だが、その“気まぐれ”は、大抵の場合は何らかの変化を彼の周りにもたらすことになる。
それは、淀みなく流れる大河に投げ込まれた小さな石のようなものだ。
大きな波紋となって広がったとしても一瞬の出来事に過ぎず――あっと言う間に消えてしまうような泡沫の夢に似ている。
ともかくもそれまで読んでいた赤い表紙の本を不意に閉じると、瑛藍は重い腰を上げた。両肩をゆっくりと回して揉み解し、ついでに首の後ろを軽くさすってから、すぐ後ろにある鍵つきの戸棚を開き、探るように手を伸ばす。
上段の隅に置かれていた白い小さな壺と下段の奥で眠っていた鉄製の香炉をそれぞれ取り出し、帳場の隅に据えた。
次に足を運んだのは女主人のいない台所で、程無くして濡らした布巾を手に戻ってくる。香炉に薄っすらとついた埃を拭い、さらに乾いた布でわずかな水気をも拭き取って、どうやら準備は完了らしい。ついでに帳場の台も拭いてから、濡れ布巾は台所へと帰っていく。
「……さて」
常と変わらぬ明るさの店内を見渡してから一息ついて、瑛藍は壺の蓋を手に取った。青い花の模様が描かれた白い壺で、中はそれとは対照的に漆のような黒い練り物で満たされている。
瑛藍は鼻歌を交えながら、細長い銀の匙で一杯分――親指の爪ほどの量を掬い上げると、それを手のひらで挟み込むようにして丸め始めた。どこかの店で売られている咳止めの妙薬の中に紛れても気づかないような、小指の爪ほどの大きさの丸い粒が出来上がる。
それを三粒用意すると、香炉に放り込んで手際よく火をつけた。その粒の大きさには到底見合わないほどの量の煙が、あっと言う間に店内を満たしていく。
鼻を突くような匂いだったが、瑛藍はさほど気にする風でもなく視線を扉のほうへと巡らせた。蛍火石の灯りが淡く明滅し、扉が開いて空気と煙が流れ出る。
「……おう、相変わらず気合いの足らねえ面してやがるなあ、坊主?」
開口一番そんな台詞を吐きながら空気の流れに逆らうように入ってきたのは、瑛藍もよく知る男だった。大柄なその身体に隠れるようにして、沙羅国風の衣と外套に身を包み、長い髪に紅玉の簪を挿した少女が小さく頭を下げる。
「……いらっしゃいませ、
「殿はいらんと何度言ったらわかるんだ。くすぐってえだけだ。まあ、いつものやつを頼むぜ」
帳場の前に鎮座している椅子にどっかりと腰掛けながら、秀和は言葉の通りくすぐったそうに無精髭をかいて笑った。悪気のない、気さくな笑みである。
瑛藍も――了承したと言わんばかりに軽く肩を竦めて返しながら、帳場の裏に積んである椅子の一つを取り上げ、秀和へと託した。
「宜しければ、そちらのお嬢さんに。“見知らぬ男”の前で父君の膝の上というのも……お恥ずかしいでしょう?」
「お、なかなか気が利くじゃねえか。ほれ、
「お嬢様でございますか? ……随分と可愛らしくていらっしゃる。簪も、よくお似合いですよ」
様々な色が控え目に散りばめられた、透明な紅玉。それが二つ並んで木製の芯に通された簪が、祭邑でも名の知れた簪職人である秀和の手による物だということは、瑛藍にはすぐにわかった。彼以上に精巧な簪を創り上げる人物を、瑛藍は知らないからだ。
「よせやい、世辞を言ったって何も出やしねえ。そうさ、これは……あれの忘れ形見だ。名は美玲。可愛いもんだろ? 顔も可愛けりゃ器量もよしと来たもんだ。手放すのが惜しいくらいでな」
「……将来、彼女の旦那様となられる方は、さぞかし苦労なさるでしょうね」
「当たり前だろうよ。そんじょそこらの男にゃ美玲はやれん」
少女――美玲はどこか不安げにそわそわとしていたが、秀和に促されるまま、ちょこんと椅子に腰掛けた。おずおずとこちらを見上げてくる視線を、瑛藍はそっと見返して、頷く。
美玲の表情が、心なしか和らいだように見える。この蓮砂国を治める女帝が“坊や”だの“優男”だのと称する顔が役に立つのは、女が主を勤める店に買い物に行く時やこういった時ばかりだ。
「……はじめ、まして」
たどたどしく告げられるその言葉に、瑛藍は目を細めて再度頷いた。
「――“はじめまして”。瑛藍です」
“それ”がいつから始まったのか、瑛藍は正確には覚えていない。ひどく昔のようで、あるいは昨日のことのような気もする――
言うなれば、夢を見せることを生業としている彼が、逆に夢を見せられているようなものだ。
