気になりますようにって、折ってくれたのよ」
 瑛藍と珱里が客を待つ間にのんびりと折っていたものがほとんどであるが、その間に訪れた客は運がよかったのか悪かったのか、半ば無理矢理折らされる羽目になった。それは蓮砂国の皇帝である鎖碧であっても同じことだった。それでも、押し付けられた割に嫌な顔をする者は誰一人としていなかった――どころか、懐かしいと夢中になってくれた者のほうが多かったことは、少なくとも珱里にとっては救いだった。
 ちなみに鎖碧が自ら折ったのは、赤地に白い鶴と宝船、そして梅の花が散らされた千代紙の鶴である。昔よく折ったと、そう目を細めて笑っていたのが鮮やかに珱里の頭を過ぎる。他にも紺地や白地など、同じ柄で色違いの千代紙はあったのだが、よほどこの色が気に入ったらしく、五羽ほど紛れているそれはすべて彼女の手によるものだ。
 ご利益があるといえば多分にあるだろうが、鎖碧が薫香茶房に来ていることは形だけでもお忍びとなっているので、その事実を明かせないのは残念と言えば残念である。
 けれども、仮にも蓮砂の皇帝である人が、祭邑の片隅にあるこじんまりとした店で茶を片手に鶴を折っていた――そんな話をしたら、はたしてこの少年はどのような顔をするだろう。想像するだけでもきっと楽しい。
「……あ、ねえ、お姉ちゃん、これ……一羽だけ大きさが違う?」
 小さな鶴の山の頂上にあった大きめの鶴を、琉真はそっと取り上げた。白地に小梅柄という至って単調なものであるが、周りの鶴に比べても、それは明らかに一回りほど大きい。
「ああ、それは……お買い物をした時にね、それにお菓子が包んであったの。綺麗だから取っておいたのだけれど、ちょうど千代紙と同じ形だったから……鶴にしてみたのよ。だめ……だったかな」
「ううん、そんなことないよ! ……何だか、いい匂いがするね。これ、お姉ちゃんのお店の匂い? それに……大きいから強そう」
「お姉ちゃんのお店の香りも、琉真君が元気になりますようにって言ってるわ。強そうだなんて……そんなに大層なものでもないのよ? ただ、この鶴にはね、おまじないを込めてあるの。だから、琉真君が元気になりますようにっていうお願いは、他の鶴よりも少しだけ多く込められているかもしれない……あ……お姉ちゃん、もうそろそろ帰らなくちゃ」
 ちらりと見えた窓の外は、すっかり日も暮れかけていた。夕焼けの色が消えてしまう前に祭邑の門を潜らないと、間違いなく道に迷ってしまう。茅菜に言えば送ってくれるかもしれないが、そうなると茅菜も一人で帰ってこなければならない。さすがにそこまで世話はかけたくなかった。
「お姉ちゃん、もう帰っちゃうの?」
 寂しそうに見上げてくる琉真の頭を、珱里はそっと撫でてやる。さらさらと心地いい感触で、琉真もまた、くすぐったそうに目を細めた。
「うん……ごめんね? でも大丈夫、きっと琉真君の病気は治るから。そうしたら、また、お店に来てくれると嬉しいわ」
「……約束だね? うん、ぼく、約束は守る。今度は一人で行けるようになるよ。だから、指切りしよ、お姉ちゃん! 鶴、こんなにたくさん持ってきてくれて、ありがとね」
 そうして差し出された少年の小指に、珱里はそっと自身のそれを絡めた。少年の小さな指先は、とてもあたたかかった。
 この約束も琉真にとっての生きる糧になりうるのであれば、珱里としてもこれ以上のことはない。

 茅菜との別れの挨拶も一言二言で済ませたのみで、珱里は急ぎ足で茅菜の家を後にした。またいらしてね、と茅菜が笑って見送ってくれたのは、珱里にとっては幸いだった。既に道沿いに並ぶ蛍灯にも祭邑の七重楼閣にも灯りが点っているような時間で、窓から見送ってくれた琉真に大きく手を振り、珱里は祭邑にある自身の家と戻っていった。
 結局、その日は薫香茶房にも客らしい客が訪れることはなく、瑛藍は大いに暇を持て余してしまったらしい。そのため、店を閉めて彼女と共に見舞いに行けばよかったなどと案の定こぼしたりしたのであるが、珱里はあえて聞かない振りをした。

 そして琉真は、珱里から受け取った鶴の中で、一番大きかった小梅柄の白い鶴を特に気に入ったようだった。普通なら広げずに繋げるのが千羽鶴であるが、その鶴に限っては、琉真は空気を入れて、その翼を広げてやった。千羽の鶴が完成したら、その一番上に飾るつもりだった。
 鼻腔を擽るのは、お菓子のそれではない、別の甘く優しい匂い。それは、家の中を満たすほのかな花の香りに似ていた。
 数ヶ月に一度、祭邑に出かけた母が必ず持ち帰る、琉真も好きな香り――だから、安心するのかもしれなかった。

 ――事実、乾燥させたいくつかの花々がその鶴に折り込まれていたのであるが、そのことに少年は気づかなかった。
 図らずもそれを枕元に置いて眠ったことで、瑛藍や珱里がその鶴に仕掛けた“まじない”に、琉真は気づかぬ内にかかってしまっていた。

