第十二話 夢一夜



 例えば、この想いに名をつけるとしたら。
 恋や愛などと言った、ありふれた文字を与えるだけでは、表すことが出来ないのかもしれない。


 深夜。ぐっすりと眠る妹の隣で、瑛藍は静かに起き上がった。
 穏やかな夢に身を委ねているらしい少女を起こさぬよう細心の注意を払いながら、そっと寝台を抜け出し部屋を出る。足音を忍ばせて階段を降り切ったところで、一度、深く息を吐き出し吸い込んだ。
 冬の風はわずかな隙間から店内に入り込んできており、冷たいそれがひゅうと音を立てて喉を過ぎていく。微睡みから一気に手を引っ張り上げるようなその冷え切った感覚に身を震わせつつも、帳場の上で静かに息を潜めていた洋燈に蛍火石の欠片と小さな火を放り込んだ。
 その瞬間、淡い光がふわりと周囲に広がる。ささやかなそれを頼りに、壁に引っ掛けてあった冬用の外套を手繰り寄せ、羽織った。
 慣れているはずの動きの一つ一つが心なしか強張っているようにも感じられるのは、何も寒さのせいだけではない。
 店の外に出て扉に鍵を掛け、しっかりと掛かったかどうかを確かめてからようやく、瑛藍は吐き出す息に安堵にも似たものを混ぜ込んだ。
 空気が冷えて、静まり返っている。文字通り、そんな祭邑の夜だった。
 日中は賑やかな声も人の往来も決して絶えることのない世界だが、今はその人々が、夜明けを待って眠る時間だ。
 街の灯りが消えたことで、世界はその姿を一変させる。
 夜空に瞬く星達は、その輝きをより一層華やかなものへと変えていた。
 それを見上げる自分が吐き出した白い息すらも、例えばこの数多の輝きの一部になってしまうのではないだろうか。
 さすがに大それたことかと瑛藍は取り留めもなく思いながら、緩やかな笑みを口の端に刻む。
「……さて」
 何も星を見るためだけに、わざわざ――彼にしてみれば、の話ではあるが――万全の準備を整えて外に出たのではない。
 外に出て、行くべき場所があったから。だからそうしたというだけなのだ。
「起きていらっしゃると、よいのですけれど」
 かと言ってそれを案じている風でもない、何とも呑気な呟きが冷えた風にゆらりと溶ける。
 瑛藍はからからと蛍火石の欠片を揺らしながら、通い慣れた――蓮砂宮へと繋がる道を歩いていった。

*

 鎖碧はその時、寝台の中で一人、手持ち無沙汰に一冊の本を捲っていた。
 それはよくある架空の舞台を題材とした古い物語の本だが、その内容はまるで頭に入っていないようだった。
 連なる文字を緩慢に追ってはいるものの、眼差しは手元の本よりも遠いどこかを見ていて、捲るという行為そのものを、ただ無為に繰り返しているだけに過ぎなかった。
 例えばその手の中にあるものが、膨大な量の見合い写真の中から無造作に抜き出した何枚かであっても、彼女の視線は遠いどこかを見ていただろう。
 言うなれば、“心ここにあらず”と言ったところだろうか。
 何か案ずるようなことがあるわけではない。今日のつとめはすべて終わったし、今日成し遂げられなかったことは、どれも明日やればいいようなものばかりだった。
 窓の外は宵闇の天蓋で覆われ、瞬く星達が声をひそめて子守唄を奏でていることだろう。
 星見に興じるのも悪くはないが、今の季節の風は身を切るように冷たく、一人で見るには物寂しいばかりだった。
 世界は静かに、眠りに就こうとしている。
 けれど、自分は、眠るどころか逆に目が冴えてしまっている。
 薬師を呼んで、寝酒の一つでも用意してもらえば済む話なのかもしれないが、既に寝ているであろう彼を叩き起こすのも忍びない。
 しかし、鎖碧はこの蓮砂宮内において、そうすることを誰からも許されている人間である。
 彼女に穏やかな眠りをもたらすためなら、薬師とてその腕も時間も惜しみはしない。
 逆に、このまま眠れず明日の公務に差し支えるようなことがあったなら、何故起こさなかったのかと窘められてしまうのが目に見えているのだが――
 眠れない理由が“何となく”では彼を呼ぶには足りないだろうかと、そんなつまらないことまで考え始める始末だった。
 そして、例え鎖碧が薬師を呼ばなかったことで一晩眠れなかったのだとしても、そこは“自業自得”という一言で片付ければ済むことであるのも、少なくとも彼女にとっては事実なのである。

