店番を押し付けて家に残してきた兄も、何だかんだで今頃は一人、好物の花茶と本を手にのんびりしているのだろうかと――ふと考える。
「……珱里、遠い故郷に思いを馳せる前に、私のことを見てはくれないかね……?」
耳元で囁かれ、珱里はびくりと肩を跳ねさせた。途端、囁き声が笑い声に変わる。珱里はわずかに拗ねたような眼差しを、その声の主へと向けた。
「もう……驚かせないで下さい、桃蓮様」
「すまないね、珱里。お前と一緒にここに来るのが楽しみで仕方なかったんだと思っておくれ」
悪びれもせずに桃蓮――この蓮砂国の皇帝である《鎖碧》は言った。彼女の肌に負けないくらいに白い湯が、火照った肌をさらに温めていく。さすがに彼女の手前、逆上せて倒れてしまうわけには行かないけれど――仮にそのような事態に陥ったとしても、彼女ならば笑って許してくれることだろう。いっそ力強いこの両腕に抱き上げられて運ばれるならば本望かもしれないとさえ思いかけたが、身体を包む熱と共に湯気の中に追い払う。寒さすら感じた夜風の涼しさが頭を冷やしてくれるのは好都合だった。
蓮砂の都を一望出来る遥かなる高み、白天山。その頂に近い区域は皇帝以外は滅多に立ち入ることの出来ない神聖な世界だ。そのような場所に一介の店の主である少女が同席を許されているのは、無論、鎖碧の一存によるものである。
鎖碧の付き添いとしてやって来ていた女官達も、見知らぬと言っても過言ではない同伴者に最初は戸惑いこそ感じていたようであったが――鎖碧が親友と紹介した以上は扱いも皇帝たる彼女と同等であった。珱里が手土産にと持ち寄った異国の花の香が焚かれ、先程までは髪や身体を洗ってもらったりもしていたのだ。
珱里自身も予想以上の待遇に明日は嵐が来るとかそんなことを考えては心曇らせていたが――鎖碧が側にいるというのは何よりも心強く、また、女官達も小さな来客を思いの外可愛がってくれたので、場の雰囲気に慣れてしまうまでにさほど時間はかからなかった。
鎖碧は宮中行事の一環で、年に四回、季節が一つ巡る度に白天山の神に舞を捧げる儀式に臨む。それは蓮砂国の歴史を紐解いて遡れる頃から皇帝の冠を抱いた者達が受け継いできた慣例であり、始められた頃は国民総出の一大行事だった。月日の流れと共に少しずつ簡略化されてきたが、それでも準備等を含めると二泊三日の小旅行となる。
その際に世話になるのが、湯治場としても有名な白天山の中腹にある、蓮砂国でも有数の温泉宿だった。
儀式の間は山の入り口自体が閉ざされるので、関係者以外の立ち入りはない。
それにもかかわらず折角の名湯――秘湯とも言えるこの場所を一人で楽しむのは勿体無いと鎖碧は常日頃から思っていた。そこで幸か不幸か標的――もとい、遊び相手にされてしまったのが、薫香茶房の店主である少女、珱里だったというわけである。世話係兼教育係且つお小言係の宰相
天然の温泉に浸かる機会などそう滅多に訪れるものではなく、この話を携えて鎖碧が薫香茶房へやってきた時、珍しいものや美しいものに目がない男店主瑛藍は自分が男であることを心底悔やんでいたが、さすがの鎖碧も男の前でそう簡単に肌を晒すほど破廉恥ではない。
懇願にも似た眼差しに鎖碧は思わず首を縦に振ってしまいそうになったが、そこは舌先を駆使し、土産話をたんと持ち帰るという条件で何とか説得に成功したのであった。
そうして、今に至る。鎖碧と珱里は蓮砂の都からこの宿に至るまで半日かけて歩いてきた小さな旅の疲れを、のんびりと温泉に浸かりながら癒している最中なのである。
「桃蓮様の舞もとても美しくて、わたし、倒れてしまいそうだったんですから」
勿論楊葉が最後まで苦い顔をしていたが、儀式の場にも珱里は同席を許された。珱里自身も儀礼用の白い衣と紅の袴に着替えたのだが、鎖碧の衣装は無論、それとは比べ物にならないほど艶やかなものだった。金の糸の刺繍が入った白絹の衣に身を包み、結い上げた髪に花と玉を飾り、瑛藍が見たならばその美しさに文字通り倒れてしまうような見事な装飾が施された神楽鈴を打ち鳴らしながら舞うその姿は、珱里にしてみればまさに、地上に舞い降りた天女そのものだった。あるいは、文字通り――この蓮砂国の頂を踏みしめることが許されるただ一人の――蓮砂国の母。