 その夜、琉真は夢を見た。とても鮮やかで、穏やかな夢を見た。
 夢の中で、彼は空を飛んでいた。心地よい風を一杯に受け、果てしない空を飛んでいた。
 それも、一人で飛んでいたのではない。
 ――彼を乗せて飛んでいたのは、花の香りを纏う一羽の折り鶴だった。白地に小梅の柄の、とても大きな鶴だった。触ればちゃんと紙の感触が返ってくる。それなのに、千代紙の鶴は、少年を乗せて風を切り、遥か彼方まで広がる大空を舞っていた。
 加えて、彼の周りにはたくさんの鶴が飛んでいた。彼を護るように、彼に寄り添うように――彼が図鑑で見たそのままの鶴達が、色鮮やかな美しい翼を広げていた。
 眼下に見える世界。華やかな蓮砂国の町並み。上から見ても壮大な雰囲気を感じる蓮砂宮と、それを囲む四つの町――様々な色が混在する祭邑、白亜に彩られた羽堂、そして楚楼から立つ煙や蛍斗の山々。遠くに見える白天山と紀千河。沙羅国へ続く一本の長い道と、黄金の稲穂が実る平野。東の果てを越えれば、どこまでも青く深い海が続いている。
 夢の中の世界は、琉真にしてみれば見たことのないものばかりであるはずだった。だが、不思議と、どれもずっと前から知っていたような気がした。
 そして琉真は、この鶴に乗って皆に会いに行きたいと思った。父や母や屋敷の皆、友達や、何よりもこの鶴を折ってくれたあの人に――

*

 夜が明けて目が覚めた時、琉真の心は言いようのない満足感と充実感に満たされていた。
 夢を見たのだ。どんな夢を見ていたのかは思い出せないけれど、とても楽しかったのは本当の話で――
 なぜだか、心にずっと重くわだかまっていた何かが、すっきりとこぼれ落ちて消えてしまったような気がした。
「……あれ……鶴は?」
 夢を思い出そうとしばらく考え込むが結局思い出せず、代わりに枕元に置いてあったはずの鶴がいなくなってしまっていることに気づく。慌てて辺りを見渡すと、まるで風に乗って飛んでしまったかのように、ベッドの下に落ちていた。
 こちらを向いているその顔が拾ってくれるのを待っているように見えて、琉真はごく自然にベッドから降り立ち、覚束ない足取りながらも鶴の元へ歩み寄った。後はしゃがみ込むだけで、鶴を拾うことが出来る。
 扉を叩く音がしたのはその時だ。
「――琉真、起きている? ……入るわね」
 やや遅れて母――茅菜の声がして、そして、扉が開いた。
「あ、ママ……」
 はた、と、視線がぶつかる。茅菜の眼差しは何か信じられないものを――それこそ、夢でも見ているようなそれに似ていた。
「琉真……あなた……!」
「ママ……ママ、苦しいよ」
 駆け寄ってきた茅菜に抱きしめられて、琉真は小さく呻き声を上げる。
「大丈夫ね? ……もう、大丈夫なのね?」
 すぐに腕の力を緩めた茅菜の前で、琉真は鶴を拾い、しっかりと頷いてみせた。茅菜の瞳から涙が溢れた。

“病は気から”という言葉がある。琉真の場合はまさにそれであった。庭の桜の木に登って遊んでいたところ、ふとした弾みに落ちて足の骨を折ってしまったのである。
 幸い、完治するまでにさほどの時間はかからなかった。だが、それ以来、琉真は自分の足で立つことが怖くなってしまった。足は当の昔に治っているのに、琉真の心が、自身の足で立ち上がることを拒んでしまった。学校に行くことも出来なくなり、家のベッドの中で過ごす日々が続いた。

 心の病で休んでいる彼の元に見舞いに来た友人が、千羽の鶴を折ると病気が治ると言い出した。何気ない一言であったが、それでも、琉真の気持ちを奮い立たせるには十分だった。
 自分自身の力だけでは、彼は心の病に打ち勝つことが出来なかったのだ。強い拠りどころとなる、自分以外の“何か”が、彼には必要だったのである。
 彼が鶴を折り始めたのを見て、母である茅菜も一緒に鶴を折るようになった。彼女だけではない。父や、屋敷に仕えている者達も、仕事の合間に千代紙に手を伸ばすようになった。
 そうして、その話が薫香茶房の店主達の耳にも届いた。もちろん少年の病のことは詳しく知らなかったけれど、せっかくならば、普段世話になっているその礼に、何か自分達に出来ることをしようと――そう言い出したのは珱里だった。その結果が、琉真に望む夢を見せるというものだった。

 彼らの仕事は“夢”を売ることである。香りに混ぜて、花に添えて、様々な“夢”を見せることが彼らの仕事である。
 夢というのは曖昧なもので、一夜限りの甘い幻にしかならない夢もあれば、時には見た者の人生を変えてしまうほどの力すら持つことがある。
 だが、眠っている間に彼らが見せる“夢”を見た場合、起きた時には誰もが忘れてしまうのだ。彼らの“夢”は強い力を秘めており、見た“夢”の姿によっては――かえって“夢”に縛られてしまうこともある。夢は夢であり、必ず現実へと戻ってこなければならない。けれども、夢に溺れてしまったら、現実へと戻ってくることが不可能になる――それだけの可能性をも、同時に秘めているのだ。
 だから、見た“夢”の内容自体は、それこそ香りがいつか消えるように、“夢”から覚めるのと同時に消えてしまう。ただ、“夢”を見た後の言いようのない気持ちだけが、胸の奥に甘く痺れるような心地を残すのである。
 彼らに言わせるならば、この“夢”のお代は“琉真が少しでも早く元気になること”と言ったところだろう。彼らが仕掛けるのはちょっとした切欠であり、その後にどうするかは、彼らの“夢”を見た者自身に委ねられているのだ。
 ただの夢だと甘い陶酔感に浸るだけの者もいれば、それすら生きるための力に変えてしまう者もいる。

 それが、薫香茶房の店主達が売る“夢”なのである。


20041218




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