 こういう時、鎖碧は決まって、わずかな灯りだけを頼りにひたすら己の心と向き合うのだった。
 向き合うというのも、おかしいかもしれない。
 事実、何を考えているというわけでもない。ただ一定の動作で本を捲りながら、時の過ぎるのを待っているだけと言っても、過言ではないのだから。

 鎖碧はふと顔を上げて、己が身を置いている寝台を見回した。
 一人で眠るには大きすぎる、天蓋のついた寝台は、無論一人で眠ることを想定して造られたものではない。
 そう遠くはないいつか、彼女は妻として夫となるべき人物をこの部屋に迎え入れることになる――そのために、拵えられたものだ。
 だが、それがいつのことになるのか、鎖碧自身にもまるで想像がついていなかった。
 国の将来以前に己の将来をまるで案じていない鎖碧に対する、家臣達の気苦労は決して小さなものではない。
 特に世話係兼教育係且つお小言係としても有名な宰相楊葉ヨウハは、幼少の頃から鎖碧を側で見てきただけに、その心配は人一倍ではまるで足りないと言っても、決して過言ではなかった。
(――私が、誰かの妻となり、親になるなんて)
 声なき声は胸の内にて紡がれるもの。
 鎖碧は、この冬が終われば二十四になる。
 女としても、また蓮砂国の主としても、結婚していておかしくない年齢をとうに過ぎている。
 鎖碧が望めば、すぐにでも婚礼の儀に取り掛かることも出来るだろう。
 彼女は、それを望むことをいくらでも許されているのだから。
 しかし、重い腰がなかなか上がらないのはどうしようもなかった。
 見合い用にと用意された、山よりも高いと言っても過言ではない量の写真も、彼女との結婚を望む者達が彼女のために心と時間を尽くして綴った溢れんばかりの書簡も、何一つ彼女を揺さぶりはしない。
 鎖碧は、この蓮砂国を愛している。
 この国に生きる人々を、愛している。
 しかし、女として愛する者がいるかと聞かれたら、誰と答えることが出来ないのだ。
(――“誰か”を、愛するなんて)
 鎖碧には、兄弟はいない。
 そのため、自分が死んだ時に子がいなければ、彼女と彼女の父であった先代《鎖紅》の血筋はそこで途絶えることになる。
 例え途絶えてしまっても、それでこの国が終わってしまうというわけでもない。
 鎖碧自身には兄弟はないが、先代の《鎖紅》には、多くの兄弟がいる。
 彼女にとって従兄弟に当たる者達も、多くいる。
 ――彼女が子を残さずに死んでしまったとしても、彼女の跡を継ぐ者はいくらでもいる。
 案ずるべきはそんなことではないというのも、鎖碧は理解している。

 誰かの妻となり、親となる――それ自体に抵抗を感じているわけでは、おそらくない。
 ただ、生まれてきた子は生まれながらにして、この蓮砂という国を背負うことを宿命づけられるのだ。
 自分がそうだったとは言え、それを子に継がせなければならないというのは、何という重責だろう。
 父や母も、自分を生んだ時、同じことを思っただろうか。

 そういった気持ちが言い訳でしかないことも、鎖碧は理解しているつもりだった。
 言ってしまえば、変化を恐れているのだ――彼女がそれに気づくまでに、さほど時間はかからなかった。
(……私自身が、まるで子供のようではないか)
 鎖碧は喉の奥を鳴らして微かに笑うと、古びた本の頁をまた一つ、捲った。
 変わらないものなどない。
 花が咲いて散るように、人は生まれ、成長して、いずれは老いて死にゆくもの。
 それ以上でも、それ以下でもない。
 淀みなく紡がれていく歴史に刻めるものなど、名くらいしかない。それでさえ、ごく一部の限られた者にしか許されてはいない。

