第八話 花の書架迷宮



 色褪せた扉の向こうには、見渡す限りの本の群れ。果ての見えない広大な部屋。
 いつ来ても壮大な世界だと、瑛藍は思う。しかも足を運ぶその度ごとに違った一面を見せてくれるのだから、飽きるはずもない。隣で感嘆の声を上げている珱里もまた、同じことを思っているだろう。
「いつもご苦労様です。どうぞ、宜しくお願い致しますわね」
 馴染みのある銀縁眼鏡の女性から三つの鍵束を受け取り、瑛藍はしっかりと頷いた。入れ違いに彼らが先程潜ってきた扉が閉まるのを見届けてから、改めで目の前に広がる景色をまじまじと見やる。そして、溜め息。
 部屋全体に染み付いた香の匂いが、すぐに身体に馴染むのを感じた。まるで自分達が暮らしているあの店にいるような心地がして、瑛藍はほんの少しの間、目を伏せた。

 そこは、蓮砂宮の西の端、図書宮と呼ばれるところだった。地上二階、地下一階建ての、薫香茶房がいくつ入るのか数えるのも億劫なほどの空間に、国内外から集められた膨大な量の書物が収められている。
 蓮砂宮の中でも特に祭邑に近い場所ではあるが、だからと言って蓮砂宮のほとんどがそうであるように、一般の民の立ち入りは原則として許されていない。
 つまり、本来ならば彼らが足跡を残すことさえ叶わない場所なのだ。そのような場所に彼らが堂々と入り込んでいるのには、それに相応しい理由があった。

 話は数ヶ月前に遡る。いつものように公務を抜け出し、薫香茶房の扉を潜った皇帝《鎖碧》は、図書宮で香を焚いてくれないかという話を土産代わりに携えていた。
 先代の帝《鎖紅》の日記に、“虫除けの香の話”が記されていたというのである。
 紙はもちろん、それに文字を記した“書籍”は、それなりに市場に出回っているとは言え貴重品である。知識の結晶、あるいは先人達の遺産とも言えるそれらを、虫に食われてはたまったものではない。幸いにして図書宮の書物がそういった虫の害に遭うことは少なかったが、いつ食われてしまうともわからないと嘆く臣下の進言を受けて、普段は本とあまり親しみのない鎖碧も、ようやく重い腰を上げたのだった。その矢先に《鎖紅》の日記を発見したのだという。
 それによると、彼が蓮砂国を治めていた頃の図書宮では、毎月定期的に虫除けの香を焚いていたのだそうだ。決まって十五日に図書宮から上がる煙のせいでそれは次第に人々の知るところとなり、祭邑の広場ではいつからか、それに併せて古書市が開かれるようになったのである。
 そんな伝統も――鎖碧の言い分によれば、そのことに関する引継ぎは特になかったし、鎖紅の死と共に宮仕えをしていた香師が退いてしまったということではあったが――世が移り変わると同時に途絶えてしまったらしく、その煙こそ上がってはいないものの――今でも毎月十五日に開かれている古書市には、瑛藍自身も欠かさず足を運んでいた。
 薫香茶房において、話し相手となる客がいない時の瑛藍の暇潰しに最も貢献しているのは、言わずもがな、主に古書市で入手出来る数々の本である。
 虫除けの香の作り方くらいは心得ていた――どころか、実際に瑛藍自身、溜め込んだ本を守るために定期的に焚いていたから、仕事自体は瑛藍にとってはさほど難しいものではない。鎖碧が望む仕事が出来る自信も、十分にあった。
 だが図書宮はとても広く、香を焚くとなると半日がかりの大仕事だ。つまりは、古書市を覗きに行く時間と引き換えに、書物を守る仕事を担うということに他ならなかった。それは瑛藍にとって、日々の楽しみを調達する場を奪われてしまうに等しい。
 それでもしばし迷った末に瑛藍がこの仕事を引き受けることを選んだのは、鎖碧がそれとなく付け加えた条件が、彼にとっては存分に魅力的なものだったからである。
 図書宮に眠っているのは、古書市に並ぶどの本よりも価値のある物ばかりだ。図書宮にしかない本だって当然あるし、その量自体がそもそも半端ではない。
 鎖碧は報酬として、瑛藍と珱里の図書宮への出入りを自由に許すと言ったのである。それどころか、一部の本を持ち出して家で読むことも構わないという判子まで押してしまったのだ。
 結局、瑛藍は半ば二つ返事でこれを引き受けた。様々な本が読めて、尚且つ置き場所に困らない。それは彼らに――主に瑛藍にとってはこれ以上ないほどの見返りだった。