ただ瑛藍にとって確かなのは、この秀和という男と美玲という少女が連れ立って薫香茶房へと訪れた時に繰り返されるすべてが、“現在”ではなく“過去”であるということ――それだけである。
それはまるで、螺子を回すと何度でも同じ音色を奏でる自鳴琴のようだった。だが、紡がれる言葉は自鳴琴の歌声よりもずっと哀しいものだった。
「すぐに準備致しますから、少々お待ち下さいませ」
瑛藍は帳場の隅に置き去りにされたままの小さな壷の蓋を取り上げ、銀の匙で練り物を掬った。陶の皿の上に先程と同じ大きさのそれを五粒用意すると、ようやく煙の収まってきた香炉の中に二粒放り込んだ。残りの三粒は皿の上に置いたまま、瑛藍は帳場から歩み出る。
秀和は訝しげに店内を見渡しながら、俄かに眉を顰めて鼻をひくつかせた。
「しかしよう、坊主。相変わらず湿っぽい店だなあ。――まあ、香りだけはいいんだがなあ」
「ええ、よく言われますね。生憎と彼女達は……光の女神の前では、長い間美しい花を咲かせ続けられないのですよ」
「……随分と詩的なことを言うじゃねえか。そう聞くとなるほど、それらしいや。……そろそろか?」
肩を揺らして笑う秀和を横目に瑛藍は皿を床に置き、次に商品である花や香が入っている抽斗をいくつか開けた。中から花弁や香の入った袋をそれぞれ抜き出すと、その中身を少しずつ皿の上に撒いていく。
「――ええ、すべて整いました」
瑛藍は秀和ではなく、美玲へと目配せをした。彼女が頷いたのを確認してから、二人が見ている目の前で懐から燐寸の小箱を取り出し、それらに火をつけた。揺らめく蝋燭のように一瞬だけ燃え上がった小さな炎が小皿の中に広がり、瞬く間に白い煙へと転じていく。煙と、そして花のそれとは明らかに一線を画する匂いに瑛藍は袖口で鼻と口元を押さえながら、ゆっくりと帳場の裏へ戻った。
店内に満ちる白い煙は、蛍火石の光をも翻弄する。光が捻じ曲がれば、それによって照らし出されている影もまた、捻じ曲がる。
元々薄暗く、日の光もほとんど届かない薫香茶房の店内にあっては――光と闇の境界線も曖昧ではあるが、それでも確かに存在している。
光があれば闇が生まれるのは必然で、現に蛍火石の灯りが照らす店内でも、瑛藍や美玲の側には当たり前のように影が寄り添っている。
だが、秀和と呼ばれたその男には、生ある者ならば必然的に共に在るはずの影がなかった。
その影の代わりを務めようとしているかのように、あるいはどこかへ連れ去ろうとでもしているかのように、白い煙が秀和の足元に絡みつく。
「おお……
秀和の表情が変わった。目を見開き、彼は見えない苦痛に表情を歪めて立ち上がったが、その視線の先には誰もいない。
確かに白い煙が人の形を取っているようにも見えるが、少なくとも、“生きている”者は――彼が見つめる先にはいない。
何もない空間へと引きずられるように歩いていく秀和の背中を、美玲も瑛藍もただ黙って見つめていた。
やがて――
「……美鈴……」
うわ言のように繰り返される名前。秀和の腕が虚空を抱くのと同時に、その姿が消え去った。
幻の遊戯は、いつもここで終わる。
瑛藍は美玲を見やった。美玲は夢を見ているような眼差しで、秀和が消えた空間を見ていた。
*
あいつは狐に化かされたんだと――そう噂されていた一人の男が死んだのは、もう大分前のことである。
その男は死んだ妻に会いたいと、頻繁にこの店を訪れていた。
薫香茶房は夢を売る店でもある。一筋の香に思いを託し、そこに幻の面影を見出そうとする者も決して少なくはない。
反魂香という香があった。瑛藍が彼らのために用意した物がそれだ。その名の通り魂を呼ぶことの出来る香りだと、古より伝えられてきた。
だが、実際には――反魂香そのものが死者の魂を呼び戻す力を持っているわけではない。反魂香とは名ばかりで、見ることが出来るのは死者そのものではなく、生きる者の記憶の中から呼び起こされる幻――ある種の幻覚症状に近いものを引き起こすだけなのだ。
死者を生きていると思わせる錯覚――使い続ければ、やがて心が蝕まれてしまうだろう。それでも構わないと秀和は言い、瑛藍は結局、押し切られる形で彼の望みを叶えることになった。
秀和が一人の少女を連れてやって来たのは、彼が薫香茶房に通い始めてから数ヵ月後のことだ。
