蓮砂国の夏は、夜ともなれば連日がお祭り騒ぎである。暑さと空気の淀む昼間より、太陽が眠りにつき星月が遊び始める夜のほうが人々にとっても動きやすいからだ。
もっとも、毎日がお祭り騒ぎだと言われればそれまでのこと。特に祭邑においては、その事実を否定する者はおそらく誰もいないだろう。
連なる蛍灯の光が幻想的な雰囲気を醸し出す、夜。どこからともなく響いてくる祭囃子が、喧騒と重なって心地よい風を招く。
人並みを縫うようにのんびりと歩いていた瑛藍は、氷菓子を売る屋台の前でその足を止めた。
先程、この往来を通り掛かった時にはどこまで続くかわからない行列が出来上がっていたというのに、今はその呪縛から解放されたらしい店主がちょうど一息ついている様子だったので、これ幸いと屋台を覗き込む。
「いらっしゃい、旦那様。ちょうどいい時に足を止めてくだすった。今さっき出来上がったところで」
なるほど、在庫が切れてしまったので新しく作っていたところだったらしい。出来立てに一番にありつけるとは瑛藍も思っていなかった。きっと今日の幸運はここで使い果たされたに違いない。
「それはそれは。……では、一つ、頂きましょうか」
瑛藍は笑って、小銭と引き替えに白蜜の氷菓子を手に入れた。棒の先まで冷たさが沁み込んでいるようで、よく働いた一日の終わりに頂くにはこの上ない“ご褒美”である。
――とは言え、この店主が汗水流して働いたかと言うと、そこは首を傾げるところかもしれないが。
「ん……美味しい」
口に含んだ瞬間にしみ込んでくる冷たさと甘さに、瑛藍は思わず目を細めた。
夏風の女神に横取りされてしまう前にと、大きく口を開けて頬張るその嬉しそうな表情は、まさに今、隣で同じ氷菓子を手に入れた子供と瓜二つだった。
王宮を中心に組み立てられた他の三方と違い、西の祭邑は人が増える度に継ぎ足され、造り上げられた町だ。雑然と積み上げられてきた町、それ自体が言わば迷宮のようなものである。
一番大きな通りは“春華通り”と呼ばれ、蓮砂国の西門から王宮へ真っ直ぐに続いている。そこからいくつもの通りが生まれ、時には交わりながら、祭邑全体に張り巡らされている。
薫香茶房があるのも、そんな複雑に入り組んだ路地の一角だ。慣れた者なら頭の中で地図を描くことも容易だが、初めての者や慣れない者はいかに正確な地図を手にしていても、迷わずに目的地に辿り着くことは難しい。
例えば、親に手を引かれて歩くような子供。祭り騒ぎの人込みの中には子供を惹きつけて止まない店も決して少なくはなく、何よりも深く強い親の手であっても、繋ぎ止めておくには少々心許ない。
「……おや、どうか、しましたか?」
屋台の前を離れ、人込みの中を歩きながら、瑛藍はふと、傍らに寄り添うように佇む小さな気配に気がついた。
赤い着物を纏った、少年と言うにも幼い子供が、じっと瑛藍を見上げている。先程屋台で一緒になったのとはまた別の子供だ。
「欲しいのかな、これが」
氷菓子の棒を軽く振る。その動きに合わせて、幼子の目がきょろきょろと動く。やはり、気になるらしい。
瑛藍は目を細めて笑うと、懐から取り出した小銭を子供に差し出した。向こうの屋台を指差しながら、続ける。
「これを持って、あの旦那様――おじさんのところに、行ってご覧」
幼子は瑛藍と小銭と氷菓子と、そして向こうの屋台を順番に見やっていたが、やがて瑛藍の手のひらから小銭を摘み上げて握り締めると、ぱたぱたと屋台へ駆けて行った。
喧騒に紛れ声こそ聞こえないけれど、見ているとどうやら無事に幼子は氷菓子を手に入れたらしい。ほっと胸を撫で下ろしながら、瑛藍は屋台に背を向けて歩き出す。
――すると、やはり先程の幼子が氷菓子を手に、再び瑛藍の元へと戻ってきた。氷菓子を舐めながら、じっと瑛藍を見上げてついてくる。さすがに振り払うことも振り切ることも出来ずに、瑛藍は幼子へと手を差し伸べた。幼子は、それをしっかりと握り返してくる。
「……ふむ、迷子でいらっしゃるのかな? ――お名前を、伺っても宜しい?」
幼子はぱちぱちと大きなどんぐり目を瞬かせながら、首を傾げた。迷子ではないということだろうか。
それ以前に、瑛藍の言葉が通じているかどうかもわからない。瑛藍は子供の手を引いたまま、ゆっくりと歩き続けた。
そうして、氷菓子も完全に口の中で溶けて消えてしまった頃。
瑛藍の足は人込みを避けるように、寧ろ住み慣れた我が家へと続く道を歩いていたつもりだったのだが、気づけば、薫香茶房のある裏通りとはまったく正反対の場所に出てしまったようだった。
眼前に、裏通りにはとてもかけられないような大きな朱色の橋が見える。その向こうに巨大な門があり、その門の向こうには更に、皇帝《鎖碧》の住まう蓮砂宮が広がっているはずだ。
