その日、薫香茶房に届けられたのは――真紅の薔薇の花束だった。
しかも差出人たる張本人の手によって、それは直々に女店主へと手渡されたのである。
「と、と、桃蓮様……っ」
感動の余り今にも気を失ってしまいそうだった珱里に、桃蓮――蓮砂国の皇帝たる鎖碧は珱里の言うところの“蜜菓子よりも甘い微笑み”を湛えながらこう囁いたのだった。
「可愛い珱里、この間はとても素敵な夢を届けてくれてありがとう。珱里の想いは確かに私の中で結ばれた……このままお前を連れて帰って、食べてしまうことを許してくれるかね……?」
「桃蓮様……お、お戯れを……」
――珱里はその日、穏やかで激しい甘さに満ちた不思議な胸の動悸を抑えることが出来なかったという。
白昼堂々、ところ構わず繰り広げられる“戯れ”を横目に、瑛藍は懐にそっとなけなしの駄賃が入った巾着を忍ばせ、胸の内に押し込めた溜め息で蓋をした。鎖碧の口から憲法の条文のよりもすらすらと出て来る甘い文句を耳から耳へ流しながら、気づかれぬよう足音まで押し込めて店の扉を開く。
「今日の珱里はいつにも増して可愛いね、それに……ああ、もぎ立ての果実のような香りがする。これは春摘みの
言葉だけなら秘め事にすら感じられる二人の親愛に、立ち入るのは無粋と言うものだ。ついでに、事情を知らない哀れな客が迷い込まないように“臨時休業”の札を扉に引っ掛ける。まるで風達が示し合わせたかのように青く晴れた空の下を、瑛藍は外の通りへ向けて歩き出した。
蓮砂国では雪別月と呼ばれる二月、その十四日は想花の日と名づけられている。
女達の決戦日とも言えるその日は、真心を込めた手作りの甘い菓子に白い花を添えて想い人へと贈るのが、蓮砂国での古くからの習慣だ。
それを受け取った側が応えるのが、風見月、三月の十四日――つまり今日、結花の日である。
主に男達が応える日であるからか、お返しとして贈られるのは断然、手作りの菓子よりは形として後に残る物が多い。
そういった物に特に需要のあるこの時期は、楚楼の職人達が丹精込めて創り上げた工芸品や、あるいは隣の沙羅国や更に遠い国から取り寄せられた品々が祭邑の通りを彩ることとなる。ぶつかり合う商売魂が大きな波を呼び起こし、よりよい商品を他の店より少しでも安くと心の中の算盤を弾く音まで聞こえてきそうなある種の祭日だ。特売を知らせる達筆の貼り紙、飛び交う数字に冷やかし、算盤を勢いよく弾く音――年中祭り気分が絶えない界隈ではあるが、やはり賑やかな声が満ちるのは心地よい。
だが、追い出されたも同然の身としては、その空気を甘んじて受け入れられないのが実情だった。あの場を離れる口実を考える余地もなかったのは、果たして、幸か不幸か。
「さて……どう、しましょうか」
瑛藍は今更ながらに呟いて、軽く肩を竦めた。世情に鋭い自覚もないが、毎年鎖碧の来訪で“この日”を実感するのだから、男としては甲斐性がないことこの上ないだろう。
けれど、単なる味見係――おこぼれに預かっているだけと言ってしまえばそれまでの話に過ぎなくとも、珱里の手作りの菓子に毎年舌鼓を打っているのは、鎖碧だけではないのである。
祭邑の通りに並ぶ蛍火石の光。規則的に並べられているようでいて、不規則に揺らめく灯火が導くのは、一種の高揚感と表していいのかもしれない。それを殊更思い知らされる人込みに、瑛藍は懐をしっかりと押さえる。雀の涙ほどの金ではあるが、祭りに乗じて盗みを働く者もいないとは限らない。
華やかな色紙に包まれたいくつもの箱を抱えた初老の男性や、飴細工の菓子を母親にねだる子供。寄り添って連れ立つ男女は、男の表情から察するに――何を贈ろうか途方に暮れているところを女性に発見されたといったような具合だろうか。粋な品物を贈り少しでも驚かせようとしていたらしい計画そのものは風に溶けてしまったようだったが、買い物に興じる姿は何とも微笑ましいものだった。
「薫り茶屋の若旦那、珱里ちゃんへのお返しの品ならこいつがお勧めだよ!」
聞き覚えのある声に不意に呼ばれて、瑛藍は思わず足を止めた。見るとこの人ごみの中で目敏く彼の姿を見つけたらしい常連の雑貨屋の店主が、異国風の人形の頭を撫でながらこちらを見ている。
「……可愛らしいお人形ですね」
おそらくは沙羅よりもずっと西のほうから旅をしてきたのだろう。金の巻き髪に天上の空を思わせる硝子の瞳を持ち、フリルとレースをふんだんにあしらった異国のドレスに身を包んだ少女。その好奇心に満ちているような澄んだ眼差しに、瑛藍は目を細めた。