その時の秀和の身体は、瑛藍が初めて彼と会った時より、一回りも二回りも小さくなっていた。
少女が“人”でないということは、瑛藍でなくとも一目瞭然だった。しかし、大人用の外套を頭からすっぽりと被った少女を――その外套の下に隠しようもない狐の耳と尾を持ち合わせていた少女を、秀和は自慢げに娘だと語ったのだ。
更には、妻が作った煮物が美味いと――痩せこけた顔で笑った。
幻は現実に干渉する力を持たない。生きているように見えても、死んでしまった者は蘇らない。妻が作ったという煮物も、あるいは炊いたという飯すらも、決して本物にはならない。
だが、秀和はそれを美味いと食べ続けていたのだ。――実際には何も口にしていないに等しいのに。
病んだ心と身体を取り戻すことはもう出来ないと瑛藍は悟った。どのような手を尽くそうとも、彼の心はもう返ってはこないと。
そして、少女を連れてやって来たその日こそが、瑛藍が“生きている”秀和に会った最後の日だった。
それから暫くして、馴染みの客にどうしていると尋ねても、鍵をかけたまま出てこないという答えしか返ってこなかった。
*
幸か不幸か、秀和が娘だと思い込んでいた少女は、狐の化身だった。
ある時、沙羅国に簪の材料を仕入れに行った秀和は、帰り道の森の中で怪我をした子狐に遭遇した。
猟師の仕掛けた罠に運悪くかかってしまったのだろう、血まみれの足を引きずって歩いていた子狐に、秀和は手当てを施した。
それはたまたま手に入れた更紗の切れ端を結んだだけの、本当にささやかなものであったが、その子狐は以来、男のことを決して忘れなかったのだ。
どのようにして人に化ける術を身に着けたのかまでは、瑛藍も知らない。だが、いつしか仮初めの姿を手に入れた子狐は秀和の後を追い、この蓮砂国へとやって来たのである。
彼女が秀和との再会を果たしたのは、秀和が死ぬ半年前だ。既に反魂香の影響を受けて心を病んでいた秀和は、まだ完全に人の形になりきれていなかった少女を見て、“美玲”と、名を呼んだのだ。
娘が生まれたらつけようと、彼が密かに考えていたという名前だった。そうして子狐の少女は、彼の娘になった。
彼女は人の意識に干渉する術を、彼女自身が気づかぬうちに身につけていた。例えば、人の姿に化けること。これもまた、彼女が身に着けた術の一つだ。
その力は本当にささやかで、淡い白昼夢を見せるようなものだった。
だが、秀和の話を聞いて思い描いた彼の妻の幻は、彼を喜ばせるには十分すぎるものだった。
彼を喜ばせたいというその一心で、美玲は秀和が望むままに妻の幻を見せ続けた。すべては彼を喜ばせるためにやったことで、決して、彼を死に追いやるつもりなどなかったのだ。だが結果的には――この世の
なぜ秀和は目覚めないのだろう。なぜ秀和は笑いかけてくれないのだろう。“死”というものを理解していなかった少女は、秀和が死んだことをすぐには理解出来なかった。
魂を失った器は“人”としての機能をも失い、肉体はやがて腐っていく――
日々腐り落ちて行く秀和の身体を、美玲は彼が死んだ時と同じように彼の傍らに座り込んだまま、じっと見つめていた。いつものように目を覚まして、名を呼んで笑いかけてくれるその瞬間を――ただひたすらに待ち続けていた。
秀和の家から漂い始めた酷い匂いに、さすがに何かがあったのだろうと秀和の家に乗り込んだ彼の友人達は、変わり果ててしまった彼とその側に座り込んで微動だにしない少女を発見することになったのであった。
男を知る者は、彼の亡骸の側に座り込んでいた少女を見て、口々にこう言い合った。
「狐に化かされたんだ。美鈴が死んでからおかしくなっちまってたもんな」
「ああ、この女狐が取り殺したに違いねえ」
悪意と殺意に満ちた眼差しを受けて、彼女はその場を逃げ出した。男が最後に与えてくれた紅玉の簪を懐に忍ばせて、走り続けた。
たった一人で祭邑の街を彷徨い、人のいない軒下に蹲って彼女は初めて泣くことを知った。秀和はもういないということを、その時理解出来たのかもしれなかった。彼が死しても尚変わらない輝きを放つ簪を握り締めて、彼女は静かに泣いた。
その瞬間、美玲の目の前に秀和の姿が現れた。美玲の知っている彼の笑顔が、鮮やかに蘇った。