*

 鍵がついた書庫の扉を開けながら、各所に設置されている香炉に香を入れ、火をつけて回る。これ自体は二人掛かりならばおよそ三十分もあれば済んでしまう作業だが、燻す時間がとても長いため、並ぶ本の背表紙を吟味している暇はない。
「……これで最後、ですか」
 地下室にあるのは、主に皇族の手記や書簡など――歴史的に重要なものばかりである。また、煙は下から上に抜けるため、上の階に比べ念入りに処置を施さなければならない。珱里が上の階を回っている間、瑛藍は一人で地下室にいた。それぞれの分担を終えてから、入り口の扉の前で落ち合うのが常である。
 手持ちの香のすべてに火をつけてから、瑛藍は足早に上の階へ続く階段へと向かった。既に白い煙は足元を埋め尽くしており、部屋中に満ちるのもあっと言う間だ。その前に外に出なければ、本と同じように虫除けの煙で燻されてしまう。何種類かの花を混ぜ合わせた香――いくら煙が人体に害のないものであると言っても、身体の隅々まで煙に満たされればさすがに心地は悪い。
「何だ、ひどい煙じゃないか! 火でも起こったのか!?」
 瑛藍は自分以外の誰かの声を両の耳で捕らえ、急いでいた足を思わず止めた。煙の向こうから響いたそれは明らかに珱里のそれではない、大人と呼ぶにはまだ早いような――青年の声。
 それは本来ならば聴こえるはずのない声であり、あってはならないことと言っても過言ではなかった。
 何せ鎖碧は昨日の晩から図書宮そのものへの一切の立ち入りを禁じていたはずだし、瑛藍はそれを自身の目で確認しながら香を仕掛けたのである。何より、この階に至ってはすべての扉に鍵がかけられており、例え鎖碧であっても、鍵を持たなければ立ち入る資格を得られない場所なのだ。
「おい、誰か……誰かいないか!」
「――こちらです。わかりますか?」
 様々な可能性へ巡らせていた思考を断ち切り、瑛藍は聞こえた声に向かって呼びかけた。すぐに近づいてくる気配と足音に、安堵の息が香の煙に混じって消える。
「ああ、助かった。危うく窒息死してしまうところだった」
 口元を押さえていた手が下ろされ、止めていたらしい息を吐き出すと同時に、笑い声。瑛藍よりも頭一つ分背の高い、黒髪に黒目の――精悍な顔立ちの青年がそこにいた。
「……申し訳ございません。大丈夫でしたか?」
「ああ、問題ない。それで、お前はここで何をしている? まさか、自ら命を絶つためにこのような煙を撒いた訳でもあるまい」
 藪から棒に告げられた台詞に、瑛藍は即答することが出来なかった。わずかな間を置いて緩く首を左右に振り、鎖碧や宮廷人に対するそれと同じような丁寧な礼を添えて、口を開く。
「陛下の仰せを受けまして、虫除けの香を焚いていたところです。本に埋もれて死ぬことが出来るならば本望ですが――生憎と自ら命を絶つことに興味はありませんし、この煙も……人の身体に悪いものではございません」
「虫除け……?」
 青年は腕を組み、眉を顰めた。深く考え込んでいるようなその素振りに、瑛藍もまた訝しげに首を傾げる。
 おそらく、今日の瑛藍と珱里の仕事を彼は知らないのだろう。気難しそうな表情がそれを十分に物語っていた。次いで告げられた言葉も、また然りだ。
「今日はこんな目に遭うとは聞いていなかったが、そうか……あの人もやってくれるな、俺がここにいると知っていただろうに、仕置きのつもりか」
 見れば見るほど整った顔立ちをしている――瑛藍は青年に対してそんな印象を抱いた。考え込むようなその素振りや表情だけでも、祭邑の民とはまるで格が違う。言うまでもなく、皇族に名を連ねる一人だろう。
「……まあ、この見てくれはともかく香りはいい。花か?」
 今度はわざと吸い込むように手で扇ぎ始めた青年に、瑛藍はただ笑って頷くしかなかった。周囲を見渡すと、煙は既に部屋の隅々まで行き渡っている。辛うじて視界はまだ覆われていないが、それも時間の問題だ。急がなければと思うが、このやり取りを楽しんでいたのも事実だった。
「ええ、そうです。紙によく馴染む花の香りでして……他に人がいらっしゃるとは知らず、申し訳ないことをしてしまいました。貴方様は、ここで本を読んでいらっしゃったのですか?」
 控え目な問いかけに、あっさりと横に振られる首。
「いや、それは構わん。さすがに驚きはしたがな。だが、こんなことでもなければお前と会う機会はなかったかもしれない。それだけでも今日はいい収穫だと思わないか?」
 思いもよらなかった返答ではあったが、確かに青年の言うことには一理あると、瑛藍は素直に納得してしまった。
「確かに、貴方様は……祭邑の民に過ぎない私などが、こうしてお目にかかれるような方ではなさそうですし」
「ああ、悲しいかな、実際にはそうかもしれん。俺はあと何年かすれば……と言ったら当の本人に殴られてしまうかもしれないが、この国の名を背負う身だ。今もそうだが、尚更外に出ることが出来なくなるだろうな」
 瑛藍は、度々公務から逃げてくるどこかの皇帝が今の台詞を聞いたらはたしてどう答えるだろうと思ったが、そのことをあえて口にはしなかった。それよりも大きく芽吹いた別の疑問を、胸中に引き出して整理する。
 単純に考えるならば――彼の言う“この国の名を背負う”とは、そのまま、蓮砂国の皇帝として皇位を継ぐことを示しているのだろう。
 だが、蓮砂国の皇帝《鎖碧》に、子はいない。それどころか、彼女は結婚してすらいないのだ。
 ならば、この青年は一体誰の子だというのか。