「でも、この子にはもっと……華やかな場所のほうが似合うのでは?」
少なくとも、このある種気品漂う少女の人形が、あの埃の舞う帳場に似合うとは思えない。からかうような声に、店主は腕を組み、眉根を寄せて考え込んだ。
「華やかな場所ってぇと……我らが陛下の宮殿とかか? あの方が人形遊びに興じられるとも思えんがなあ……どっちかってえと、こういったお嬢ちゃんよりも、まあ、なんだ、無難にお坊ちゃんのほうを好みそうだが」
「男の子の人形でしたら勿論でしょう。可愛いものがお好きでいらっしゃるから、あの方は。それはもう、何人増えようと大層可愛がって下さると思いますよ」
そんな風にして、彩り豊かな界隈を冷やかしながら歩いていた瑛藍であったが、淡く華やかな色彩を視界の隅に留め、引き寄せられるように再び足を止めた。
花を模った簪や首飾りなどの装飾品から、花柄の布を使ったハンカチや財布、とりわけ女性が好みそうな上品で可愛らしい色合いの小物細工が顔を揃えているその店には既に先客がいて、まさに“贈り物”に頭を悩ませている最中のようだった。
瑛藍が近づくと、その先客であった青年が顔を上げて、肩を竦めながら笑った。
「大変ですね、お互い」
「ええ、まったく……こういった世事や繊細な女心というものには疎いので、何を選べばいいのか悩みます」
そして揃って小さく笑う。どうやら相手のほうも、瑛藍の目的が自分と同じだと判断したらしい。まったく他人事とは思えぬ親近感を感じたのも互いにそうだろう。瑛藍も笑って頷き、紅色の簪を取り上げる。艶やかに磨き上げられたそれは、さながら高価な飴細工のようにも見えた。珱里には少し情熱的過ぎるだろうかとも思う。
「でも、可愛いものですよ。それに、喜ぶ顔が見られるのは嬉しいですからね。だから……自分が貰って嬉しい物……っていうのもちょっと違うかもしれませんけど、相手がこれを受け取ってどんな顔をしてくれるだろうとか、どんな風に使ってくれるだろうとか、そういうことが考えられるような物でいいんじゃないかな、って」
見ると、先客の青年は既に物を決めていたらしい。丁寧に包装された小さな包みを大事そうに受け取るその様を、瑛藍は微笑ましく眺めやる。
「……お互い、頑張りましょう?」
瑛藍は笑って敬礼にも似た一礼を青年へと向けた。今の青年の言葉のすべてが、瑛藍にとっては正解と言えそうな答えだった。
――それはきっと、当たり前すぎたがゆえに忘れてしまっていた、気持ち。
贈り物をして喜ぶのは、何も相手ばかりではない。贈り物をする側も喜んでこその贈り物なのだ。
そうと決まれば雑踏を潜り抜けるその足に、迷いは見られなくなった。まだ店が閉まるような時間ではないけれど、売り切れていては意味がないのだ。
そうして、“営業中”の看板の隣に目的の物がまだ販売中であるという旨の札を見つけて胸を撫で下ろし、瑛藍は馴染みの菓子屋の暖簾を潜ることとなった。
*
「――あっ、瑛藍、おかえりなさい」
扉を開けた途端に珱里が立ち上がった。いつも瑛藍が座っている帳場裏の席に落ち着きなく腰を下ろして瑛藍の帰りを待っていたらしい。鎖碧の姿は既になく、さぞ名残惜しく別れたのだろうと想像するに容易い薔薇の芳香が店内を満たしていた。
「気づいたらいなかったから、どこに……瑛藍?」
瑛藍は何度か頷きながら、思わず溢れてくる笑いを堪えきれずに口元を押さえ――小脇に抱えていた桜色の箱の包みを、珱里へと差し出した。瞬く間にその表情が変わり行く様を、眺めやる。
「これ、は……」
珱里には一目でわかる、馴染みの菓子屋――“米寿屋”の箱だった。それも、彼女の大好物である桜饅頭を買った時にだけ入れてもらえる――いわば特別な箱である。
「いや、ほら……花より団子も、たまにはいいんじゃないかと思って」
「それじゃあ、ふふ、折角だからお茶にしましょうか」
「春摘みの
それとなく呟いてみると、珱里が一瞬にして頬を染め上げるのが見えた。それがまたおかしくて、瑛藍はこみ上げてくる笑いを堪えることができない。珱里が拗ねたように頬を膨らませてしまうものだから、尚更だ。
「ごめん、桜仙花?」
「そう、そうよ――桜仙の花茶で」
桜饅頭を食べるにはぴったりだという、珱里の手製の花茶。包み込むような花の香りは柔らかく、甘く、声を弾ませるには十分すぎるほどだった。
結局その日は“臨時休業”の看板を下ろせないまま、店主達にとってもささやかな宴の時が訪れたという話である。