蓮砂宮へと繋がる、名もなき橋。“黄昏橋”と誰かが洒落て呼んだのは、単に祭邑――日の沈む西側に位置しているからという、それだけの理由である。
黄昏時でもないのに不意にそんなことを思い出したのは、ここへ導かれたのは瑛藍の足がたまたま向いたわけではなく、この幼子が連れてきたのかもしれないと、察したからだった。
瑛藍は、橋の手前で足を止めた。幼子が不思議そうに瑛藍を見上げて、手を引っ張ってくる。手だけでなく、着物の裾までもを引っ張ろうとする。
「……申し訳、ございません」
瑛藍は眉を下げながら、どこか困ったような、曖昧な笑みを幼子へと向けた。
――祭邑の喧騒が、ひどく遠い。耳に馴染んでいるはずの祭囃子も飛び交う声も、今の瑛藍には聞こえない。
見ようと思えばすぐそこにいるはずの門番の姿も、急に霞がかかったようにぼやけて消え失せてしまっていた。
世界そのものの色が変わってしまったような――あるいは世界が色を失くしてしまったような、そんな錯覚に陥りながら、瑛藍は辛うじて言葉を搾り出す。
「私は、あなたと共に行くことは出来ません」
幼子はひどく悲しそうな顔をして、いやいやと言うように首を横に振る。ぎゅう、と、全身でしがみ付いてくる子供の頭を撫でてやりながら、瑛藍は言葉を考えるように、視線を巡らせた。
慣れ親しんだ世界のはずなのに、どこか、遠い風景が瑛藍の目の前に広がっていた。
「……私は、まだ、行くわけにはいかないのです、よ」
今にも泣き出しそうに、瑛藍を見上げてくる幼子を、瑛藍はしゃがみ込んで包み込むように抱き締めた。伝わるぬくもりは確かなものなのに、それすらも、遠い世界のものなのだと理解する。
ふと見やった先、橋の向こうに人影が見えて、瑛藍は幼子に呼びかける。
「お行きなさい。――ほら、あなたを待っている人がいる。道は、一つしかありません。……もう、迷子になってはいけませんよ」
「……――」
子供の口が動いた。何と言ったのかは聞き取れなかったが、瑛藍はそれが別れの挨拶であると理解した。
幼子が離れると同時に立ち上がり、微かに笑みを浮かべてそっと手を振る。
幼子はまた口を開けて言葉を発した。だが、その声は瑛藍には聞こえない。
「……さようなら」
瑛藍の言葉に、幼子は大きく頷いて、そして、大きく手を振り、橋を渡って行く。勢いよく、駆けて行く。
橋の向こうに立っている“誰か”――おそらくは女性が、瑛藍を見つめながら――笑うのが見えた。
はっきりと顔も見えないほどの距離なのに、瑛藍には、その人が笑っているのだとわかった。
「……え……?」
瑛藍はその微笑みから、今度こそ目が離せなかった。胸が締め付けられるような、ひどく懐かしい気持ちを覚えた。そこにいたのは、知らないはずなのに――知っている、人だった。
駆け出してしまいそうになる衝動を無理矢理押さえつけた。伸ばした手が空を切るとわかっていても、それでも、手を伸ばさずにいられなかった。
「……、あ……」
口が開く。名前を呼ぼうと息を吸い込んで、呼べないことに気がつく。
知らないはずなのだ。それなのにひどく懐かしい――
「――っ!」
がくん、と、足元が崩れ落ちる。伸ばした手に勢い余ってたたらを踏み、その場に膝をつく頃には、周囲の景色は瑛藍の知っている祭邑のものに戻っていた。無くしたと思われた色を、瞬く間に取り戻していた。
澄まさなくともお祭り騒ぎの声は瑛藍の耳朶を擽って行くし、橋の向こうの門番はやはりそこに立っていて、おそらくは怪訝そうな眼差しで遠くの瑛藍を見ているようだった。
幼子と女性の姿は、もう、どこにもなかった。瑛藍は全身からどっと脂汗が噴き出してくるのを感じながら、深く大きく息を吸い込んで、吐き出した。瑛藍の知っている、祭邑の空気だった。
時々誰かが連れて行かれて帰って来ないという話は、瑛藍も小耳に挟んだことがある。
所謂神隠しというもので、その行方は誰も知らない。
忘れられるほどの時間が過ぎて、突然戻ってくる者もごくごく稀にいるという話だが、“連れて行かれてしまった”者は、そのほとんどが二度と帰らない。
「……危ないところだったかも、しれませんね」
瑛藍は笑った。どこか困ったような、あるいは心なしか楽しそうな、そんな笑みを浮かべて、肩を揺らした。
もしこの時、妹の珱里が側にいたら、引っ叩かれて泣かれるくらいではすまなかったに違いないのだけれど。
「ああ、……まだ残っているようでしたら、もう一つ、頂きましょうか」
甘く冷たい、白蜜の氷菓子。喉の奥に消えてしまった味を舌の上で転がすように思い出しながら、瑛藍はゆっくりと踵を返す。
幼子の顔は、もう思い出せなかった。女性の顔も、また。
けれど、どこかできっと出会ったことがあるのだろう。それこそ、誰も辿り着くことの出来ない夢と夢の狭間のどこかで。
――誰そ彼。