 あるいは、もう一つの可能性。この青年が、瑛藍の知る誰かの“子”でないとするならば――

「ですが……貴方様のような方のお子であられるなら、きっと、思慮深く知に長けた方となりましょう」
 瑛藍はある種の確信を持って、そう言葉を投げかけた。青年は大きく瞬きをし、それから、どこか照れくさそうに手を振った。
「そうだと俺も余計な心配をせずに済むがな。だが、もし俺に子が生まれたら、もっと元気に――それこそ、外を駆け回るような子になって欲しいよ。臣下達には怒られてしまうかもしれないが、何せ、いずれは俺の跡を継ぐ子だ。図書宮育ちでは知識こそ深くなるとは言え……広い視野を養うのは難しい」
 どこか遠くを見ているような、横顔。よく似た誰かの面影をその眼差しに垣間見て、無意識の内に安堵の息がこぼれる。絡まっていた糸が解け、真っ直ぐに繋がった。
「ああ、やはり貴方様は……」
「どうした?」
「――いえ……階段と、入り口の扉がどちらにあるのか、ご存知ですか? おそらく貴方様のほうがここの地理にはお詳しいでしょうし、それに……ここではゆっくりと話も出来ませんから」
 瑛藍は続けようとした言葉を飲み込み、代わりに違う問いを発した。瑛藍にとっては最早白い霧に覆われたも同然の世界だったが、青年は目の前に並ぶ本の背表紙を一瞥してから、頷く。
「任せておけ。こっちだ。鍵はかけなくていいんだよな?」
 青年は瑛藍の手を引いて、迷いなく歩き出した。左右に並ぶ書架の間を真っ直ぐに進み、角を曲がっていく。
 やがて現れた階段の先、すぐ目の前に入り口の扉があった。瑛藍が知っているそれよりも、鮮やかな色と模様が残る、扉。
 扉の前で青年は足を止めると、瑛藍に振り返った。
「そうだ、忘れていた。俺の名前は蓮蝉レンゼン。お前は?」
「……瑛藍、と、申します」
 扉が開き、煙を纏った蓮蝉がその向こうに消えていく。答えながら、瑛藍もそれに続いた――はずだった。