 ――こん、こん。
 そんな彼女の思考を、不意に現実へと呼び戻す音が響いた。
「……来たか」
 この瞬間を待っていたのかもしれないとついつい思ってしまう自分がいることに気づいて、鎖碧はほんの少しだけ皮肉げに口の端を釣り上げる。
 扉へと、視線を投げた。叩く音は、二回。何の変哲もないように聞こえるそれが、彼特有の叩き方だった。
「入っておいで」
 彼女の許しを受けて、静かに扉が開く。蛍火石の灯る洋燈を携えた、瑛藍の姿がそこにはあった。
「お呼びですか、桃蓮様」
「……お前はいつも、私が会いたいと思う時に来てくれるんだね」
 事前の約束もなしに、鎖碧の私室へと足を運ぶことが出来る者はそう多くはない。
 ましてや、人も寝静まる夜であるなら尚更だ。
 だが、彼は許しを得ている数少ない人物の一人だった。
「それが私の役目ですから」
 直接呼ばれたわけでもないのに、瑛藍は飄々とした、悪戯めいた笑みを覗かせながら、恭しく一礼をしてみせる。
「ちょうど、お前の淹れた茉莉花茶が飲みたいと、思っていたんだよ」
 読みかけの本を傍らに放り、鎖碧は白い絹の上掛けを羽織りながら寝台を降りた。来客たる瑛藍を出迎えるついでに、部屋の各所に置かれている部屋用の洋燈に、蛍火石と火を入れてゆく。
 さりげない指先の動きの一つでさえ、彼女がそれをすると自然とある種の気品が備わってくる。皇帝としての衣を纏わずとも、染み付いたそれは彼女の内に確かに息づいていた。
「かしこまりました、桃蓮様」
 程なくして、部屋の中にやわらかな灯りが広がる。瑛藍もまた、慣れた様子で設えられた棚の一つに歩み寄ると、茶器の準備に取り掛かった。

*

 瑛藍が手ずから淹れた茉莉花茶の香りが部屋に満ち、窓際に置かれた小さな机が、ささやかな宴の席になる。
 緩やかに流れるような彼の動作を、鎖碧は頬杖をつきながらじっと見つめていた。その視線に気づいたのだろう、瑛藍はふと顔を上げ緩く目を瞬かせてから、吐き出す息と共に笑った。
「……そんなに見つめられると、心の臓が鷲掴みにされてしまいます」
 鎖碧は軽く目を見張り、そうしてつられるように笑った。
「珱里ならともかく、お前がそんな可愛いことを言うものではないよ」
 こんな風に、ある意味くだらない言葉を紡ぎ合う瞬間が、鎖碧は好きだった。
 だからかもしれないと何とはなしに思いながら、彼の淹れた茉莉花茶を舌先で舐める。
「なあ、瑛藍」
「何でしょう、桃蓮様」
 呼べばすぐに返事が届く。当たり前と言えば当たり前のことだ。投げ返される言葉がいつも柔らかいものであることを、鎖碧はよく知っている。
「もし、私が、お前を愛していると言ったら……お前はどうするんだい?」
 ふと、その表情から感情らしい感情を一切排して、鎖碧は問いかけた。
 瑛藍は動じる様子もなく、常と変わらない微笑みを口の端に刻んで、ゆっくりと答えた。
「光栄ですよ、桃蓮様」
 それはある意味、想像していた通りの答えでもあった。だから鎖碧は眉を動かすこともなく、そのまま息をついた。
「……お前のことだ、意味はわかっていても、そう言うんだね」
「ただ、私が桃蓮様のご寵愛を頂くとなると……珱里に妬かれてしまいますね」
「そうやってはぐらかそうとする。お前はいつだってそうだね、瑛藍」
 何も彼を責めようとしているわけではない。
 だが、瑛藍は鎖碧が知らないことを、おそらくは知っている。
“それ”が何であるのかすら、鎖碧にはわからない。
 けれど鎖碧にしてみれば、それが少し面白くないのだ。
(つまらないやきもちを、焼いているようなものだ)
 鎖碧は瑛藍の藍色の瞳を見据えながら、胸中で独りごちて苦笑した。その苦さを表情に交えることはしなかったが、瑛藍の笑みが心なしか困ったようなそれに変わったのを見ると、容易く悟られてしまったのだろうと思う。
「私は、桃蓮様――貴女と同じ時間を生きている存在ではございませんから」
 唐突に紡がれた瑛藍の言葉に、鎖碧は目を丸くした。
「……時間が、違う?」
「ええ。私は……いえ、私達は、夢です。誰かが見ている、誰かの夢でしかありません。それ以上でもそれ以下でもないのです」
「……そうか」
 短くそれだけを呟いて、鎖碧は手で目元を覆った。
 ――途方もない話だと、思った。
 手を伸ばせば届くところにいて、触れることだって出来る。彼の淹れた花茶を肴に、他愛ない言葉を交わすことだって出来る。
「何故、いきなりそんな話を?」
「お聞きしたそうに、見えましたものですから」
 求めていた答えだったかと聞かれれば、素直にそうとは言えないかもしれない。
 だが、知りたかったことのひとつだと思えば、そうと受け入れることも難しくはないのかもしれない。
 自分達と同じように笑い、同じ時間を生きている――ように見える、彼は――否、彼らは、自分達とはまったく異なる存在であると言う。
 否、“存在”すら、ないのかもしれない。
 違うと聞いたところで、それを信じるのは容易いことではない。だが、彼の紡ぐ言葉を、鎖碧は不思議と嘘だとは思わなかった。
「瑛藍……お前は、……お前達は、何を見るためにここにいるんだい」
「……桃蓮様の、御心のままに。これでは答えにはなりません、か」
「お前はいつもそう言うからね、嘘を吐くんじゃない」
 まるで幼子にでも言い聞かせるような口調に、瑛藍は飄々と肩を竦めてみせる。
「お前は私からすればまるで子供だ。けれどお前は、私より長い時を生きているように見える。それも……私の想像など到底及ぶべくもない、長い、永い時間だ。お前の言うとおり、お前達が“夢”であるならば……わかる気は、しないでもない」
 鎖碧は瑛藍の瞳をじっと見つめた。瑛藍もまた、彼女の眼差しを真っ直ぐに受け止める。
 黒曜石と藍玉。深い二つの色。
 暖かな部屋の中で、時が止まる。
 呼吸の音すら響き渡りそうな静寂の中、緩く目を伏せることで、先に止まった針を動かしたのは瑛藍のほうだった。
 けれど、先に声を発したのは鎖碧だった。
「……だが、そうだとしたら……いつかは、醒めてしまうのだろう? お前達も、私達も、この、――“夢”から」
「さあ、どうでしょうね。……桃蓮様」
 瑛藍は立ち上がり、常と変わらない穏やかな笑みを浮かべながら、一歩、鎖碧の元へと歩み寄った。鎖碧はその動きを、先程そうしていたようにゆっくりと目で追いかける。
 瑛藍の手が、鎖碧のそれを取った。両手で、とても大事なものを包み込むようなやわらかな仕草を、鎖碧は拒みはしなかった。瑛藍が覗かせる笑みは一層深くなり、それを刻んだ唇を、彼女の手の甲に触れさせる。
「……どうしたんだい?」
 鎖碧は心地よさそうに目を細めながら、問いかける。瑛藍はそれには答えず静かに顔を上げると、そのまま、彼女の唇に己のそれを重ねた。
 ――こくり、と、嚥下する音が一つ、鳴った。
 桜の蜜の味がすると、鎖碧は思った。
「……瑛藍」
 唇が離れ、掠れるような声が彼の名を呼ぶ。
「一体、お前は……どこでこういうことを覚えて来たんだね」
「さあ、ご想像にお任せすると、致しましょうか」
「……まったく酷い男だよ、お前は。それでもね……例え、お前達が夢でしかないとしても、私は……」
 桜の花の香りと蜜が、確かな熱を伴って口の中に広がって、喉の奥へと落ちていく。
 甘い。だが、ただ甘いだけではない。それは、ある種の錯覚に似ていた。
 鎖碧はその意味を問おうとしたが、言葉は声にならず、瞼の裏に紛れ込んだ闇に意識そのものを絡め取られてしまった。