美玲は嬉しさのあまりすぐに泣き止んだが、伸ばされた手が美玲の頭に触れた瞬間、秀和の姿は消え去った。辺りを見渡しても人の姿はなく、また取り残されてしまった少女は泣き続けた。
しかし、それは一度だけではなかった。それから先も、寂しさに飲み込まれてしまいそうになった時、秀和のことを思い浮かべながら簪を握り締めると、彼が現れて美玲を抱き締めた。すぐに消えてしまうのは変わらなかったが、少女が望めばその幻は何度でも現れた。
ああ、やっぱり、秀和はすぐ側にいるのだ。生きていた時の男の姿が、彼女がその目で見た亡骸を、あるいは彼が死んだという事実を――彼女の記憶の中から消し去った。
――彼女は自分自身に幻を見せたのだ。無意識の内に身につけていたその力を、やはり無意識の内に、自分自身に対して使ってしまったのだ。
“それ”が果たして彼女にとって本当に幸せなことだったのか、瑛藍にはわからない。
人の幸せを他人が量ることは出来ないし、ましてや、幸せを量るための物差しの長さや形は、それこそ人それぞれである。
だが、彼女は幸せなのかもしれないとも瑛藍は思う。拠りどころの一つもない美玲にとっては、秀和の存在がすべてだったのだろうから。
しかし、それも長くは続かなかった。撫でるその手にぬくもりがないことに気づくまで、さほど時間はかからなかった。
彼女は、それが当たり前のことであるかのように、彼のぬくもりを求めた。
抱き上げて欲しいと思い手を伸ばしたが、彼女へと伸ばされた両手が抱き上げるのは、彼女ではなく空気だった。時には幻の彼女を抱き上げたりもしたが、その手が彼女自身に触れることは決してなかった。触れたとしても、すぐにすり抜けてしまった。
幻のその人は、覚えている限りの笑顔でしか笑ってくれない。
食べ物を盗んでも――それが悪いことだと知ったのは何度か繰り返した後だったけれど――怒ってはくれない。ただ笑って、頭を撫でてくれるだけ。何を言っても、怒ったり悲しんだりしない。ただ、笑うだけだ。
美玲は、彼が笑っていたその顔しか知らないことに気がついた。
どのような顔をして怒るのだろう。どのような顔をして、泣くのだろう。想像しうる限りの彼の表情を思い浮かべてみても、それは本物ではない。
“それ”はいわゆる人形遊びのようなものに過ぎなかった。元の正しいものがもはや存在していない以上、空想はより誇大され、あらぬ装飾を施されてゆく――
美玲は無意識の内に、薫香茶房へと続く道を辿っていた。自分一人の力では、もうどうしようもなかった。彼を古くから知っている、誰かの助けが必要だった。
そして瑛藍は、彼女に手を差し伸べた。
*
反魂香の煙がすべて消え去った頃、美玲は静かに椅子から降りて、小さく頭を下げた。
彼女がお代として置いて行くのはいつも、紀千河の辺で拾えるような石ばかりだ。だが、瑛藍はそれを硬貨のように丁重に受け取り、丁寧な礼の言葉を返す。あの日、少女を店に連れて来た秀和に対してそうしたように。
幸せとは何だろうと、瑛藍は考える。その人にとって幸せならば、例えどのような形であっても、それがその人にとっての幸せなのだろうと思う。
それが例え儚く消えてしまう幻であったとしても、永遠に手に入らないものだったとしても、それが幸せであるならば――揺るぎない信念にも十分になり得る――それだけの力を持っているのかもしれないとも。
少なくとも、秀和の存在は美玲にとってはすべてだった。だから彼が死んでしまっても尚、彼女はその幻に囚われ続けている。そして、この人形遊びのような遊戯は、彼女が彼の幻から解放される日まで、おそらくは続くのだろう。
美玲は来た時とは違い、一人で店を出て行った。既に“過去”に埋もれて久しいこの出会いを繰り返せばいつか本物の秀和に会えると、彼女は信じて疑っていない。
近い内にまたひょっこりと顔を覗かせるのだろうという確信は、瑛藍の中からまだ消えそうになかった。例え単なる気休めに過ぎなかったとしても、それを彼女は求めているのだから。
花の香を纏った風が、ひゅう、と外に流れ出る。
「……おや?」
――おそらくは、美玲だけではない。美鈴という心の拠りどころを失ってしまった秀和にとっても、“娘”である美玲の存在はすべてだったのだ。
瑛藍は目を凝らして人込みに紛れ行く彼女の背中を見つめたが、寄り添うように歩いていた男の姿はもう見えなかった。