思い返してはとめどなく溢れる感嘆の息を、珱里は照れくさそうに笑いながら飲み込んだ。
「ところで珱里。女同士の秘め事に興じる覚悟はあるかね?」
何気なく漏れたその言葉に、珱里は一呼吸分の間を置いてから狼狽する。
「……桃蓮様、お戯れはいけません。心の臓が鷲掴みにされて飛び出してしまいます」
「そんな珱里も見てみたいと思うけれど――そうだね、ほんの少しだけ大事な話なんだ。少なくとも、私にとっては……いや、蓮砂国の行く末に関わると考えれば、大問題だ」
乳白色の湯を掬って肌に滑らせ、鎖碧は静かに呟いた。その視線の先に何を見ているのだろうと――そんなことを考えながら、珱里は鎖碧の横顔を見つめ、続く言葉を静かに待った。
「些か気の早い話かもしれないが――私は皇帝だから、蓮砂のためには子を残さなければならない。だが、贅沢だとわかっていても、いいと思える相手がいなくてね」
唐突過ぎるその言葉に、珱里は思わず硬直してしまった。予想の“よ”の字もつかない言葉であったこともそうであるし、遠くない未来に鎖碧の伴侶となるべき人物を――そもそも出会ったことがない以上、今この場で想像出来るはずもない。
「……例えば金蓮華のように夢の中で子を授かることが出来るならこれ以上のことはないけれどね、見合い話ばかりが溜まっていくのは面白くない。だが、いつかは私も、おそらくはまだ見ぬ伴侶を得る日が来ることだろう。わかるね?」
金蓮華は伝説上の天女の名であり、蓮砂国の最初の母とも言われる存在である。夫はなく、星の子を腹に宿した。額に星を抱いて生まれてきたとされるその子が、後に最初の皇帝“鎖蓮”となったと蓮砂国の史実は伝えている。
「だから私は考えた。珱里、一つ賭けをしようか」
鎖碧はとても穏やかに笑った。悪戯を仕掛ける前の子供のような、けれど、確かに蓮砂国の皇帝としての顔も持ち合わせている女性の、その笑顔がとても美しく夜の闇と周囲を照らす灯に映えて、珱里は思わず顔が熱くなるのを感じた。それが浸かっている湯のせいでないことも。
「私が結婚をするかしないか……これは答えが一つしかないだろうと思うから、私が産む子は男か女か――それを賭けよう」
蓮砂国以前に鎖碧自身の未来を左右する話であるというのに、どうしてこのひとはこんなにも暢気に構えているのだろう――楊葉が胃の痛みを訴えて倒れてしまわないことを心底不思議に思いながら、あるいは彼の鎖碧に関する悩みの花がなかなか枯れないことが少しだけわかったような気がして――珱里は小さく、首を左右に振った。
「そんな、桃蓮様。お二人以上お産まれになる可能性もございますのに、どちらかなど選べません」
鎖碧は元来こういう人なのだと割り切れれば、珱里のようにささやかな悪戯もちょっとした戯れの一つだと受け入れられるのだろう。なるほど、そういう人でないと自分の相手は務まらないとわかっているからこそ、見合う相手を見つけられないのかもしれない。単に蓮砂の冠を継ぐ者を産むことが出来る力を持っているだけでは駄目なのだ。瑛藍や珱里のように、時に予想だにしないことを平然とやってのける彼女を受け入れられるような器があると、鎖碧自身が認めた人でなければ。
「でも、そうですね……桃蓮様のお子様でしたら、男の子でも女の子でも、きっと健やかで愛らしいと思いますよ。わたし、とても楽しみにしておりますから」
珱里の笑みに、鎖碧もつられるように破顔した。湯の中から取り出した手を額に当てて、小さく息を吐き、肩を震わせる。
「……参ったな、上手くかわされてしまったようだね。侮っているつもりはなかったんだが、珱里の勝ちだ。そろそろ上がろうか、このまま珱里の肌を眺めているのも悪くはないけれど、珱里が逆上せてしまったら大変だからね」
そうしてまた別の意味で火照ってしまった頬に、珱里は彼女こそ本当の勝利者に相応しいと心底思ったのであった。
これから数年の後――そう遠くはない未来に、鎖碧が双子の男女を生むことになるのは、また、別の話である。