「お疲れのようでしたから……おやすみなさいませ、桃蓮様」
 そう声をかけても、彼女の返事はない。ただ、とても静かな寝息が、返事の代わりに届くだけ。
 瑛藍は先程までと変わらぬ笑みを湛えたまま、倒れこんでくる鎖碧の身体を抱き上げ、寝台へと運んだ。
 見た目よりも随分と軽い――などと言ったら、馬鹿にするなと追い掛け回されてしまうだろうか。
 そんな想像を巡らせたのも束の間で、彼女がひどく穏やかな顔で眠っているのを確かめてから、瑛藍はそっと天蓋を下ろした。
「――どうぞ、よい夢を」
 部屋中に灯された光が一つ一つ闇へと還り、鈍い音を立てて開いた扉が閉まるまでに、さほど時間はかからない。

 一日が終わり、夜が明ければ新たな一日が始まる。
 今はそれまでの、暫しの休息の時。

 人は皆、夢に抱かれながら夢を見る。
 夢はいつかは醒めるもの。囚われたいと願っても、永遠に囚われ続けることは出来ない。
 夢だと思いたくなくとも、醒めてしまえば、それは単なる夢でしかなかったと思い知らされることになる。
 深い絶望を覚える者もいるだろう。どうせ醒めてしまうのならば、夢など、初めから見なければよかったと。

 ――それでも人は、夢を見る。
 逢えぬ人を想い、また、逢うことが出来るのも――“夢”の中だけでしか、叶わないのだから。


20090119




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