「――瑛藍!」

 己の名を呼ぶ悲鳴じみた声に、瑛藍は我に返った。見ると珱里の細く小さな手が、瑛藍の纏う衣の裾をしっかりと掴んでいた。
「どうしたの、瑛藍……中で何かあったの? ずっと出てこなかったから……」
 ――煙に撒かれて、どうやら夢の世界にでも紛れ込んでしまったらしい。
 辺りを見渡しても、彼の手を引いていたはずの青年の姿はどこにもなかった。

*

「や、今日もご苦労だったね。珱里は相変わらず可愛いじゃないか」
「……陛下。陛下にごく近しい方に、大層本がお好きな方はいらっしゃいませんでしたか?」
 仕事を終えた後には、鎖碧との語らいの一時が待っているのも常だ。茉莉花茶を飲みながら寛いでいた彼女に、顔を赤くしている珱里の傍らで瑛藍は開口一番そう問いかけた。鎖碧は大きく瞬きをし、次いで首を傾げる。
「ん? ……ああ、確かではないが、そうだね、父上がそうだったらしいよ。あの方はまるで本の虫ならぬ本の象だった。私が遊び歩いていたように、あの方の仕事場は図書宮ではないかと言われるほどだったそうだ。その知性の爪の垢ほどでも受け継いでおくべきだったとは思うね。私のようなじゃじゃ馬では、父上もさぞかし悲しまれたに違いない」
 ――蓮砂国の先代の皇帝、《鎖紅》――《鎖碧》の父親にして、若くして世を去った人物。
 皇帝の位を継いでから、わずか五年足らずで亡くなったと瑛藍は聞いている。鎖碧の物心がつく前のことだ。
「……それほどまでに、本を愛しておられたのですよ。そして、貴女には自分よりも強く生きて欲しいと願ったのではないかと、思います」
「まるでどこかで見てきたようなものの言い方だねえ。……そう、父上は身体が強くはなかったそうだ。皇帝として民の前に立つよりも、狭い場所で本を読み書きするほうが性に合っていたらしい。……あの人が言ったんだそうだ。もし私が外を駆け回るようなことがあっても、あまり強く怒らないでやってくれないかと。瑛藍、あの人の娘でありながら、私はあの人を知らないんだよ。話を聴き、残された物を紐解くことでしか、私はあの人に近づくことが出来ない」
 手元にある茉莉花茶の器に視線を落とし、自嘲気味に鎖碧は笑った。瑛藍は咄嗟に口を開きかけたが、それよりも早く鎖碧の瞳にとらえられ、言葉が塞がれる。
「ま、精々あの人のぶんまで生きてやるとするさ。そうでなければ、色々と示しがつかないだろう?」
「……陛下、本はお読みになったほうが宜しいですよ。せっかく、あれだけの本を自由にすることが出来る権限をお持ちなのですから」
「お前が何度もそう言うからね、これでも最近は色々と読むようになったんだよ。だからこそ父上の日記を見ることにもなった。だが、あれはまだまだ……私にはいい寝物語だね」

*

 余談ではあるが、鎖紅が帝位を継ぐ前からごく私的なことを書き残していた日記に、後に瑛藍の知るところとなる、ある一つの記述が残されていた。

 ――どこから招かれたのかは知らないが、本に湧く虫を懲らしめてくれる香りというものがこの世には存在しているらしい。私にとっては願ってもないことだ。今度からは月に一度でも、町の香屋を呼んでみることにしよう――

――黄ノ三十一ノ年 咲花月十五日 蓮蝉


20050410




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